「はい。これで日常生活には支障ないと思うから。無茶はもちろんできないけど……それにしても派手に転んだねえ」
間宮の家の石階段で盛大に転んだ僕は、そのままの足で病院へと連れてこられた。
整形外科の先生によると、僕は受身が絶望的に下手だったらしい。両手首が圧迫骨折寸前で、診察を受けるやいなや両の手を包帯でぐるぐる巻きにされ、今に至る。
「あの、パソコンとかは打てますかね……」
僕の質問に、先生は顎を持って数秒考える。
「うん、エンターキーならなんとか打てるかもね」
「改行しかできない!」
「まあまあ戸景、骨折ってなかっただけよかったよ。タイピングくらい、この味方さんがやったげるからさ」
さすがの味方も包帯を巻かれた僕には素直に優しかった。
僕と味方のやり取りを見て何か思うところがあったのか、先生は皺だらけの口元をニッとして微笑む。白髪もよく似合っているし、俗にいう『いい歳の取り方』をした人だな、と僕は思った。
「大きな怪我は両手首くらいだけれど、擦り傷も呆れるくらい沢山あるし、お風呂に入るなら相当覚悟しとかないとね……それじゃあ、お大事に」
最後に不穏なことを言わないでほしい。
味方に扉を開けてもらい、両手ミイラ状態で診察室を出た、そのすぐあとのことだった。
不意に、味方のスマホが着信音を鳴らす。
味方はそそくさと人気のないところまで移動してから電話に出た。味方がいないと扉一つ満足に開けられない僕は、当然それについて歩く。
「はい、友月です。……はい。ええ、なるほど……はい」
味方は五分ほど話し込んでいた。声のトーンからして、いい知らせではなさそうだ。
「……ごめん戸景! アルバイト、急に出なきゃいけなくなった!」
電話が終わった味方は、顔の前で両手を合わせ、心から申し訳なさそうに言った。
味方は家庭教師のアルバイトをやっている。本当は去年いっぱいで辞めるつもりだったらしいが、どうしても在籍していてほしいという塾長の意を汲むかたちで、今でもたまにこういう呼び出しを受けることがあるとか。
あらゆるところでこの悪友は超人的な人あたりの良さを披露しているらしい。誇らしいような、それを通り越して恐ろしいような。
「了解。僕は一人でも帰れるから、早く向かってあげてくれ」
「でも……どうしよう、小説まだ少し残ってるんだよね?」
「なんとかなるだろ。ほら、エンターキーなら押せるらしいし」
「改行だらけになっちゃう!」
「とにかく、大丈夫だよ」
僕は味方の目を見てはっきりと言った。別に手が満足に使えなくても、鼻でもなんでも使って書いてやるさ。
「……うん、わかった」
まだ何か言いたげな様子で、味方は頷く。
「僕がしぶといのは知ってるだろ?」
「そうだね、戸景はゴキブリだ」
「しぶといを省略するな」
僕がそう返すと、味方は笑いながら、アルバイト先に向かって走り出した。
守るものが多いと大変だな。遠くなっていく味方の背中に、僕はそんなことを思う。
さて、僕もさっさと帰ろう。
手が使えないのは不便だが、歩いて帰る分には問題ない。
むしろそんなことよりも重大な問題があることに気づいたのは、自宅に着いてからだった。
「これ、鍵開けるのはどうやるんだ……?」
自宅の鍵はいつも尻ポケットに入れてある。入れてあるのだけれど、この両手では鍵を捻るとかそういうこと以前に、ポケットから鍵を取り出すことすら叶わない。
結果、僕は自宅の扉の前で立ち尽くすことになった。
おいおい、惨めすぎるだろ。
「……味方に頼むか……いや、さすがにそれは……」
というかスマホも触れないぞ僕。
そんな僕を追い詰めるように、春らしくない冷たい風が吹く。
「ハッ、ハクション!」
泣いていいかな。
「……あの、戸景先輩……?」
