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第25話 信じる者だけ馬鹿になれる


 部屋を出ていった三門のあとを追いかけてあらぬ誤解を解くのに五分ほど要してしまったが、僕の必死感も伝わったのか結果的に三門は勘違いを認めてくれたようだった。


「なんだ〜熱を測ってたんですねえ。てっきりうち、二人が××してんのかと思っちゃいました」

額の汗を拭うような仕草をしながら、三門はしれっととんでもない発言をする。

「そんなわけないだろ。放送コードに引っかかることを平然と言うな」

「でも、かさねんも熱出ちゃうとは……。友月先輩もまだ寝ちゃってますし……困りました」


 泡を吹いて倒れている味方をちら、と見て、三門は憂う。この状態を『寝ている』と表現するのは強引な気もするが、確かに困った。


「とにかく、黒卯は家に返した方がいいかもな。というか、僕もかなり体調よくなってきたし、ここらで解散するのもありかもしれない」

「ううん……確かにそれが安牌な気もしてきました……」

「……待って、ください」


 僕と三門の意見が解散の方向に落ち着きかけたそのとき、ベッドで寝ている黒卯が振り絞るようにそう口を挟む。


「かさねん!」

「黒卯、無理するな。かなり熱もあるし、何より体が辛いだろ」

「熱があっても……小説は読めます……先輩の、力に……」


 黒卯はもう半分意地で言っているようだった。


「とにかく家に帰って休んだ方がいい。僕は大丈夫だから、」

「大丈夫じゃ、ありません。先輩も、まだ本調子じゃないでしょ?」

「今の黒卯よりは遥かに元気だよ」


 僕がきっぱり言うと、黒卯は潤んだ目をして少し俯いたあと、やはり諦めきれないというふうにもう一度顔を上げた。


「……私に、役割をください。お願い……します……」


 黒卯はなんとか言い終わると、また目を瞑ってしまった。


「……どうします? あれやったら、かさねんだけでもうちが連れて帰りましょうか」


 僕と黒卯のやり取りを黙って見ていた三門が、恐る恐るといった様子で訊ねる。

 この状況下で、どうしてやるのが黒卯のためになるのだろう。もちろん、体のことを考えれば帰らせるのが一番正しいはずだ。

 でも、黒卯が求めているのは正しさなんだろうか。


「……また目覚めたら、本人の意思をもう一度聞こう。申し訳ないけど三門、黒卯と味方の様子を見といてもらえると助かる。味方も、場合によっては黒卯よりも重症そうだし……」

「全然ええですけど、先輩は?」

「書くよ。僕が早く書けば、黒卯たちも後腐れなく帰れるだろ」

「さっすが合理的な判断です。我がライバルだけありますよ」

「それは光栄だな」


 二人のことを三門に任せた僕は、改めて机に向かった。

 今日はもうかなり書いたつもりでいたけれど、不思議と指が動く。

 これも黒卯のおかげかな。


「……『らしくないな、と思いながら、でも存外嫌な気持ちはしなかった。多分、自分らしさよりも心地のいいものを、これまで僕は知らなかったのだ』」


 書いている文章にも、どことなく今の心境が反映されているような気がした。

 小説の中にどんどんと自分の細胞が溶け込んでいるようで、キーボードの一打一打が惜しく思えるような感覚。

 こんな感覚になるのは久々だった。

 楽しい。ただ、楽しくて僕は書いている。

 ――なあ、名残。

 お前はこんなふうに書いてるかよ。



 カタカタ、と自分がキーボードを叩く音だけが部屋に響く。

 とうの昔に黒卯もその看病にあたっていた三門も寝てしまって、味方に関してはタオルケットを掛けられてはいるものの帰宅直後の状態まま。それはそれで大丈夫なのか?

 部屋の電気も消して、ノートパソコンの画面の放つ光で手元を見ているような状況だったが、僕の手はもうずっと止まっていない。

 あと少し、あと少しだ。

 本来ラストを迎えるべきタイミングはとっくに過ぎていた。それでも、物語が終わりたくないと言っているみたいに、次々と書くべきことが浮かんでくる。

 いい小説だと振り返れるようなものを書き上げるときは、決まってこういうふうになる。と言っても、今までにそんな経験は一度か二度くらいだけれど。

 頭の中の、見えない糸を手繰るようにして文章を重ねる。小説を信じて、紡いできた物語を信じて。呼吸すらも集中の妨げになりそうで、しばしば僕は息を止める。


「……かさねん、大胆やなあ」


 どうやら三門はすごい夢を見ているらしい。ちょっと気になるな、いや気にならない。気にするな僕!

