四日目。
林道と百日は、朝食を済ませたあと家を出た。
目的地は海堂の家。
海堂と百日の自宅と言い換えてもいいだろう。
歩幅を合わせて、ゆっくりと向かった。
軽いノックの後、いつもなら軽く柔らかい足音が出迎えるが、今回はそれがない。
無音のまま、気配すら感じない家の前で百日は声をあげた。
「洛さん、いないの? 洛さん」
その声に応える様子もなく、百日はどうしようもない焦燥感に襲われた。
「……入るからねー」
戸を開き、気づく。
海堂の下駄が無いことに。
「……洛さん……?」
真実を知っているからこそ、林道は何も言えなかった。
愛を隠し通すことも愛だと言うのなら、それを守り抜くのもまた、愛なのだろう。
「林道さん、とりあえず上がりましょうか。入れ違い、かも」
「……そうですね」
できる限り優しく林道は微笑みかける。
百日の焦りは林道にも伝わっていたが、それでも百日は冷静であろうとした。
居間までの道は、もはや慣れたものだった。
そこに残されたものに気がつくと、百日は駆け寄った。
「手紙……と、これは?」
そう言いながら、布を取る。
そこにはどこまでも澄んだ青空、それも朝焼けのほんのりと温かみのある空の中咲いた、秋海棠の絵だった。
淡いピンクと深い緑が、その姿を引き立てた。
百日はその絵をそっと撫でた。
「……繊細な絵。僕には、描けない」
「……百日さん」
「描き手の心情が、手に取るようにわかる。空気もその場に居るみたいに、引き込まれる」
百日の言葉は、一絵描きとしての言葉であり――一人の弟子としての言葉だった。
「洛さん……寂しさも感じるけれど、それよりもずっと……ずっと深い暖かい気持ちが、籠もってる。これが、洛さんの答え、なんだね」
隠し事、積み重ねた嘘の答え。
直接伝えることはなかったが、遠回りをしながらも百日に答えたのだった。
「弟子はいつか、師を越えるものです。それは、貴方も例外ではない」
「林道さん……それって――」
「いつか、越えねばならない日はやってきます。貴方も……僕も」
その返答を聞くと、百日は不器用に笑った。
「……やっぱり、林道さんにも居たんだね。師匠」
「師匠……と、呼んでいいのかわ分かりませんが……」
(師に囚われているのは、僕も、そして――百日さんも同じなんだ)
まだ、百日が描き続けるかは分からないが、林道には確信めいたものがあった。
(きっとこの子は、いつまでも描き続ける。いつの日か、師より評価される日が来るのだろう)
そっと、丁寧に絵をテーブルに置き、百日は手紙に手を伸ばした。
「……僕宛てだ」
その一言で、林道の心臓は凍てつくように冷える。
何故なら、その手紙が何なのか、何を意味するのか、知っていたからだ。
「……」
百日が読もうとした時、一枚の写真が視界の端に写った。
(封筒の下に、写真? とりあえず、手紙を……)
一呼吸置いて、手紙と向き合う。
その時間は一瞬にも、永遠にも感じられた。
百日の頬を傳う雫は止まることはなく、静寂と共に落ちていく。
手紙を膝の上に置き、残った写真を抱きしめるように蹲る。
「……っ、洛さんの……ばかぁ……!」
手紙に何が書いてあったのか、聞かなかった。
――否、聞けなかった。
林道は百日の背を撫でることしか、出来なかった。
(洛さんは、写真を残して居なくなった。きっと、林道さんが撮ったもの……噂は、本当だったんだろう)
「でも、これはっ……違う……」
責めるべき相手など居ないと、百日は何処へも向けることの出来ない感情を抱えた。
どのくらい時間があっても消化仕切ることは出来ないだろう。
どれほどの時間を与えられても、向き合うことは出来ないだろう。
時間にしてどれだけ経ったか、など今の二人には分からない。
けれど、少しだけ落ち着いた百日は絵を見つめた。
「林道さん、この花、なんて言うんですか?」
「秋海棠、あの人らしいチョイスかと」
「……そっか、しゅうかいどう……海堂、かぁ……」
百日に同じ字を持つ花を描かせた海堂らしい、と思わず百日の頬に笑みが浮かんだ。
「僕、この絵飾ります。本当は……ジニアの絵が無くなってたから、気づいては居たんです。何処かへ行ってしまったんだ、って」
大切なものに触れるように、慎重に絵を持ち、今の壁に近づく。
そこには、元々はジニアの絵が飾られていた。
その場に、不器用ながらも、思い出しつつ絵を飾る。
青空の下に咲く秋海棠が、百日を見守っているようだった。
「きっと、ジニアの絵が無くなったのは、ネガティブな意味じゃない、と思うんです。直感……ですけど……」
「……そうですね、あれほど大事にしていましたから……」
「……洛さん、遠くへ行かなきゃ行けないって」
「はい。手紙に……書いてあったんですか?」
頷くと百日は林道に向き直る。
「だから僕、洛さんのこと……いつか、見つけます。まだこの町を出れないし、家も任されているから、探しには行けないけれど……いつかは、きっと」
その目はまっすぐと林道を捉え、さらにその先の未来すら見据えて居るような、前を向いた強い目だった。
「――それが、貴方の歩む道、なのですね」
林道は納得したように頷くと、百日の隣まで歩いた。
「僕も海堂さんに貴方のことを任されていますし……暫くはこの町に居ますよ」
迷いの残った目でその絵を見つめた。
本当にこれで良かったのか、問いかけるように。
――自分が進む道は正しいのか、問いかけるように。
暫くして、海堂洛の失踪は近所の間では話題になった。
妙な噂もきっと中にはあったのだろうが、そんなものは気にもとめず、百日はすっかりと家の画室へと籠もった。
ただ寝食の心配だけが残る林道は、数日に一度会いに行き、無理矢理にでも休ませた。
林道のことも、全く話題に上がらなかったわけではなかった。
けれど、そこに林道が求めた話題は無かった。
近所間の噂が収まる頃、漸くニュースになった。
まだ、失踪だと言われていた。
いつの日か、彼は見つかるのだろう。
それも、百日にとって望まぬ姿で。
けれど、今日も一人――何も話題が入らないように、百日は画室で絵を描いた。
探せない身なら向こうから来てもらおう、とでも言うように、ずっと。
海堂洛という画家が与えた影響は、そこそこ大きかった。
弟子は家に籠もり絵を描き、一人はそれを見守った。
――残った一人、百日を託されたもう一人は、今日も新聞を握りしめていた。
いつか、その弟子と出会うために。
秋風は想いを運び、それはやがて四季を巡る。
これは、林道玲が歩む道の一歩。記憶の一欠片。
誰かにとっては、宝物の一欠片。