ちょうど僕の目から涙が一粒落ちそうになっていたころ、聞き馴染みのある声がした。
「……黒卯!? なんでこんなところに」
僕の問いに、黒卯はすごい勢いで目を泳がせる。
「ま、まあいいじゃないですかそんなことは! それより、なんですかその怪我!」
「……ああ、えっとその、ちょっとな……」
「ちょっとの怪我にはとても見えませんけど」
さすがに、理由を言わないのは無理があるか。
「……実は、な」
僕はひとまずこの窮地から脱するために、間宮の家に差し入れを持って行ったこと、そこで間宮の家の飼い犬から逃げて階段から落ちた旨を話した。
話が進むにつれ、黒卯の顔色は明らかに呆れを含んだものになっていったが、背に腹は代えられない。
「……なるほど、ちょっと受け入れがたいところはありますが、ひとまず戸景先輩の現状には納得できました」
黒卯は難しい話を聞かされたような顔をしながら、僕のポケットの中の鍵をとって、開かずの扉の開錠をしてくれた。
「……助かった」
「自宅に入れただけですよ」
いざ言語化されると、さっきまで立ち呆けていた時間に虚しさが増すな。
「でも、本当になんでここにいたんだ? 体調は大丈夫なのか?」
「おかげさまですっかり元気になりました。ここにいたのは……その、」
黒卯は言葉に詰まる。
本当は、なんとなくわかっていた。
あれだけ僕の力になりたがっていた黒卯が、風邪をひいてまだ万全でもない体を引っ提げてまで僕の家の前にいたのか。
そんなの、決まっている。
「もしよかったら、なんだけど。手、貸してくれるか? 文字通り、人の手を借りないとどうにもならなそうなんだ」
「……はい!」
黒卯は心から嬉しそうな顔をして、急いで靴を脱いだ。脱ぎ捨てられた靴が踊るように玄関を転がる。
やりたいこと、とっくに見つけてるじゃないか。
そう口をついて出そうになるのを堪え、僕は先んじて自室に向かう黒卯の後を追った。
「さて、さらっと読む感じ、残るは最後のひと台詞だけって感じですね」
僕のパソコンの画面を覗き込みながら黒卯は呟く。
「ちなみに、もう最後の台詞って決めてあったり?」
「まあ、なんとなくは……でも、もう少し考えをまとめたいところはあるな。候補はいくつかあるんだけど……」
僕が続きを話そうとすると、黒卯の人差し指がそれを制止する。
「いいです。そのまま、戸景先輩は自分の頭の中で考えていてください。……その間に、私はどこか修正点が他にないか、一度最初から最後までを通しで読みます」
「通しでって、結構長いぞ?」
「大丈夫です」
そう言うと、黒卯は手首に付けていたヘアゴムを口に咥え、艶やかな黒髪を一つにまとめると、うなじの付近で一つに束ねて固定した。
「私、戸景先輩の小説が大好きなので」
それは理由になっているのか、とは思いつつも、一変した黒卯の雰囲気を前にして僕は言葉を失っていた。
静かに、そして素早く小説を読み進める黒卯の横顔に、僕は安心感みたいなものを抱いていた。
自分の文章を目の前で読まれるのは正直怖い。素手で内臓を触られているような無防備さと、どんなふうにこき下ろされるだろうという被害妄想が頭の中で不安の渦を巻いて、思わずその場から逃げ出してしまいたくなる。
でも、今は違った。
黒卯になら、任せても大丈夫だ。
僕は目を瞑り、今までの展開をもう一度頭の中で振り返る。
他人と生きることが苦手で、好んで孤独な日々を送っていた『僕』。
そんな『僕』に、うっとうしく関わってくる、個性の塊みたいな『友人たち』。
『僕』はそんな彼ら彼女らとの交流の中で、他人にも自分と同じような無力感や、絶望、やりきれなさがあると知る。それでも目の前の彼らはとても輝いていて、強く見えて、ときにはこんな自分のことさえ心の底から羨んでくれて。
「……なんだ」
今の僕と、一緒じゃないか。