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六節

 少しばかり遅い朝食を済ませ、海堂は百日に話を切り出す。

「今日は少し出かけてくるよ」

「珍しいね。何か用事?」

 百日がそう尋ねると、海堂は気まずそうに笑った。

「ああ、ちょっとね。帰りに何か欲しいものはあるかい?」

「ううん、大丈夫。その代わり、あんまり遅くならないでね」

「そうだね、気をつけるよ」

 その表情はお世辞にも明るいとは言えず、百日から顔を隠すように背を向けた。


「あ、洛さん。雨降ってるね」

「あぁ、本当だ。今日は夕焼け、見られそうにないね」

「残念……。傘持ってくのと、あんまり体冷やさないでね」

「ふふ、今日の鈴はお母さんみたいだ。気をつけるよ」

 誂うように笑えば、百日は拗ねるように唇を尖らせる。


「お母さんって……誰のせいでこんなに心配してると思っているんですか」

「あー……そうだね、ごめんよ」

 嗜めるように頭を撫で、支度を整える。

 あれもこれも、と上着やら軽食を渡してくる百日に苦笑しつつも、それが暖かな時間だと感じていた。

「別にそんな……遠出するわけではないのだから……」

「何があるか分からないから。洛さんってさ――目を離したら居なくなっちゃいそうで怖いんだよ」

「……」

 その言葉に、返事は出来なかった。

 こんな時間をあと何回過ごせるかなんて分からない。


「洛さん?」

「なんでもないよ、行ってきます」


 戸を開ければ、想像よりも強い雨が出迎える。

 確かにこれは心配されるわけだ、と納得した。

 しかし、海堂にとって雨の日は好都合だった。

 百日と鉢合わせる可能性が限りなく低いから。


 きっと目的の人物は公園にいるだろうと、足を運んだ。


「――ああ、やはり来ましたか」

 雨合羽を来た彼は、雨の中でさえ笑みを崩さなかった。

「相棒のカメラは、お留守番ですか? 林道さん」

「ええ、今日はひどい雨ですので」

 目を細めるその人物――林道に、海堂は寒気がした。

 蛇に睨まれた蛙とは、この状況なのだと理解した。


「ずいぶん警戒されてしまっているようですね。そう緊張しなくても、今から話すことは……海堂さん。貴方の話なのですから」

「……私? だとすれば、確かに緊張しすぎたかもしれませんね。だって――」

「『鈴を孤独にしたのは私だ』そうですよね?」

 その言葉が、海堂の頭に響き、こだまする。

 昨晩話されたときよりも、衝撃が大きい。

 密かに震えていた手から、傘が落ちた。


「『いつも自分の絵を見ていた子供』を『自らの家族』にしてしまったのですから。多かれ少なかれ、貴方なら罪の意識を抱いていると思いましたが――大当たりのようだ」

「昨日、貴方は私と鈴の全てを知っているようでしたから、言い方を変えただけなのでしょうけれど……どうして、知っているのですか。昨日は逸らかされてしまったので、お聞きしたい」

 傘を拾い、臨戦態勢だと告げるかの如く、真っ直ぐ林道の目を捉えた。


「海堂さん、貴方は私の目がどう見えます?」

「ガラス玉、でしょうか……。透き通っていて、すべてを見透かされているような……そんな目です」

 その言葉を聞くと、林道は目を閉じて笑う。

「そんな評価をしたのは、貴方で二人目ですよ。海堂さん」

 二人目、という言葉に少し違和感を抱く。

 前に同じ評価をした人間が居る、ということになるが――それが誰かは、大まかに検討はついた。


 しかし、推測が正しいのであれば、彼と林道は少なくとも知り合いだ。

(聞いてみる価値はあるだろうけれど……)

 今話したいのは、それではない。そうじゃないのだ。

「……林道さん」

「はい? 話したいことは纏まりましたか?」

 海堂は深呼吸をすると、そっと頷いた。


「林道さんは、鈴に興味がないと仰っていましたが……お願いします。鈴には、手を出さないでください。鈴に、蛇目のことを教えないでください。……代償が必要だというのなら、私自身を差し出します」

