「担当が、変わる……?」
昨夜蛇の目の情報を得た末、今までの状況を理解した盞は、家に戻ってからプロットの一部を修正した。
そして、今日は担当編集である松笠が内容を確認する――筈だった。
「え、あぁ……はい。はい、分かり、ました」
朝一番に入った連絡は、松笠が退職したという内容であり、それに伴い担当が変わる……と。
「……」
なんとも形容し難く不安が募る。
「朝から厄介ごとですか?」
付きっきりで作業を見守っていた林道は、二つのマグカップの内片方を作業机に置いた。
「あ、あぁ……玲さん、ホットミルクありがと」
盞は一口味わった後、話を続ける。
「なんかね、担当が変わるって。松笠さん、退職したらしーよ」
「おや。唐突ですね」
「だから、別の人が確認するみたい。……って言っても、ずっと編集部にいるベテランさんだから、別の意味で不安だなー……ダメ出し多そ」
「そっちはあまり気にしなくても宜しいかと。問題は――松笠の居場所です」
林道は最悪の事態を警戒している。
それは、盞――そして百日の目の存在を知られた可能性だ。
その場合、この二人に未来がないということを、林道はよく理解していた。
「松笠さん、何処行ったんだろね」
盞も林道ほどではないが、警戒心と不安を覚えていた。
「……まあ、松笠家は『公正』を重んじる家柄です。恐らくは、自分の目で物事全てを判断することはあれど、唐突に誰かの未来が絶たれることはないかと」
林道の予想では、松笠がこの町に来るまでには多少の猶予はある。
身軽に動ける立場である松笠家だが、結局は命がなければ実行には移せない。
その命を下すのが、蛇目家であろうと――林道家であろうと、だ。
林道家、そして蛇目家、どちらも時に大胆な命を下すことがある。
例えば――今後双方にとって邪魔な人間の排除、なども厭わないのだ。
(もう、関わりがないから手がかりがない――というより、巧妙に逃げられている、が正しいか)
林道の思考に浮かぶのは、過去に起きた事件の数々。
それは、林道自身が元々得ていた情報だけではなく、君谷の情報共有もあった。
「兎に角、今日は俺にとっては勝負の日だから……緊張するぅ……」
「それを和らげるためのホットミルクですよ」
「うぅ……美味しい……」
「それは良かった」
林道自身もホットミルクを口にする。
盞の勝負の日、つまりは此処で意図的に造られたスランプから開放されるか否か――それは、林道にも関わることだった。
だからこそ、林道自身も落ち着く必要があった。
かつての好物であるホットミルクを口にする。
思い出の味は、未だ再現出来たことはない。
林道自身、自傷行為の様なものだと分かっていながらも、縋ってしまうのだ。
――穏やかな日々の思い出に。
しかし、その思い出も湯気と共に空へと消え行く。
勝負の日。
林道にとっては手がかりを手に入れるたった一度のチャンス。
盞にとっては、起死回生を狙った何度目かも分からない挑戦。
目的は違えど、願う答えは同じだった。
(今回こそ――通りますように)
盞は覚悟を決めたようにホットミルクを飲み干した。
「じゃあ、玲さん――」
「ええ、健闘を祈ります。僕は君谷さんのお店で待っていますね」
「うん、行ってらっしゃい! 必ず、良い知らせを持って行くから!」
一足先に君谷の元へ向かった林道は、君谷へ今日盞の身に起きたことを伝えた。
「そう、ですか……松笠が……なるほど」
「やはり、
「……林道さん」
「はい?」
君谷は、純粋な疑問を林道に投げかけた。
「林道さんは、松笠家の者と会ったことはありますか? ……俺、どうしても腑に落ちないことがあって」
「僕自身は会ったことは無いですが……ある程度のことなら、恐らくは答えられるかと」
「じゃあ……」
それは、君谷の純粋かつ悲痛な疑問。
「何故『公正』を重んじる家が、両家からの命は正しさを問わず、遂行するんですかね」
そして、林道が持ち合わせている答えは――林道自身が一番腑に落ちないものだった。
「それは……僕らと価値観が違うから――いえ、正しさが違うからです」
「正しさ、が……」
「彼らはきちんと公正に判断しています。自身の目で確認し、頭で判断する。等しく、そして正しく。彼らの『正しさ』は蛇の目――もっと言うのなら、蛇目家のためのもの」
林道は空を睨みつけながらも、続きを口にする。
「蛇目家のとって、正しいものはどんな内容でも遂行します。例えそれが――一般人の命に関わることであっても、それが『正しい』と判断したのなら、彼らは……」
「……厄介な家、ですね。どうしようもない家、とも言い換えられるかもしれませんが」
正しさ、という曖昧な概念の中、松笠家が信じるものは一つであるから分かりやすく――そして、理解しがたい。
何故なら、その影響を受けた人物を知っているから。
「もしも、本当に松笠がこの町へと向かっているのなら――俺には時間がないかもしれません」
「……それは、どういう?」
「分かりやすく邪魔者でしょう? こんなに情報を持った人間なんて」
「っ、君谷さん……貴方……」
君谷は林道の手を掴むと、しっかりと林道の――その目を見た。
「林道さん。この先何があっても、自分を恨まないで。自分の信じた道を行って」
力いっぱい、その手を握り宣言する。
「――俺が、保証します」
「……君谷さん」
「貴方が抱いた感情に間違いはない。そして――貴方の今後を、俺は止めません」
君谷は林道の行く道、そして目的を察していた。
最終的にどんな手段を使うか――そこまで分かっていても尚、君谷が止めることはなかった。
「貴方は……それでいいのですか」
「事の良し悪しは……正直、分かりません。少なくとも、法は貴方を許さないでしょう。けれど、俺は――林道さんが信じた道の先の未来……そこでやっと、真の自由があると思うんです」
その手は震えていた。
誰にとっての自由か――そんなもの、聞かなくても林道は察しがついた。
(どこまでも、盞さんのため、なんだな。自分の命に代えてでも――盞さんの自由を願っている)
「影ちゃん! 玲さん!」
喜びが隠せない声と共に、店の扉が乱暴に開いた。
「大人しく開閉も出来ないのか……って何度言っても無駄だったな。どうした?」
何事もなかったかのように盞の方へと向かい、表情や行動――そして言動全てを普段通りに応対する。
「チェック、オッケー貰いました! ついに通ったんだよ!」
「そうですか、それは良かった。おめでとうございます、盞さん」
後ろからやってきた林道は、素直に祝いの言葉を口にした。
一方で君谷は誂うように、素直じゃない祝福を口にするのだった。
「また打ち切られんなよ、勝負はここからなんだから」
「分かってるよー。一先ず、漫画家として起死回生の第一歩ってっことで! 春花先生の次回作にご期待ください!」
「……それ、打ち切られてないか?」
仲の良い幼馴染の会話に、林道は思わず笑みがこぼれた。
そして――これで、二つの約束が果たせることに安堵した。
「通った、ということは僕との約束、忘れてませんよね?」
「鈴ちゃんに会いに行くやつでしょ? まっかせてよー、俺だって鈴ちゃんの近況は気になってたしね」
ピースサインを突き出し満面の笑みを向ける盞を、君谷は名残惜しそうに見つめる。
「ああ、林道さん――あとで、前の話の続きをしましょう」
「……ええ、君谷さんが宜しいのなら」
「何の話さ」
「お前に一生関係ない話」