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第6話 黒い歴史は水洗い

 え?


「え?」


 は?


「は?」


 つい心の中と現実の両方で聞き返してしまった。


「僕の小説の……ファン?」


 改めて質問を受けた黒卯は、どこかくすぐったそうに笑い、それから右手に持ったスマホの画面を僕の眼前に突き出した。


「はい、そうですとも。ほら、これ見てくださいよ。戸景先輩ができあがった小説を続々投げている個人サイト、『丑三つ時の散歩道』の会員画面です」


 それは確かに僕が中学時代から密かに運営していた小説用の個人サイト、それも有料会員画面だった。

 基本的に僕は過去数年間の小説しかそのサイト上には残していない。賞をもらい、プロ作家の端くれになってからは更新すらしていなかった。

 だから中学時代、普段は非表示にしている過去記事を全て閲覧することができる、誰得特権を持った有料会員制度なんてものを冗談半分でつくったということを、僕はこの瞬間まですっかり忘れていた。

 いや、個人サイトの有料会員になんてなるやつ、本当にいるのかよ。


「……つまり、黒卯はここにあるコンテンツを……全部……?」


 過去の小説が拙い、そんなことはもはやどうでもいい。

 非表示にしたコンテンツの中には、アレがあるんだ。

 アニ研での日常で屈折していた中学生の頃の僕がひたすら現実逃避のために恋愛ポエムを書き落としていた、毒沼のような混沌黒歴史日記が!


「はい、『戸景日向、徒然恋愛譚』までしっかり読みました」


 頭の中で何かが弾けたような音がした。

 もしくはあれ、ベイブレード。脳みその中にベイブレードを思いっきり撃ち込まれたみたいな衝撃。カオスインパクト。

 とにかく、僕は狂った。

 プシュー! 頭蓋骨から空気が抜ける音! ポッポー!

 おおよそ力と呼ばれるものが全て体外へと抜け去り、僕は膝から地面に崩れ落ちていく。


「あああああああああああああああ」

「戸景先輩が壊れた!?」

「恥ずかしいいいいいいいいい」

「いやいや、私は戸景先輩の文章、全部好きですよ! じゃなきゃお金を払ってまで読んだりしませんって!」

「恥ずかしいいいいいいけど嬉しいいいいいいいいい」

「両極端な情緒で引きちぎれそうになっている! 上半身と下半身が時計回りと反時計回りに回ってますよ! ダメですダメです! それダメ! コアが! 体のコアが壊れちゃいますって!」


 アスファルトの上で浜辺に打ち上げられた魚のように跳ね回る僕と、それを必死に止めようとする愛すべき後輩、黒卯かさね。

 これって好意的な目で見れば、結構仲良く見えたりしますかね。どうですか。


「ああもう埒があきませんね! 来てください!」


 僕が見当違いな方面に希望を探していると、痺れを切らしたと言わんばかりの勢いで黒卯が叫んだ。と思えば、次の瞬間、彼女は僕の服の首元を引っ張って歩き出した。

 ズリズリ!

 ズサズサズサ!

 え? 嘘だろ?


「あ? え?」


 痛い痛い痛い! 地面に面してるところの全部が! 鮮烈に!

 黒卯は僕を引きずったまま、近くの公園に入っていった。たまたま無人だったからよかったものの、誰かに見られたら通報案件くらいの絵面だぞこれ!

 現状にパニックを起こしていた僕の視界には、オレンジ色の空と、こちらを向く手洗い用の蛇口の姿が映った。


「……ちょ、待っ」

「心頭滅却」


 キュッ! という音とともに滝のような勢いの水道水が僕の顔面に襲いかかる。目、鼻、口。ありとあらゆる器官が冷水によって直洗いされ、さっきまでの恥ずかしさなんて考える余裕はなくなった。

 いや息! 呼吸が、呼吸するための穴が全部埋まってるってこれ!