「それは、海堂さんが楽になりたいだけじゃないんですか?」

「それは……っ」

 最もだ、と思った。

 この機に乗じて、楽になりたいだけなのだろうと、自分でさえ思った。


「でも、いいですよ。貴方がそれを望むのなら、約束します。けれど、百日さんとこのままお別れするわけにはいかないでしょう? まだ貴方は全てを与えられてないのだから」

「……ありがとうございます。もう数日、この件に関して時間をくださいますか?」

「ええ」

 林道のその表情は穏やかなものだった。


「もう三年、絵を描いていないのなら……さいごにプレゼントとして残してあげるのはいかがです?」

「……はは、そんなことも知っているのですね」

 林道は自分の全てを知っている。

 少なくとも、海堂はそう感じていた。

「どうやって知った……かは、聞かないでおきます。野暮ですからね」

「聞かれたとしても企業秘密ですよ」

 柔らかい声色で紡がれる会話は、何処か寂しく終わりへと向かっているものだった。


「雑談、しませんか。私ずっと貴方の写真が好きでしたから」

「ええ、いいですよ。僕も海堂さんと百日さんの日常には興味がありましたので」

 それは穏やかな声色で、友人のような時間。

 決して交わることのなかった道が、一つになった雨の日。

 周りの音を全てかき消して、必要な言葉以外は届かない、そんな雨の中で寂しい二人は会話を紡ぐ。


「林道さん、昔はどんな写真を撮っていたんですか? 今の写真も好きですが、いちファンとして興味があります」

「今も昔も、大したものは撮れていませんが……昔は、たった一人のためだけに撮っていて、僕はその時間が好きだったんですよ」

 いくつかの写真を手に、林道は思い出を語る。

「昔の僕にとって、この世界は輝いていましたから。さ、どうぞ」

 手渡された写真をゆっくりと海堂は眺める。

 記憶に焼き付けるように。

 その写真の風景はやはり見たことが有った。

「私も好きですよ、昔の林道さんの写真」

「貴方にそう言っていただけるのは光栄ですね」

 目線は決して合うことのない時間。

「……うん、好きな写真です。今の写真も勿論好きですけれど……こちらの写真も、ええ、とても好きです」

(きっと、この頃は幸せだったんだ。楽しかったんだ)

 感情が伝わってくる写真に抱いた感想は、胸に秘めた。

 この言葉をかけるのは、きっと酷だから。

「これでも有名なイラストレーターに背景資料として写真を取ってた次期もあるんですよ」

 林道のその言葉は自傷の様に聞こえた。

 きっと、失ったものが大きすぎたのだ。


「……海堂さん、貴方は『伽藍朔』を知っていますよね。だって、貴方は同い年でクラスメイトで……絵描き仲間だった」

 その言葉に、海堂の写真を見る手が止まる。


「林道さんも、伽藍を知っているんですか? 彼は、今――」

「海堂さん、貴方は彼の更新の停止されたアカウントにも、彼自身の連絡先にも、何度も連絡を送った」

「林道さん……?」

「それでも、伽藍朔は未だ見つからない。いや、連絡が取れない。だから今どうしているか知りたい……ですよね?」

 普段の林道とは打って変わり、表情を隠すかの如く、前髪は揺れる。

 俯いた林道の目は、そんな前髪で簡単に隠れた。

 暗く重く隠れた表情で、言葉にしなくても海堂は大まかに察してしまった。


「ねぇ、林道さん。貴方は――鈴をどう思いますか?」

「不思議なことを聞きますね? どうして急に……」

「私はね、鈴と林道さんって似ていると思うんです。そうやって、諦めたような目をしながらも藻掻いているところとか……大切なものを愛おしそうに見る時のその目とか」

 海堂は暖かな声で、愛おしいものを愛でる目で、林道の方へと顔を向ける。

 雨合羽から落ちた水滴が涙のように見えた。

 恐る恐る海堂に顔を向けると、あまりにも優しい顔をするものだから、林道の顔は少し歪む。

 懐かしい感覚に涙が溢れそうになったのを、隠したかった。


 やがて晴れ間が見えてくると、海堂は傘を閉じ笑顔で林道に告げた。

「だから鈴のこと、よろしくお願いしますね。……まだもう少し先、ですけれど」

「残酷な言葉を残していく人ですね、貴方は」

 林道は諦めたように笑うと、その言葉に頷いた。

「仕方ない人だ。分かりましたよ」

 正直言って、『興味がない』と言ったが……蛇の目を持っている者を預けられるのはだいぶ複雑である。

 だが、林道もまた、百日と自分が似ていることは分かっていたのだった。

 自分が、海堂と百日に昔の自分たちを重ねていることも気づいていたのだから。


「――ああ、もうすぐ夕方だ」

「この天気なら、夕焼けは一応は見ることが出来そうですね」

「ふふ、鈴は今家を飛び出している頃かなぁ」

「じゃあ、僕は御暇します」

 そう去っていこうとした林道を引き止める。

「もう少し、良いじゃないですか。三人で見ましょうよ」

「……夕焼けを?」

「ええ、最初で最後だと思うので、ちょっとしたワガママです。良いでしょう?」

「貴方という人は……お二人で見た方が宜しいのでは?」

 その言葉に海堂は首を横に振る。

「三人で見るから、価値があるんですよ」

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