目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
伍節

 家について早々に百日は画室に籠もった。

 大粒の涙は、海堂との思い出が溢れ出したようで、何度も目を拭う。

 一式揃えた画材を手にしながら、夕日の絵に加筆していく。

 その間もその涙は止まることはなく、一度決壊したものはそう簡単に収まらない。

 絵は衝動、海堂の教えを守った百日は、今日の夕日で上書きするかのように絵の具を重ねた。

 いつも一人で見るよりずっと美しかった夕日に、想いをぶつける。

 海堂への想い。あの質問への答えを込めて、殴るように感情を込めた。

 やがて視界はあの夕日より、感情の塊で潤んで筆を置いた。


 慟哭のように大声を上げて泣いたのは、いつぶりだろうか。

(こんな状態、洛さんにバレたくない。でも……)

 理性は働いていても、感情は収まらない。

 海堂の帰りが遅いことも、不安を加速させる。

 やがて泣きつかれて、海堂の帰宅を確認する前に、画室で眠りについた。


 次に目が冷めた時は、自室の布団の中だった。

 隣には何故か、海堂も眠っていた。

「洛、さん……」

 眠気眼で、海堂の手を握る。

「あったかい……」

 生きている。海堂も、自分も。

 昨日のことが嘘のように、穏やかな朝だった。

 腫れて重たい瞼が、昨日という一日が現実だったと裏付ける。

(洛さん、昨日はずっと様子がおかしかった……。だからこそ、伝えなきゃ)

 伝えたい言葉は数え切れないほど有った。

 百日が零した言葉は、一番強い願い。

「どこにも、いかないで……」

 そうして百日の瞼は再び閉じられ、眠りの中へ意識は沈んでいった。


 ずっと、一人になるのが怖かったのだ。

 海堂は、目を離せば何処かに言ってしまうように百日は感じていた。

 そんな危うさがあった。

 海堂洛は常に自分に付きっきりで絵を教えていた。


 温かなご飯。暖かな食卓。自由に過ごせる時間。そして、頼めばいつでも絵を教えてくれた。

 そんな海堂がある日、初めて自分に頼み事をした日のことを、百日は鮮明に覚えていた。

「ジニアを描いてほしい」

 海堂の頼みごとは、そんなシンプルなものだった。

 自分の好きな花だから、と理由を付けて百日に頼んだのだ。

 カンバスいっぱいにジニアを描いた。

 居間に飾りたい、と言われた時は暫く拒否しても諦めなかった海堂に、百日が折れたのだ。

 百日は今でも何だか照れくさく感じていた。

 そんな、百日にとって大切な日の夢を見ていた。

 このまま目が覚めなければ、変わらずいられるのだろうか?

 そんなことを考えてしまう。

 しかし、そんなことを考えると目は自然と覚めてしまうものだ。


 目尻に涙を浮かべたまま、目を擦る。

「やっと起きたのかい? 鈴にしては長く寝たね」

 隣でふにゃりと海堂は笑った。

 百日が握った手をそのままに。

「わっ、洛さん……! あ、手、ごめんなさい」

「謝らないで。私も鈴の布団に勝手に入ってしまってごめんね。一人にしておくのが怖かったんだ」

「それは別に……僕も構わないけれど。洛さん……いつの間に帰ってきたの?」

「うーん、結構遅くなってしまったのは事実だね。ごめん。帰ってきたら鈴がいないから、真っ先に画室を見に行って……丁度椅子から落ちそうになっていたから、そのまま布団まで運ばせてもらったんだ」


 海堂は握った手を包むように、もう片方の手を被せる。

「沢山泣いたんだね。心配、だけじゃないな。不安にさせてしまって、ごめんね。鈴」

「いいよ。今は洛さん、傍にいてくれてるから」

 傍にいる実感、それが百日の心を落ち着かせた。


「あ、そうだ。鈴、画室にあった夕日の絵」

「あ、あれはまだ未完成で――」

「とても美しかったよ。それになんだろうな、心が……暖かくなったんだ」

 その言葉に百日は目を丸くした。

(伝わった……?)

 弱々しくも柔らかな海堂の声に、確かに自分は届けたのだと実感する。


「あのね、洛さん。僕の本当にやりたいことはね、絵なんだよ」

「ああ、伝わったよ。鈴の本気も、情熱、愛情も全て」

「……ちょっと恥ずかしいけれど、喜んで良い、んだよね?」

 表現というのは心を裸にしたようなものだ。

 それを直球で『伝わった』と告げられるのは、少しばかり気恥ずかしい。

 隠しておきたい想いも伝わってしまうものが絵なのだと、百日は改めて実感する。


「鈴は、あんなに暖かな気持ちを抱えているんだね」

「それは、洛さんのおかげだよ。僕を引き取ってくれたから……」

「『引き取った』って、言ってくれるんだね」

「違うの?」

 その言葉が何を意味しているのかは、理解できなかった。

 それでも、海堂の行場のない後悔は伝わっていた。


「あの時は混乱してたからよく分からなかったけれど……洛さんが僕を迎え入れてくれて、嬉しかった。僕は本当に幸せなんだよ」

「ふふ、それは私も頑張った甲斐があったな」

 海堂は自分の持ちうる全てを百日に捧げると決めていた。

 引き取る直談判したあの日から、ずっと。

 技術や知識は勿論、家や画材といった物だって。

 そして何よりも、家族として沢山の愛情を。

 百日がいつの日か沢山の仲間が出来るように、願いを込めて。


 そして、その全てを百日が受け取る日が来たら――

「洛さん? ね、そろそろ朝ご飯にしよう?」

「ああ、そうだね」

 こうして日常に戻れることを幸せに思いながら、海堂は日常の終わりを悟っていた。

 日常は、いつまでも続くものではない。

 海堂には、その日が間近だと分かっていた。

コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?