「あ、おかえり」
激美味煮込みうどんの片付けを手伝ったあと自室に戻ると、さっき途中で離脱した味方が、僕の本棚から文庫本を取りだして勝手に読んでいた。相変わらず僕のベッドで。
「ただいま……って家の中で言うのも変な感じだな」
「私的には、戦場から帰った兵士を迎えるような気持ちだよ」
「そんなに怖がらなくても、試しに一口食べてみればよかったのに」
「あれ、かさねちゃんと梓帆ちゃんは?」
味方は僕の後ろに誰も続かないのを見てそう訊ねる。
見事に試食の提案はスルーされたな。
「なんか二人とも歯ブラシを忘れたって言って、さっきコンビニに。鍋といい、肝心なものを忘れすぎなんだよな」
僕が思わず愚痴ると、味方は読んでいた本をパタリと閉じて、虚をつかれたような顔をする。
「私も……ない!」
お前もかよ。
「ええ〜! かさねちゃんに電話したら間に合うかなあ」
そう言って味方がかけた電話の着信音は、悲しいことに一階の方から小さく聞こえてきた。
「二人とも、スマホ忘れていったぞ」
「そんなことある!?」
はあ、と大きくため息をついた味方は、仕方なしという感じで立ち上がり、気だるそうな歩みで部屋を出ていった。
そして誰もいなくなった。
こう、なんだろう。いざ急に一人になってみると、ぽつんと取り残されたような気分になるな。
「……とにかく、書かなきゃ」
黒卯のおかげでお腹も満たされたことだし、まずは初稿を完成させないと。それこそあいつらに見せる顔がなくなる。
それから三十分、僕は一人で小説を書き続けた。
近所のコンビニに行ったにしてはあまりに長い空白の時間を挟み、玄関のドアが開く音がする。
トットットッ、階段を小走りで駆け上がってきたのは、黒卯ただ一人だった。
「くっ、黒卯かさね、ただいま帰りました!」
肩で息をしながら現れた黒卯は、半ば崩れ落ちるように部屋に入ってきた。
いやいや、コンビニに歯ブラシ買いに行っただけだよな?
「……どうしたんだ。すごい汗だけど。コンビニって、十分くらい歩いたところにあるよな?」
僕は引き出しから畳んで入れてあるタオルを一枚引き抜き、黒卯に渡した。軽く礼をして僕の手からタオルを受け取った黒卯は、首元に浮かんだ汗をポンポンと叩くように拭きながら答える。
「梓帆が、いきなりゲームをしようとか言い始めまして……。なんかずっとゲームやりたがってたのをスルーしてたし、付き合おうかなって承諾したんですけど……。そしたら、『じゃあこのルーレットを回して出た目の分遠いコンビニまで行って先に戸景先輩の家に帰れた方が勝ち!』とか言い始めて……」
「ああ、全てを理解したよ」
三門が加害者で、黒卯が被害者ということもな。
「何も考えず走ってたら、なんか梓帆の姿が後ろに見えなくなって、なんでか帰る途中もいなくて、意味わからなくて」
おい!
ゲームマスターが迷子になってんじゃねえか!
「大丈夫だ、きっと戻ってくるよ。もし戻ってこなくても、黒卯が気に病む必要はない」
「清々しいほどドライな対応ですね」
「まあ、三門の件は味方に伝えとくよ。なんかあいつも歯ブラシ買いに行ったっきり戻ってきてないしな」
「もしかして今ごろ、合流したりしてて」
「さすがにそれはないだろ……」
スマホの連絡先から『友月味方』を探し出す。そもそも僕の持っている連絡先の中で使う可能性があるのは家族と味方くらいのものなので、一瞬で見つかった。
通話ボタンを押し、着信音が二回鳴り終わる前に味方は電話に出る。
「はいはい私だよ」
どうやら味方はコンビニのそばにいるらしく、電話に出た彼女の後ろで入店音が鳴るのが聞こえた。
「ああ、僕だ。黒卯が今戻ってきたんだけど……」
「梓帆ちゃんなら私と一緒だよ。今から肉まん買って帰るとこ」
肉まん好きだな。
いや、それよりも。
「……本当に一緒にいるのかよ」
「さすが友月先輩ですね」
「なんか私がコンビニに向かってたら、すぐぜえぜえ言いながら走ってる梓帆ちゃんと会ってさ。なんか『負けた……かさねん……』ってうわ言みたいに呟いてたからほっとけなくて」
僕は一度通話口を手で覆い、黒卯に訊く。
「そういえば、黒卯は味方とすれ違わなかったんだな」
「私、最後の方は近道通って帰ったので」
納得。
要領のいい子だ。
「……わかった。とりあえず無事ならよかったよ」
「あいあい! ちなみに戸景は肉まんピザまん角煮まんの中だとどれが好き? 黒卯ちゃんにも訊いてメッセージで共有よろしく!」
「いや別にいらな……」
「じゃ!」
プツッという切断音で通話が終わる。
もう慣れてるけど、マイペースすぎるよな。
「味方と三門、もう少し買い物したら帰るって」
「ふむふむ。では、それまでこの部屋には私と戸景先輩の二人きりということですね」
「……まあ、そういうことになるな」
「なんだか、緊張してきちゃいますね」
「あ、ああ」
なんだ?
改まってそんな発言をされると、さすがに意識するというか。
確かにこの部屋には僕と黒卯だけしかいないけど? そ、そんなことなんていくらでもあるだろ? ね? ほら、部室とかだとさ!
「戸景先輩の部屋、なんだか落ち着いて眠くなってきちゃいますね」
どこかとろんとした目をして黒卯が僕のベッドに頭を置く。どうしたんだよ黒卯さん。心なしか、なんか顔も赤くないか?
「いや黒卯、あのそのな! 僕はその、全然そういうの慣れてないというか、いや下心があって言ってるわけじゃないけどな! 断じて! そもそもそんな積極的なやつなら彼女の一人くらいできるはずというか、だから僕にはそういう素質がそもそも……」
「ふんふんふんふん」
ああダメだ。
「?」って感じの顔してらっしゃる。
頬を赤く染めた黒卯は、頭どころかほとんど全身をベッドに預け、というよりもう寝る体勢に入っていた。
え、もうこれってそういうルートに入っちゃったんですかね!?
いやいや待て待て! まず話を聞いてくれ! な?
「先輩も寝ますか」
お前今すごいこと言ってるぞ!?
「なんて、冗談……です……けど……」
言いながら黒卯はそのまま眠るように目を閉じてしまった。けれど、少しして僕は彼女の異変に気づく。
どうも息が荒いというか、必死に呼吸をしているような音がしていた。というか、さっきから様子が変だし、この顔が赤いのだって、もしかすると。
「黒卯、まさか僕の風邪が……」
苦しそうにベッドで眠っている黒卯の額に手を当てた、その瞬間、部屋の扉が勢いよく開く。
「ただいま〜! 全然メッセージ送ってこないから全種類買っちゃったよ〜……って、あれ?」
味方はベッドに横になる黒卯と、そのベッドに片膝をついて熱を測っている僕を視認すると、そのまま白目になって倒れた。
「ええっ!? 友月先輩!? どうしたんですか!? って……あれ?」
そして遅れてやってきた三門は倒れている味方と僕たちを交互に見たあと、
「ごゆっくり」
と言って静かに扉を閉めたのだった。
えっ……と。
「誤解だ!!」