それは三年前のこと。
今でも鮮明に覚えている絶望の夜。
或いは、希望を手にした夜明け。
百日家は、勉学に勤しむことを強いられる場所だった。
「高貴なる血を引いているのだから、恥じない生活を送りなさい」
そんな言葉は毎日のように聞いていた。
しかし百日鈴という人間は、そんな生活に耐えられる人物ではなかった。
その上で興味は他の物事に向いていた。
百日は絵が好きだった。
他の物事に手がつかないほどに、絵が好きだった。
血筋の話をされたところで、幼い百日には理解も出来ず、興味もなかった。
だから、次第に記憶から消えていった。
幸いなことに兄弟含め、全員個別の部屋を用意されていた。
誰も入ってこない上に、要件がない時以外は外に出ることも出来ないが。
だからこそ、百日はその環境を利用し、小学校高学年の頃には外へ抜け出すようになった。
ある時、百日は一枚の絵と出会った。
その絵は一目みただけで百日の心を奪っていった。
目を離せなくなるほど引き込まれる。
空気も温度も、香りすら伝わってくる風景画。
その場所に立っているようで、自由になれたと――その絵を見ている間は思えたのだ。
「――君」
やがて絵の主が帰ってくると、百日に声を掛ける。
百日は自らが予想できる範囲の『最悪』な展開で頭が埋め尽くされる。
しかし、絵の主は百日にとっては予想外の言葉が返ってきた。
「絵は好きかい?」
その声色は優しく、穏やかな物だった。
振り返ると、着物の男性が微笑んでいた。
百日はそっと頷く。
「そっか。実はね、この絵はまだ未完成なんだ。君さえ良ければ、完成形も見てくれないかい?」
未完成、という言葉に素直に驚いた。
これよりももっと魅力が増すのだと思うと、それは恐ろしいほど美しいのだろう。
興味が沸いてしまって、百日は頷いた。
男性はそっと椅子をもう一脚用意した。
「良ければ座って。立ちっぱなしは辛いだろうからね。そうだ――」
その男性は百日の方に向き直り、目線を合わせる。
「私は、海堂洛。いつでもこうやって絵を描いている画家……って自分でいうと少しむず痒いな」
照れくさそうに笑った。
「君の名前を聞いてもいいかい? ずっと絵を描いていたから、此処には友達がいないんだ。だから、君と友達になれたら良いなって」
「……鈴」
名字を隠したまま、百日はそう呟いた。
それでも、海堂は嬉しそうに笑って、優しく百日の手を包んだ。
「鈴くんか。綺麗な名前だね。これから仲良くしてくれると嬉しいな」
本能的に、この人は優しい人なのだと思った。
同年代の子供のような笑顔に、百日の心も緩んでいった。
そうして、百日と海堂はこっそりと会うようになった。
といっても、百日が抜け出し、海堂の元へ毎日通っていただけではあるのだが。
ある時、海堂は百日に声をかけた。
「――鈴はさ、絵は描かないのかい?」
「描きたい気持ちは……ある、よ」
恐る恐る百日は答える。
「じゃあ、さ。私が絵を教えるから、鈴も描いてみないかい?」
「いいの……?」
「勿論。ふふ、今日から私は師匠だね」
海堂は楽しげに笑っていた。
百日もまた、目を輝かせ、頷いた。
百日の成長スピードは凄まじいものであった。
それは画家の家に生まれた海堂を驚かすほど。
「見えたまま、描いてみて」
その言葉が百日には一番合った方法だったのだ。
それは、百日の目が関係しているのだと、海堂は途中で気がついた。
(この子……蛇の目か……?)
しかし、それが二人の関係性を壊すものにはならなかった。
例え蛇の目を持っていようと、海堂にとっては一人の愛弟子に変わりなかったのだ。
百日が夕焼けを好きになったのは、海堂の影響が大きい。
秋の夕焼けを、慈しむように見る海堂の姿が、一枚の絵に見えた。
海堂はものを目に焼き付けることを教えた。
それは百日にとって効果的なものであり、焼き付けたものを記憶で描いた百日の絵は――実物より美しかった。
(……ああ、やっぱり)
海堂の疑惑は確信に変わったが、だからこそ百日には教えなかった。
百日に自覚が無いことに気づいていたからだ。
(――だから、気付かないで……鈴)
そう願いながら日々を過ごしていた。
――三年前までは。
その日は、月明かりもない、静かな夜だった。
普段通り解散し、帰宅したあとのことだ。
海堂は忘れ物を思い出し、公園へと向かっていた。
(流石にこのあたり……月明かりもないと、暗すぎる……)
そんな事を考えながら、目に入った光の下には一人の少年が居た。
「――鈴?」
百日はゆっくりと振り返る。
その目は、いつもの輝きながら鋭い瞳孔を宿したものではなく――全てを諦めた人間の目だった。
「何か、あったのかい?」
「家、帰れなくなった」
その一言で、海堂は察した。
自分と会っていたからだ、と。
「元々ね、抜け出していたからいつかはこうなると思ってたんだ」
「だとしても、鈴――」
「元々鍵も貰ってなかったし、もう此処は帰る場所じゃないんだ」
「そんな……」
百日は全てを諦めていた。
生気の宿らない表情のまま、ぎこちなく微笑んだ。
それが海堂の胸を締め付けるとも知らずに。
「鈴、後ろに隠れていて」
海堂は怒りのまま行動した。
絶対に『百日鈴』を守り抜く、と。
百日が背後に隠れたことを確認すると、海堂はインターフォンを押した。
「夜分遅くに失礼します。私、画家の海堂洛と申します。少々お話宜しいでしょうか――」
柔らかな声色の中に怒りを宿した海堂は、インターフォン越しに一歩も譲らなかった。
「ええ、貴方方が大事にしないのだとしたら――私が引き取っても構いませんよね?」
それは、海堂の圧だった。
「今更なんとでも言えますよね。ですが、貴方は今まで鈴くんに鍵すら渡していなかった」
「ら、洛さん……?」
「――そんなに血筋が大事ですか?」
その言葉がトリガーになったのか、インターフォンは切られ、乱暴に玄関の戸は開かれた。
海堂の胸ぐらを掴んで、何かを怒鳴りつけるも、百日はパニックを起こし内容が入ってこない。
一方で海堂は見下すように笑っていた。
次に百日が気がついた時には、既に海堂の家に居た。
「あ、れ……ここ……」
「私の家だよ、鈴。君と私は、今日から家族だ」
「家族……?」
その言葉を理解できるまでに時間はかかったが、海堂が用意した布団は何故か――家のものより暖かく感じたのだ。
――懐かしい夢を見た。
百日にとっては、遠い過去のように感じていたそれは、まだ三年しか経っていなかった。
「どうして今、あの時の夢を見たんだろう……」
そんなことを思いながら、百日は着替える。
「……今日の朝ご飯、何かな」
今日は、百日にとって久しぶりの学校だ。
気が重くなるが、帰りに夕焼けを見られれば良い、と思考を切り替えて部屋の戸を開けた。