白く霞んだ空は、次第に色を変えて行く。
まるで紅葉のようだ、と海堂は笑った。
初めて会ったときとは違う夕焼け。
それは海堂と百日にとって、そして林道と百日にとっても特別なもの。
そして、三人で見ることによって生まれた新たな価値。
誰にとっても忘れられない夕焼けになるのだと、海堂は確信したのだった。
「この瞬間は、いつかきっと宝物になるよ。だから鈴。しっかり焼き付けておくんだよ」
「はい、洛さん」
海堂の言葉が無くても、既に百日は夕焼け空に視線が釘付けだった。
(――それは辛い思い出になるかもしれないのに)
林道は微笑みの下に複雑な心境を隠した。
自分だったらきっと、夕焼けは嫌いになるかもしれない……そんな思いが林道の中にはあったのだ。
「……写真、撮りましょうか」
雨合羽を脱いで、隠れていた鞄の中からカメラを取り出す。
(写真だけじゃなく、本当は持ってきていたのか……。いつもと違うカメラだけれど)
海堂は柔らかく微笑んだ。
そんな海堂と百日は対象的な反応を見せた。
「……写真、ですか」
百日は少し警戒するような視線を送る。
だが、その先の林道の表情から気持ちを解いた。
「それは……とても素敵ですね。夕焼けを背にしましょう。そして、私達三人で――」
海堂のその目は誰よりも普通のものだ。
しかし、この瞬間は他の何物よりも美しく輝いた。
「――特別な思い出にしましょう」
海堂のその姿や表情は――沈み行く太陽よりも眩しく、染まった空よりも暖かく、秋風よりも寂しかった。
「じゃあ……お願いします」
百日はぎこちなくお辞儀をすると、海堂の隣に並んだ。
「さあ、林道さんも」
「待ってください、今準備が……っと終わったので、そちらへ行きますね」
「ふふ、私ったら両手に花だ」
海堂は幸せそうに笑った。
「もう、変なこと言わないでよ。洛さん」
照れくさそうにツン、と冷たく返す百日を微笑ましそうに見守る海堂。
そんな二人を微笑みながらも、何処か羨ましそうで懐かしそうに見つめていた。
その姿はまるで家族のようで、海堂は改めて幸せだと実感するのだった。
(――そう、私がもらってはいけないほど、幸せだ)
海堂はシャッターが切れるその直前に二人の腕を引っ張って引き寄せた。
(ああ、もう。手放したくなくなってしまう)
海堂の表情を見て、仕方のない人だと二人は笑った。
「最高の一枚が取れましたよ。現像したらお渡しに行きますね」
「それは楽しみですね。宝物になるね、鈴」
「そうだね、洛さん」
(――残酷なことを言うものだ)
一人複雑な顔を隠すべく、カメラを覗き込む。
普段使っているものではなく、雨の日用に貰ったカメラ。
使うのは久しぶりだったな、と一人林道は過去に思いを馳せた。
「では、早く現像するためにも僕はひと足お先に失礼しますね」
「ええ、分かりました。お気をつけてお帰りくださいね」
「……またね、林道さん」
ほんの少しの勇気を出した歩み寄り。
自分が受け取っていいのか、と少し戸惑いながら微笑み返し林道は去っていく。
「うん、二人はきっと良い友達になれると思うよ」
「僕と……林道さん?」
「そう。二人のことを、私は信じているからね」
その笑顔にくすぐったくなって、百日は目を逸らす。
少しずつ生活が変わっていく実感。
それが何を意味しているのか、今はまだ知りたくないから、百日は見ないふりをした。
「さ、私達も帰ろうか」
「そうだね。今日は温まるもの食べよう。特に洛さん、雨の中ずっと外居たから」
少し不貞腐れた百日に困ったような笑顔を浮かべていると、百日はそっと海堂の手を取った。
「こんなに冷えてるもん。早く帰って温まろ」
とても暖かな手に、心が痛む。
(手放したくないなぁ……)
そう思うのは、きっと自分が弱いのだ。
海堂は残り時間が少ないことを背に隠し、手をしっかりと握って、家へと帰った。
夕食の準備を始めようとするなり、百日は卓上ガスコンロを取り出した。
「洛さん、今日はお鍋にしよう。時期は少し早いけれど……洛さん冷え切ってたから、問答無用」
「ふふ、そっか。相変わらず鈴は優しい子だね」
「今日は僕がやるから、洛さんは温まってて」
「分かったよ、お任せしちゃうね」
少し寂しさを感じながらも、立派になったものだと思い嬉しくもあった。
自分は、あと何を残せるだろうか。与えられるのだろうか。
「寂しくなってしまうね。鈴……どうか、今日を忘れないで」
居間に飾られた色とりどりのジニアの花の絵に言葉をかけた。
それが呪いになろうとも、いつか生きる心が弱くなった時、こんな愚かな画家が居たことを――優しい写真家が居たことを思い出してくれたら嬉しい、と想いを込めて。
それがいつか、生きる理由になりますように、と。
「洛さん、その絵そんなに好きなの?」
「うん、私の宝物だよ」
「そう、なんだ?」
気恥ずかしさから目線をそらしつつ、鍋の準備を進めていく。
「あ、炬燵も出したほうが良かったかな……」
「流石にまだ早いんじゃないかな……なにか手伝えることはあるかい?」
「ううん、大丈夫。洛さんたまにはゆっくりして」
「私はいつでもゆっくりしているさ。忙しいのは何方かといえば鈴の方じゃないかい?」
「僕も忙しくないよ。楽しく絵、描けてるもん」
「……そっか」
寂しさを隠すように笑顔を向けた。
立派に育っているのが、嬉しいと同時に寂しさも覚えるのだった。
海堂は初めから、終わりの時をある程度定めていたのだ。
それが近づいて居ることが、寂しくなってしまう。
『鈴にいつか全てを教え、全てを捧げ、信頼できる仲間が出来た時は私が去る』
そう、決めていた。
いつまでも自分が縛り付けていてはいけないから。
(あの子を孤独にしたのは、私なのだから……)
海堂の頭に映るのは数年前の夜のこと。
百日を連れ出した日の夜のことだった。
善意は時に凶器に成り得る。
その日は、月明かりもない、静まった夜だった。
「洛さん? 座らないの?」
「ああ、ごめんね。少しぼうっとしていたみたいだ」
「やっぱり疲れてるんじゃない……? お鍋、もう食べられるよ」
心配そうに見つめる百日を誤魔化すように、海堂は笑った。
「じゃあ、いただきます」
「……いただきます」
こんな時間が続けばいいと、今はただそれだけを願おうとしているのは、何方も同じだった。
そんな日に限って、百日は『百日家』に居た頃の夢を見た。
引き取られた、あの日の夢を。