 背中の後ろに眠っている三人がいるということを、句読点を打つたびに意識していた。そして、間宮のことも。小説の中の『彼』もまた、居心地のいい孤独から、一歩前に出る。他人と関わる意義を知る。

 いつになく前向きな終盤だった。


「……これは、僕一人じゃ書けなかったな」


 そして最後の主人公のセリフのところまで来たころには、窓枠の外に朝日が昇り始めていた。かすんだ視界にカーテンの隙間から日光が刺さる。


「う……ん……」


 背後で人の気配がして振り返ると、味方が頭を押さえながらのそりと起き上がっていた。

 よかった、あのまま目覚めなかったら死因はなんになるのか心配だったからな。


「おはよ……なのかな」


 味方は今が何時なのかもわかってなさそうな様子だった。

 まあ無理もないか。


「ああ、おはよう」

「肉まんは?」

「起き抜けに案ずることか? ちゃんと冷蔵庫にしまってあるよ」

「ほっ」


 味方は胸を撫でおろしてから、他の二人を起こさないようにそっと静かな動きで僕の近くに歩み寄る。

 そして僕のパソコンの画面を見た味方は、もう一度安心したように息をついた。


「よかった。もうそろそろ書き終わりそうだね」

「改稿もしなくちゃいけないから、相変わらず余裕ないんだけどな」

「それでも、だよ。あんだけ頑張ったんだから、間に合わないなんてことが起こるより全然いい」


 そう言う味方の横顔には、いつも感じないような雰囲気があって、なんだか僕は上手く言葉が紡げなかった。それだけ、期待されてるってことなのかもしれない。


「そういえば、昨日って私いつ寝たんだろ……梓帆ちゃんと一緒にコンビニから帰ってきて……それからどうしたんだっけ」

「ま、まあいいだろ、そんなの。きっと味方も疲れてたんだよ。……ああ! 二人もそろそろ起こしてあげた方がいいかもな! そうだそうしよう! ほら、僕は三門を起こすから、黒卯を頼む! 黒卯は体調崩してるからそこも見てあげてくれ!」

「えっ!? かさねちゃんも風邪ひいちゃったの!? てか……戸景もまだ体調悪い? さっきからすごい汗だけど」

「ええっ!? 別になんでもないけどなあ! いつもより人口密度高いし、暑いのかなあ!?」

「暑いって……ドアも開いてるし窓も開いてるけど」

「おはよう三門! 朝だぞ! いい朝だ!」


 味方の指摘から逃げる口実として、僕はベッドのそばに寝ている三門を揺すり起こす。 すまん三門! 僕も命が惜しいんだ!


「戸景先輩……責任逃れは……最低や……」


 おい起きろ! 夢の中でまで僕を追い詰めるな!

 それからしばらくの格闘を挟み、僕は無事三門を起こすことに成功した。


「……おはよう……ございま……」


 口元に垂れた涎を袖口で拭い、三門が言う。まだ半分ほど頭が眠っているようだった。


「あ……かさねんは?」


 三門は体を起こすや否や黒卯の安否を確認しようとする。その視線の先には、昨日よりずいぶんと顔色がよくなった黒卯が、味方からもらった白湯の入ったマグカップを持って座っていた。


「おはよう、梓帆」

「かさね~ん!!」


 黒卯の顔色が戻ったのが嬉しかったのだろう。三門は寝癖でボサボサの髪の毛を激しく揺らしながら黒卯に抱きつこうとする。が、その目論見は味方に首根っこを掴まれるかたちで失敗に終わった。


「嬉しいのはわかるけど病人にジャンピングハグしないよ~」

「ああ……今うちの中の残機が減りました……」

「まずはその寝癖を直してHP回復しないとねえ」

「いやいや友月先輩、これはその、特殊なスキルを発動する際の副作用やから……」

「うんうん、そうだねえ」

「もしかしてうちの言うこと全然聞いてませんね!?」


 味方はそのまま三門を洗面所に連行し、部屋には僕と黒卯だけが残った。

 朝から賑やかなやつだな。


「戸景先輩。……小説はどうなりましたか?」


 ずっと眠っていたことに後ろめたさを感じているのか、黒卯が躊躇いがちに切り出した。


「大丈夫だよ。あと、本当に最後のところを詰めて読み返せば完成だ」


 僕がありのままを答えると、黒卯は自分の手元を見つめるように数秒俯いたあと、心底安心した声で呟いた。


「そっか……よかった」


 黒卯の大きな瞳から、透明な雫がひとつ静かに落ちる。


「あ……すみません、私……」


 何か声をかけるべきだろうか。でも、何を?

 ふさわしい言葉が見つからないでいると、すぐに味方と三門が部屋に戻ってきた。

 黒卯は慌てて目元を拭い、顔を見られないように壁へと視線を逸らした。


「小説も書き終わりそうだし、これで私たちはお役御免かな。……いまいち役に立てた実感はないけど」

「ですねえ」


 すっかり寝癖を矯正され、肉まんを片手に持った三門が同意する。いやあれは角煮……。


「……それなんだけど。味方だけちょっと残ってもらってもいいか? 本当に、野暮用なんだけど」


 僕が言うと、味方は何かを察したように口角を上げた。


「部長命令なら仕方ないなあ」


 それから間もなく一年の二人は家に帰った。黒卯は玄関から出るその瞬間まで、どこか口惜しそうな様子だったが。


「……で、行くんでしょ?」


 二人きりになった部屋で、味方がもう僕のしたいことなんてお見通しって態度でそう言った。そして、実際に彼女の予想は当たっている。


「ああ。なんだか自分だけ介抱されるのもな。たまにはお節介をしたくなった」

「へえ、らしくないこって。いや、一周回ってこれも戸景っぽいか……」

「味方の中の僕、ずいぶんバリエーションが豊富だな」

「伊達に一年も戸景日向の友だちやってないよ私も。戸景の個人情報なんか、いつでも大安売りバーゲンってわけ」

「まっさきに告訴すべき相手がいて僕は幸せ者だ」

「どんな内容でも私が勝つけどね」


 異議なし、だ。

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