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十四節 想いと秋風

 早朝、というにはやや日が昇りすぎた頃。

 ノックの軽い音で、林道は目を覚ました。


 インターホンのある家で、この時代にそれを使わず、ノックで済ませる人間は大抵親しい人間か、或いは――周囲に存在を悟られたくないが問題を起こす人間だ。

 林道にはその人物に心当たりがあった。

 だからこそ、警戒せず扉を開く。


 そこに立っていたのは、青空と対称的な赤い着物を着た黒い髪を結った男性。

「おはようございます、林道さん」

 ――海堂洛が居た。

「起こしてしまいましたか? もしかして、林道さんって小さな物音一つで目が覚めてしまうタイプです?」

「お気になさらず……というか、よく気づきましたね、そんな些細なこと」

「人間観察は絵描きの基本、ですから」

 懐かしい言葉を聞いた。

 昔、よく聞いた言葉――大切な言葉。

「これ、旧友の口癖だったんですよ。私は風景画家だけれども、彼は人物画を描く子だったので」

 恐らく海堂のいう旧友と林道の関係を知っているのだろう。

 いや、察しが付いているのだろう。

 コロコロ変わるけれども、穏やかな表情に初めて会った日を思い出す。


 思えば、それほど時間は経っていないはずなのに、何故こんなにも全てが変わってしまったのだろうか。

 一度考えると、様々な後悔に襲われるのだ。


 だからこそ、林道は海堂へ問うことにした。

「……それで、此処に来たということは、覚悟ができたのですか?」

「ええ、勿論。だからこそ貴方に頼みがあるんです」

「……聞きましょう」

 林道としては、複雑な思いでいっぱいだった。

 けれど今、海堂は頼みがある。

 それを断れば、きっと楽だったのだろうけれど――出来なかった。


「鈴を、数日預かって欲しいのです」

「何故……?」

 似たようなことは経験がある。

 けれど、理由を聞かねば、自分の判断が正しいかどうかが分からない。

(だって――あの人も、守ろうとした結果じゃないか)

 遠い過去を思い出してしまう。

 あの時の自分は正しくなかった、と結果論で理解できる。


「私は残りの数日……絵を描きます。それは、鈴に向けたさいごのプレゼントなんです。その前に見つかってしまっては、意味がなくなってしまう」

「だから、完成するまで預かって欲しい、と?」

「はい。三日もあれば十分です、私の場合はね。ただ、林道さんには負担をかけてしまいますが……」

「いえ、構いませんよ」

 三年のスランプはあれど、海堂はそれ以上の時間を望まなかった。

 その姿を見て、本当に覚悟が決まったのだと、嫌でも感じ取ることが出来た。


「後ほど、鈴を連れて訪れます。ですから――」

「はい。百日さんのことは任せてください」

 それから、林道は一呼吸置いて続ける。

「三日後の朝、僕は一人で貴方の元へ向かいます。宜しいですね?」

「ええ、私はそれまでに全て済ませておきます」

 ああ、結局こうなるのだ。


 最期を見るのはいつも、自分なのだと。


「本当に、絵を描くだけ……なのですか?」

「他にも遺したいもの、渡したいものは色々あります。けれど、絵が一番時間がかかりますから、最優先で手を付けなければ」

 その笑顔は、初めて会った時と同じ、とても穏やかで暖かい。

 そんな――そんな、笑顔だった。


「ああ、書き置き……というより手紙も必要、ですよね。そうだ、林道さん」

「……なんですか?」

「三日後、さいごに我儘を言ってもいいでしょうか?」

 本当に、終わらせるつもりなのだ。


「……構いませんよ」

 できる限り優しく微笑み返す。

 気がつけば、秋も深まり、日が出ている時間なのにどこか冷える――冷たい風が吹く。


 秋風は頬を撫で、想いを乗せて消えて行く。

 空気には、想いの温もりが何処か残っているような気さえして、淋しくなるのだ。


 深くお辞儀をした海堂は、数時間後に百日を連れやって来た。

 ここから先に進めば、本当に彼ら二人の関係は終わってしまうのだと、林道は胸が痛かった。

「お世話に、なります」

 深々とお辞儀をする百日と、それを優しく見守る海堂の姿は本当に親子のようだった。

 (百日さんは、これが最後の会話で――再会することなど無いと、知らないんだ)


「鈴、三日の間……ご迷惑にならないようにね」

「うん。洛さんも、大掛かりな掃除、無理しないでね」

「……ああ」

 その笑みには明らかに無理が見えて――本当は嘘は上手ではないのだと、初めて知ることになった。

 こんなタイミングで。

 もっと早く気づいていれば、結末は変わったのだろうか。

(――いや、それは無いだろう)

 林道は、そう一人考えていた。


「じゃあ、また……三日後……かな?」

「そうだね、鈴」

 さいごに海堂は強く百日を抱きしめた。


「ふふ、洛さん、苦しいよ。急にどうしたの?」

「いや……寂しくなってしまっただけだよ」

「ふっ、変なのー。洛さんって結構寂しがり屋なんだね」

「知らなかったかい?」

「んー、ちょっとそうかなって、思ってた」

 他愛のない会話が、少しでも続くように林道はただ黙って見守った。


 どうか――悔いの残らない別れを。

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