家について早々に百日は画室に籠もった。
大粒の涙は、海堂との思い出が溢れ出したようで、何度も目を拭う。
一式揃えた画材を手にしながら、夕日の絵に加筆していく。
その間もその涙は止まることはなく、一度決壊したものはそう簡単に収まらない。
絵は衝動、海堂の教えを守った百日は、今日の夕日で上書きするかのように絵の具を重ねた。
いつも一人で見るよりずっと美しかった夕日に、想いをぶつける。
海堂への想い。あの質問への答えを込めて、殴るように感情を込めた。
やがて視界はあの夕日より、感情の塊で潤んで筆を置いた。
慟哭のように大声を上げて泣いたのは、いつぶりだろうか。
(こんな状態、洛さんにバレたくない。でも……)
理性は働いていても、感情は収まらない。
海堂の帰りが遅いことも、不安を加速させる。
やがて泣きつかれて、海堂の帰宅を確認する前に、画室で眠りについた。
次に目が冷めた時は、自室の布団の中だった。
隣には何故か、海堂も眠っていた。
「洛、さん……」
眠気眼で、海堂の手を握る。
「あったかい……」
生きている。海堂も、自分も。
昨日のことが嘘のように、穏やかな朝だった。
腫れて重たい瞼が、昨日という一日が現実だったと裏付ける。
(洛さん、昨日はずっと様子がおかしかった……。だからこそ、伝えなきゃ)
伝えたい言葉は数え切れないほど有った。
百日が零した言葉は、一番強い願い。
「どこにも、いかないで……」
そうして百日の瞼は再び閉じられ、眠りの中へ意識は沈んでいった。
ずっと、一人になるのが怖かったのだ。
海堂は、目を離せば何処かに言ってしまうように百日は感じていた。
そんな危うさがあった。
海堂洛は常に自分に付きっきりで絵を教えていた。
温かなご飯。暖かな食卓。自由に過ごせる時間。そして、頼めばいつでも絵を教えてくれた。
そんな海堂がある日、初めて自分に頼み事をした日のことを、百日は鮮明に覚えていた。
「ジニアを描いてほしい」
海堂の頼みごとは、そんなシンプルなものだった。
自分の好きな花だから、と理由を付けて百日に頼んだのだ。
カンバスいっぱいにジニアを描いた。
居間に飾りたい、と言われた時は暫く拒否しても諦めなかった海堂に、百日が折れたのだ。
百日は今でも何だか照れくさく感じていた。
そんな、百日にとって大切な日の夢を見ていた。
このまま目が覚めなければ、変わらずいられるのだろうか?
そんなことを考えてしまう。
しかし、そんなことを考えると目は自然と覚めてしまうものだ。
目尻に涙を浮かべたまま、目を擦る。
「やっと起きたのかい? 鈴にしては長く寝たね」
隣でふにゃりと海堂は笑った。
百日が握った手をそのままに。
「わっ、洛さん……! あ、手、ごめんなさい」
「謝らないで。私も鈴の布団に勝手に入ってしまってごめんね。一人にしておくのが怖かったんだ」
「それは別に……僕も構わないけれど。洛さん……いつの間に帰ってきたの?」
「うーん、結構遅くなってしまったのは事実だね。ごめん。帰ってきたら鈴がいないから、真っ先に画室を見に行って……丁度椅子から落ちそうになっていたから、そのまま布団まで運ばせてもらったんだ」
海堂は握った手を包むように、もう片方の手を被せる。
「沢山泣いたんだね。心配、だけじゃないな。不安にさせてしまって、ごめんね。鈴」
「いいよ。今は洛さん、傍にいてくれてるから」
傍にいる実感、それが百日の心を落ち着かせた。
「あ、そうだ。鈴、画室にあった夕日の絵」
「あ、あれはまだ未完成で――」
「とても美しかったよ。それになんだろうな、心が……暖かくなったんだ」
その言葉に百日は目を丸くした。
(伝わった……?)
弱々しくも柔らかな海堂の声に、確かに自分は届けたのだと実感する。
「あのね、洛さん。僕の本当にやりたいことはね、絵なんだよ」
「ああ、伝わったよ。鈴の本気も、情熱、愛情も全て」
「……ちょっと恥ずかしいけれど、喜んで良い、んだよね?」
表現というのは心を裸にしたようなものだ。
それを直球で『伝わった』と告げられるのは、少しばかり気恥ずかしい。
隠しておきたい想いも伝わってしまうものが絵なのだと、百日は改めて実感する。
「鈴は、あんなに暖かな気持ちを抱えているんだね」
「それは、洛さんのおかげだよ。僕を引き取ってくれたから……」
「『引き取った』って、言ってくれるんだね」
「違うの?」
その言葉が何を意味しているのかは、理解できなかった。
それでも、海堂の行場のない後悔は伝わっていた。
「あの時は混乱してたからよく分からなかったけれど……洛さんが僕を迎え入れてくれて、嬉しかった。僕は本当に幸せなんだよ」
「ふふ、それは私も頑張った甲斐があったな」
海堂は自分の持ちうる全てを百日に捧げると決めていた。
引き取る直談判したあの日から、ずっと。
技術や知識は勿論、家や画材といった物だって。
そして何よりも、家族として沢山の愛情を。
百日がいつの日か沢山の仲間が出来るように、願いを込めて。
そして、その全てを百日が受け取る日が来たら――
「洛さん? ね、そろそろ朝ご飯にしよう?」
「ああ、そうだね」
こうして日常に戻れることを幸せに思いながら、海堂は日常の終わりを悟っていた。
日常は、いつまでも続くものではない。
海堂には、その日が間近だと分かっていた。