早朝、というにはやや日が昇りすぎた頃。
ノックの軽い音で、林道は目を覚ました。
インターホンのある家で、この時代にそれを使わず、ノックで済ませる人間は大抵親しい人間か、或いは――周囲に存在を悟られたくないが問題を起こす人間だ。
林道にはその人物に心当たりがあった。
だからこそ、警戒せず扉を開く。
そこに立っていたのは、青空と対称的な赤い着物を着た黒い髪を結った男性。
「おはようございます、林道さん」
――海堂洛が居た。
「起こしてしまいましたか? もしかして、林道さんって小さな物音一つで目が覚めてしまうタイプです?」
「お気になさらず……というか、よく気づきましたね、そんな些細なこと」
「人間観察は絵描きの基本、ですから」
懐かしい言葉を聞いた。
昔、よく聞いた言葉――大切な言葉。
「これ、旧友の口癖だったんですよ。私は風景画家だけれども、彼は人物画を描く子だったので」
恐らく海堂のいう旧友と林道の関係を知っているのだろう。
いや、察しが付いているのだろう。
コロコロ変わるけれども、穏やかな表情に初めて会った日を思い出す。
思えば、それほど時間は経っていないはずなのに、何故こんなにも全てが変わってしまったのだろうか。
一度考えると、様々な後悔に襲われるのだ。
だからこそ、林道は海堂へ問うことにした。
「……それで、此処に来たということは、覚悟ができたのですか?」
「ええ、勿論。だからこそ貴方に頼みがあるんです」
「……聞きましょう」
林道としては、複雑な思いでいっぱいだった。
けれど今、海堂は頼みがある。
それを断れば、きっと楽だったのだろうけれど――出来なかった。
「鈴を、数日預かって欲しいのです」
「何故……?」
似たようなことは経験がある。
けれど、理由を聞かねば、自分の判断が正しいかどうかが分からない。
(だって――あの人も、守ろうとした結果じゃないか)
遠い過去を思い出してしまう。
あの時の自分は正しくなかった、と結果論で理解できる。
「私は残りの数日……絵を描きます。それは、鈴に向けたさいごのプレゼントなんです。その前に見つかってしまっては、意味がなくなってしまう」
「だから、完成するまで預かって欲しい、と?」
「はい。三日もあれば十分です、私の場合はね。ただ、林道さんには負担をかけてしまいますが……」
「いえ、構いませんよ」
三年のスランプはあれど、海堂はそれ以上の時間を望まなかった。
その姿を見て、本当に覚悟が決まったのだと、嫌でも感じ取ることが出来た。
「後ほど、鈴を連れて訪れます。ですから――」
「はい。百日さんのことは任せてください」
それから、林道は一呼吸置いて続ける。
「三日後の朝、僕は一人で貴方の元へ向かいます。宜しいですね?」
「ええ、私はそれまでに全て済ませておきます」
ああ、結局こうなるのだ。
最期を見るのはいつも、自分なのだと。
「本当に、絵を描くだけ……なのですか?」
「他にも遺したいもの、渡したいものは色々あります。けれど、絵が一番時間がかかりますから、最優先で手を付けなければ」
その笑顔は、初めて会った時と同じ、とても穏やかで暖かい。
そんな――そんな、笑顔だった。
「ああ、書き置き……というより手紙も必要、ですよね。そうだ、林道さん」
「……なんですか?」
「三日後、さいごに我儘を言ってもいいでしょうか?」
本当に、終わらせるつもりなのだ。
「……構いませんよ」
できる限り優しく微笑み返す。
気がつけば、秋も深まり、日が出ている時間なのにどこか冷える――冷たい風が吹く。
秋風は頬を撫で、想いを乗せて消えて行く。
空気には、想いの温もりが何処か残っているような気さえして、淋しくなるのだ。
深くお辞儀をした海堂は、数時間後に百日を連れやって来た。
ここから先に進めば、本当に彼ら二人の関係は終わってしまうのだと、林道は胸が痛かった。
「お世話に、なります」
深々とお辞儀をする百日と、それを優しく見守る海堂の姿は本当に親子のようだった。
(百日さんは、これが最後の会話で――再会することなど無いと、知らないんだ)
「鈴、三日の間……ご迷惑にならないようにね」
「うん。洛さんも、大掛かりな掃除、無理しないでね」
「……ああ」
その笑みには明らかに無理が見えて――本当は嘘は上手ではないのだと、初めて知ることになった。
こんなタイミングで。
もっと早く気づいていれば、結末は変わったのだろうか。
(――いや、それは無いだろう)
林道は、そう一人考えていた。
「じゃあ、また……三日後……かな?」
「そうだね、鈴」
さいごに海堂は強く百日を抱きしめた。
「ふふ、洛さん、苦しいよ。急にどうしたの?」
「いや……寂しくなってしまっただけだよ」
「ふっ、変なのー。洛さんって結構寂しがり屋なんだね」
「知らなかったかい?」
「んー、ちょっとそうかなって、思ってた」
他愛のない会話が、少しでも続くように林道はただ黙って見守った。
どうか――悔いの残らない別れを。