まだらな白い光が藍色で塗りつぶされた空に現れる頃の時間。
筆一筋で描いたような雲がぼんやりと、月を覆う。
「この時間でも開いているでしょうか」
ふと純粋な疑問を口にする林道に、盞は得意げに返す。
「大丈夫、影ちゃんならノックで気づいてくれるよ」
インターホンを使わないのは、周り――つまりは近所に気づかれたくないから、である。
とはいえ、店の扉を叩いて気づくものなのだろうか、という林道の疑問を察したかのように盞は言葉を続ける。
「影ちゃんは、バックヤードを居住スペースにしてるから、大概のことがない限り気づいてくれるんだ」
そういえば、と思い返す。
林道が二度情報を聞きに行った際『居住スペースのようだ』と感じていたが、まさか本当にそこに住んでいるとは思うまい。
夜も深まった時間に、小さな本屋の扉を叩く。
そんな林道の背後に隠れるように、盞は立っていた。
「あの、盞さん……隠れる必要は無いのでは?」
「やっぱ気まずいっていうか、何と言うか……」
林道がため息一つこぼす頃、扉は開かれた。
「――やっぱり。ノックの音が丁寧だったので、貴方だと想いましたよ」
普段と何一つ変わらない表情で君谷は林道に応対する。
盞のノックを想像し苦笑する林道に対し、君谷は話を続けようとした。
「今回はどの様なご要件で――って、春花?」
その言葉に盞は一度驚いた様子を見せるも、笑顔を作り前へと出た。
「さっすが影ちゃん。いやー、隠れていてもすーぐ見つけちゃうんだから」
「……何しに来た?」
その声は低く、冷たい。
「えっと……」
「話すことはない。お前が知りたいことは、知るべきでは――」
「知るべき、なんだよ」
まっすぐ君谷を捕らえたその目は、不安を纏っていると同時に、覚悟を秘めていた。
その蛇のような鋭い瞳孔を目にした君谷はため息を一つ。
「――何か見えるか? その目で」
「……影ちゃんは、知ってるでしょ。俺の視力」
「だから聞いているんだ。他に人は?」
盞は静かに首を横に振る。
「……分かった、とりあえず外よりは安全だから」
君谷は盞を店内に通した。
その後、林道に深く頭を下げる。
「アイツの勝手に巻き込んでしまって、本当に――」
「いえ、お気になさらないでください。僕も君谷さんと答え合わせがしたかったので」
「答え合わせ……って、なるほど。一先ず、此方へ」
二人を店内に通した後、君谷は鍵を閉めた。
その後も厳重すぎるほど、店内の施錠を確認すると、居住スペースに移動した。
「影ちゃん、いつもあんなにカッチリ閉めてたっけ?」
「今回は話題が話題だから。気休め程度だけど」
蛇の目の話をする、というのはそれだけ危険なことだと、盞に知ってもらう必要があったのだ。
それに加え、現在は林道が狙われているという事実がある。
警戒しない理由がなかった。
「さて、春花。念の為聞いとく。何が聞きたい?」
「……俺の、目について」
予想通りの返答にため息を吐いた後、少し迷ったように視線を動かす。
「影ちゃん、もう……隠さないで。はっきり、この目について教えてほしい」
「……分かった。だけども先に一つ言わなきゃいけないことがある」
君谷は覚悟を決めたように、口を開く。
そこから紡がれる言葉は、残酷でありながら変えようのない事実、現実の話だった。
「今までは運良く誤魔化せて居ただけのその目は、これからは一生向き合っていかなければならない。その上、手放すことも出来ない。そして――」
一呼吸置いて言葉を続ける。
これは君谷自身の話す覚悟を決めるためのものでもあった。
「――命を狙われることもある。何処か……外に出ることも出来ない閉鎖空間に連れて行かれる可能性もある。それを、覚悟していてくれ」
これが、偶然生まれ持ってしまった『正式な蛇の目』持ちの覚悟しなければならない現実だった。
勿論、特殊な蛇の目も同じリスクを背負っている。
けれど、正式な蛇の目は――後継者にされる可能性がずっと高いのだ。
「……わ、かった」
その言葉に君谷は頷くと、一つのファイルを取り出した。
慣れた手つきでページを捲ると、机の上に置き、盞に見せた。
「これが、お前の持つ目……蛇の目だよ」
「じゃ、蛇の目……」
蛇の目とは何か、事細かに書かれている内容を簡単に君谷は盞に伝えた。
「――つまり、俺がめちゃくちゃな視力を持っているのは、その特殊な一族の血を引いているってこと?」
「春花の場合は、偶然だと思う。偶然生まれ持って蛇の目の人間もいるんだ。その一族の血を引いていれば、お前は今此処には居ないよ」
正式な蛇の目の後継者となれば、その両親は誇らしげに送り出すものだと、君谷――そして林道は知っていた。
勿論、蛇の目を持てなかった人間がどう扱われるのか、も。
「後天性で、生きているうちに蛇の目の才が開くパターンもあるけれど、そんなのは稀で、大概はすぐに捨てられるもんなんだよ。『蛇の目』ってものを知っている人間は非情な人間の方が圧倒的に多い」
その言葉に付け加えるように、林道も口を開く。
「勿論、逆に蛇の目持ちと知って隠すようにする方々もいらっしゃいますけれどね。まあ、それは余程周囲に恵まれていた場合です」
周囲に恵まれているか、蛇の目という存在を知らないか、の何方かしか無いことを林道はよく知っていた。
君谷は蛇の目持ちでは無いが、それでも蛇の目について此処まで詳しい人間というのもまた、稀である。
(それはきっと、盞さんのため……なのだろう)
幅広く知識を集めている君谷が、いつからこういった情報も持つようになったのか、当然のことながら林道は知らない。
けれど、察しはつくのだ。
「影ちゃんが、いつの間にか何でも知ってる人になってたのって、俺の目のせい?」
「別に春花のせいってわけじゃない。元々家にはいろんな資料があったし――」
「でも、こんな危険を犯してまで情報を集める人じゃないのは、俺がよく知ってる」
「それは――」
君谷は言葉を詰まらせた後、少し考えて盞に答えた。
「伽藍朔事件。発端はあっちだけれど、確かに春花の目についても調べてた。そうして二つのことを同時に調べていた時、辿り着いたのが――蛇の目って存在ってだけ」
冷たい声色ではあるが、そこには隠しきれない君谷の優しさがあった。
君谷にとって、盞に自分の責任と重く捉えて欲しくなど無かった。
そもそも、伽藍朔事件を盞に隠し続けた理由も『蛇の目』が関係するからだった。
そして――関係者が傍にいるから、話せなかったのだ。
今でも話すことの許されない圧を感じていた。
「――悪いけど、伽藍朔事件については話すことはない」
「うん、影ちゃんが話さないことには理由があるって、しっかり分かったから……だから、いいよ」
盞は静かに資料を眺める。
「うーん、難しくてよくはわからないけれど……正式な蛇の目っていうのが俺の持っているもの、なのは分かった」
そして、腑に落ちたかのように笑っていた。
「そりゃあ、この目のこと、知られちゃいけないわけだ」
盞も理解した。
蛇の目の厄介さ、そしてそれを狙うもの、利用するものが多くいるのも当然だ。
ならば、松笠が敢えて目の話だけ通していたのであれば――関係者なのだろう、と。