学校に向かえば噂話が絶えず流れてくる。
とはいえ、百日には関係のないノイズとしか感じなかった。
何故なら、自分は避けられているから。
(僕が避けられている理由――)
百日家はある夜、火事にあった。
(生き残ったのは、洛さんに引き取られた僕だけ)
そんなことを知らない周りは、『百日鈴が犯人だ』などと好き勝手言っている。
好きに言えば良い、と思っているのが本音だ。
そもそも噂話が絶えない『学校』という場所で自分がなんと言われようと、気にしても無駄だ。
(まあ、一方的に聞けるって考えれば情報収集の面では、悪くはない。林道さんの噂もそうやって知ったし)
しかし、今日は様子が違った。
――あの火事の夜、一人の男性を見かけた……と情報提供者も分からない情報が流れてきたのだ。
(おっと、初耳)
その人物は――赤い着物が印象的だった、と。
(……え?)
百日の思考は嫌な方へと働く。
嫌な予感以外、何も浮かばなかった。
(でも、洛さんは――)
足が止まる。
これ以上聞きたくないと思いながら、足が動かせない。
これ以上先に――進めない。
眼の前にあるのは、教室だから。
駆け足でその場を離れる。
つまりは学校を離れる。
そしてそのまま走って向かう先は――百日家。
肩で息をしながら、家があった場所までたどり着いた。
たどり着いてしまった。
燃え滓が辺りに残っている。
焦げた我が家だったものがある。
「――百日さん?」
「ひぅっ」
恐る恐る振り返ると、心配そうな顔で林道が立っていた。
「な、なんだ……林道さんか……。驚かさないでくださいよ」
「え、あぁ……申し訳ない。その、大丈夫ですか?」
純粋な心配じゃないことは分かっていた。
けれど、誰でもいいから、泣きつきたい気分だった。
「……学校、抜け出してきたんでしょう? 一先ず僕の家で休んでください。そんなに離れていませんから」
返事をする前に、林道はそう提案をした。
体力面であまり遠くまで行けないことを、知ってか知らずか。
しかし、言葉を選んでいることは百日にも伝わった。
涙が溢れそうになって、俯く。
その様子を見た林道は、手を引いて歩くのだった。
「どうぞ、狭い家ではありますが……」
「その……お邪魔します……」
店には無数のカメラが並んでおり、反対側の本棚はファイルばかり詰まっている。
「いかにも写真家って家でしょう?」
林道はそっと笑う。
「はい……」
鈴はその家に圧倒されていた。
(林道さん、本当に……写真家、なんだ)
「どうぞ、お座りください。僕はちょっと用意するものがあるので、ゆっくりしていてくださいね。あ――牛乳は飲めますか? アレルギーは?」
「どっちも大丈夫です」
「良かった。では、暫くお待ちを」
初めて見るほど柔らかい表情。
もしも、これが林道の素なのだとしたら――と、つい考えてしまう。
(それにしても、用意って……なんだろう)
学生鞄を抱くように抱える。
何かに抱きついていたかったが、これくらいしかなかったのだ。
「――おまたせしました。林道特製、ホットミルクです」
「ホットミルク……」
そんなもの見るのも飲むのも、幼少期に一度有ったか無かったか、くらいだ。
朧気な記憶のまま、ホットミルクを見つめる。
「はは、やっぱり『特製』は可笑しいですね。でもどうぞ、こういう時は暖かいものが落ち着かせてくれます」
林道は軽く笑うと、動揺している百日に微笑みかけた。
「昔、僕が今の百日さんのようになっていた時、こうしてくれた人が居たんです。僕はそれがすごく嬉しくて――とても暖かく感じたんです。だから、貴方に同じことができればいいな、と」
懐かしい思い出に思いを馳せるように、優しい口調だった。
思い出は湯気と共にゆらり、と姿を表しては消えていく。
それは、百日にとっても同じだった。
(ああ、この人は……本当は――)
「いただきます」
「ふふ、どうぞ。まだ少し熱いのでお気をつけて」
それはとても甘く、暖かい。
心も和らいでいくのを感じていた。
「……美味しい」
「良かった。せめて飲み終えるまではゆっくり休んでください」
「ありがとうございます……。あ、あの、林道さん」
「はい?」
百日は震えた声で、林道に聞こえてしまった噂を告げようとする。
しかし、言葉が上手く出て来ず、ただこの感情を何処にも吐き出せないままだ。
「僕、その、怖くて」
「怖い?」
「洛さん、最近ずっと……目を離したら居なくなってしまいそうで……」
(ああ、やっぱり――あんなの酷だ)
「きっと、僕、洛さんのこと……嫌いにならないといけない、のに……」