「ぶぼぶ! ぼぼばびぼぼぶばばばぼべべぶべ!」

「『黒卯! もう大丈夫だから止めてくれ!』ですね、かしこまりました」


 水音の向こうで再び聞こえるキュッ! という音。

 幸いなことに、今度のそれは救済の合図だった。


「がほっ! ……かはっ、ごほごほ……はあ……」

「はあっ……はあ……どうです! 落ち着きましたか、戸景先輩」


 肩で息をしつつ、しかし晴れやかな顔で黒卯が訊ねてくる。

 現在進行形で死にかけてるんですが? なんでそんなに達成感に満ちた顔をしてるんだ。


「……ああ、おかげさまで落ち着いたよ」

「何よりです。まさかあんなに取り乱すとは」


 取り乱すだろ。自分でも忘れていた真っ黒歴史をまだ出会って間もない後輩に掘り起こされたんだか

ら。


「あのサイト、いつ見つけたんだよ」

「先週末です」

「先週末って……見学に来てすぐじゃないか」

「好きなんですよ、調べもの」


 にしても度が過ぎる。


「……まあいい。その、三門たちには?」

「教えてませんよ。二人とも、小説とか全然読むタイプじゃないですし。それに、私は独り占めの方が好きなんです」


 言いながら、黒卯は僕の濡れた髪をハンカチで拭いた。

 もちろん僕の濡れ具合からいってそんなのは焼け石に水のようなものだったが、こんなに近距離で人の顔を見ることがないので妙に緊張してしまう。息とか、しない方がいいんだろうな。


「本当に戸景先輩は女の子に慣れてないんですね」

「それ、場合によってはすごく失礼なんじゃないか?」

「失礼のつもりで言いました」

「確信犯かよ」


 さすがに黒卯の前で濡れた制服を脱ぐのは躊躇われたので、できる限りの範囲を絞って少しでも乾きが早くなるようにしてから、よく風のあたるベンチに座った。もちろん夕方の日差しでは完全に乾くはずなどないので、気休めにしかすぎないけれど。


「風邪、引いちゃいますよ」


 濡れた子犬、ならぬ濡れた先輩の面倒をみてくれた(そもそもの原因が彼女にあるということはこの際忘れよう)黒卯は、そのまま僕の隣に腰掛けて温い風を浴びていた。


「お前が言うか?」

「仕方ありません。不可抗力です」

「さすがの僕でもこれが不可抗力じゃないことだけはわかるよ」

「いいじゃないですか、イカサマして後輩に勝った天罰だと思えば軽いものです。昔の小説のセオリーだと、ズルをした人は大抵地獄に落ちますが、戸景先輩は公園の手洗い場で溺れただけで済みました」

「いつの間にか僕がイカサマを企んだみたいになってるな!?」


 仲睦まじく談笑をする僕たちを尻目に、公園はどんどんと暗くなっていった。

 二十分ほどが経ち、さすがにそろそろこの後輩を家に帰してやらなきゃな、と思い立った僕がベンチから立ち上がろうとしたそのタイミングで、黒卯が口を開く。


「嫌ですか」

「え?」

「その……先輩は、私がファンなの、嫌ですか」


 物悲しささえ感じさせる瞳で、黒卯は僕の方を見上げていた。


「私、本当に戸景先輩の小説が好きなんです。だから、先輩が作業できる空間を守る、その手伝いがしたい。戸景先輩が小説を書きあげる瞬間を、そばで見ていたいんです」


 他人に対して、こんなふうにまっすぐな言葉を口にすることが、僕にはできるだろうか。黒卯の真剣な眼差しを前に、そんなことをふと思った。目の前の後輩は、確かに僕のために勇気を振り絞ってくれている。


「……それが、今日、僕を助けてくれた理由?」

「はい。完全に、私の、私だけのわがままです」


 人間不信である僕にも、黒卯の言葉が本心であることくらい分かった。


「なんだろ。こんなふうに真正面から自分の小説を好きだなんて言われたの初めてで、ちょっと反応に困ってるのが正直なところなんだけど。その、嬉しいよ」

「『何』が、嬉しいんでしょう」


 絶対分かっているくせに、黒卯はとぼけたフリをして訊く。こいつも中々にいい性格をしているな、と思いつつも、僕はちゃんとその内訳を口にした。


「さっき黒卯が言ったこと、全部」

「……ほあっ」

「何、今の音」

「いや、完全になんでもないですね」

「? ならいい……けど」

「いいんです。完全納得、異常皆無、です」

「その熟語キャラ、早くも限界迎えてないか?」

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