言葉を紡いでいる内に、大粒の涙が、百日の手の甲に落ちる。
それは、一度溢れたら止まらなかった。
止めることなど、出来なかった。
「洛さんのこと、嫌いになんて、なれない……っ」
「百日さん……」
林道はそっと抱きしめることしか出来なかった。
(この反応は、当然だろう。……何を思ってあんな……)
そのまま、百日は泣きつかれて眠るまで、林道から離れなかった。
流石の林道も、離すことが出来なかった。
「……失礼。貴方に手は出しませんから……協力してくださいね」
泣きつかれて眠った百日を、そっとソファーに寝かせると、林道はカメラを手にした。
そして、レンズを覗き込む。
「……あ、鈴。起きたんだね」
目が覚めれば今の自宅だった。
見慣れた天井、毎日見ている天井。
そして、覗き込む海堂の姿は、日常だ。
「学校から連絡があってね。詳しいことは、林道さんから聞いたよ。本当に焦ったんだから」
「……ごめんなさい」
「良いんだよ。でも、林道さんには今度お礼をしなくちゃね。ここまで抱えて来てくれたんだよ」
海堂はいつものように、百日の頭を撫でる。
その感覚も、いつもと変わらない。
「……林道さん、家まで来てたの……? 道、覚えてたんだ……」
「私も少しばかり驚かされたよ」
その時の海堂は、百日ですら見たことのない表情だった。
「洛、さん……?」
「ん? どうかしたかい?」
そういって微笑む海堂に、百日は初めて恐怖を覚えた。
(なんだろう、この気持ち。洛さんが、洛さんじゃないみたい……)
ドロドロと不快感が湧き上がる。
「……ねぇ、洛さん。僕の昔の家族……『百日家』ってどうなったんだろうね」
「知らないけれど、普通に過ごしているんじゃないかい?」
「……そっか」
(疑うな、疑うな、疑うな――信じるんだ。例えそうだったとしても僕には……)
「鈴?」
(洛さんのこと、やっぱり嫌いになれない……。無理だ、取り返しのつかないほどに……)
「鈴、なんで泣いて……」
(大好きなんだ……)
「……鈴……君、は」
泣きながら笑うその顔は、海堂に不安を与えた。
「洛さん、大好きだよ。だから、何処にもいかないで……ずっと……傍に居て」
海堂の手をそっと包み、百日は微笑みかける。
止まらない涙と共に、本心をそのままの形で海堂に伝えた。
それは、海堂にとっては予想外の言葉だった。
けれど――その願いを叶えることは、出来ない。
海堂はただそっと微笑み返した。
(ごめんね……鈴)
百日の涙が止まることはなく、その姿に心が痛む。
「鈴、泣かないで。私は此処に居るよ」
「でも、きっと……この手を離したら、洛さんは……居なくなっちゃう、でしょ?」
「……でもこのままだと、ご飯が食べられないよ?」
いつもの口調、いつもの声色、いつもの表情。
その姿に漸く安心した百日は手を離した。
「洛さんも、ご飯食べないとだもんね。ねぇ……もう一つだけ、我儘言っていい?」
「言ってごらん」
「もう少しだけでいいから――傍に居て」
弱々しいその声に、今度は海堂が百日の手を包んだ。
「いいよ。落ち着くまで、傍に居るからね」
何事も無かったかのように日は沈む。
やがて深い闇と星が空を埋める頃、海堂は一人空を見上げた。
月明かりもない静かな夜に、赤い着物は夜風に揺れる。
(鈴は……眠りが深そうだったし、私は――)
歩みを進め、家から出ようとするも、その足は止まる。
「林道さん……? どうして、こんな時間に?」
「いえ、通りかかったら貴方が外に出ようとしたのが見えたので」
「林道さんも夜に出歩くんですね。規則正しい生活をしていそうなのに」
「夜の写真は、夜にしか撮れませんから」
林道はそう言って笑った。
しかし、何故だろうか。
海堂の胸のざわめきは、収まる気配がなかった。
「――貴方は、何をするおつもりで?」
「ただの散歩ですよ。どうしたんですか、突然そんな――」
「――百日家まで、ですか?」
「え?」
林道の思わぬ言葉に海堂は目を丸くするも、すぐさま誤魔化すように笑った。
「嫌だなぁ、林道さん。百日家と私に、なにか関係が?」
「いえ、百日さんのご実家ですから、やはり気になるのかと思っただけです」
林道も微笑み返す。
表情こそ笑っているも、内心はお互い臨戦態勢だった。
「鈴の実家、ねぇ……。私は特に興味などはないですね。鈴はもう、私の家族なので」
「そうでしたか、それは失礼」
林道は本能から、海堂に対し危機感を覚えた。
この人は――歪んでいる。
たとえそれが、家族への愛だとしても