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三節 夕焼け

 ――夕焼けは好きだ。

 洛さんがいつも、日が暮れるまで絵を見せてくれていたから。

 切り上げるときはいつも真っ赤に染まった空を見て、慈しむように微笑んでいた。

 そして、秋になると洛さんはいつも僕に言っていた。

「夕焼けはね、この次期が一番綺麗なんだ。強く光を発し、まるで木々まで染め上げてしまったようだろう?」

 そして、その後は必ず微笑んで、僕にこう告げる。

「だから、目に焼き付けておくんだよ。きっと鈴なら、この美しい夕焼けが描けるから」

 だから僕は普段寝る時間帯になっても尚、この冷えた画室で、絵の具の匂いに包まれながら、カンバスに向かう。

 今日目に焼き付けた光景を思い出しながら、筆を走らせて、何重にも色を乗せた。

 納得の行くまで絵の具を調合し、重ねて、また色を変え……それを繰り返した。

 赤にオレンジ、黄色や白……なんて単純な色では表現しきれない。

 きっと、この色にも名前があるのだろうな……などと、不勉強な僕は、今扱っている調合された色の名前すら分からない。

 重なって出来た色の名前も知らないが、洛さんはいつも『絵は衝動だ』と笑っていた。

 理屈や知識ではなく、衝動で目に写ったものを描くのが結果的に一番美しく描かれる……とかなんとか。

 それはそれとして、ある程度は基礎知識も有ったほうが良いけれど、とも笑っていたが。


 その日は結局、朝になっても納得がいく出来にはならなかった。

 起きてきた洛さんから朝食を頂いて、そのまま布団へと連れて行かれ、学校には休みの連絡をされた。

「……まだ、描けて、ない……」

「こーら。今は寝なさい。根を詰めすぎると、逆に良いものは出来ないものだよ」

 洛さんに頭を撫でられながら、そのまま眠りへと落ちていく。


 ――海堂は、百日が眠った後も、傍から離れなかった。

「鈴は、頑張り屋なのは良いところだけれど……徹夜で絵を描くのは、昔の私みたいで困ってしまうね」

 きっと、自分もこのように両親を困らせたのだろうと、学生の頃の自分を思い出していた。

 画家の家の生まれの海堂は、自身も画家として生きることに今までなんの疑問も抱いていなかった。

 しかし、百日は違う。

 勉学の方面で優秀な家、といった印象を海堂は抱いている。

「……鈴、君は……本当にやりたいことはなんだい?」

 深く眠っている百日の返答は当然なく、寝息が返ってくるだけだった。

 このままいても時間が経つだけだ、と海堂は百日の自室を後にする。


 海堂は自身の部屋に戻り、小型のノートパソコンを取り出した。

 二つブラウザウィンドウを開き、片方にはネットニュースを、もう一つにはSNSを開いた。

 その両方を読み比べる。

 具体的に見ていたのは、日時だ。


「――やっぱり、これって……」

 更新が止まったアカウント、そして一人の男性に関するニュース。

「……まだハッキリしたわけじゃない、けれど。日付も若干ずれているし」

 被害者の名前が伏せられたニュースからは、確信に迫る情報が得られないまま、海堂の頭を悩ませる。

 それでも、決心を固めるには十分だった。

(鈴にこれ以上、蛇目の事は触れさせないようにしよう。きっと――そうじゃないとあの子は生き延びられない)

「……特別な目を持つから、蛇目、か」

 旧友のことを思い出す。

 七年間連絡の取れていない彼と、七年前で更新が止まったアカウント。

 どうしても数日後に出た、ニュース――通り魔殺人、とされている事件が関係しているようにしか思えなかった。

 人間というものは単純で、数日の誤差が有ったとしてもこうして重ね、不安になるのだ。


 百日を蛇目から遠ざけるという選択も、本当なら本人が選ぶべきものだということは分かっていた。

 それでも、海堂がその選択をしたのは――百日が命を狙われるくらいなら、先手を打って交渉するしかないという直感の元だ。

 旧友である伽藍朔もきっと、似たような選択をしただろう。

(林道さんは、きっと――伽藍をよく知っている)

 海堂にはそんな確信めいた予感が渦巻いていた。

 そんな中、コンコンという軽い音が響く。

 そのノックの音に応え部屋を出ると、百日が立っていた。

「おや、早いお目覚めだね。鈴」

 気まずそうな様子の百日に海堂は疑問を抱いた。

 二度寝が出来なかったのか? だとしても、こうも気まずさを抱いてでも、部屋を尋ねる理由はなんだ?

「……まさか、寝る体力もなかったり――」

「そういうわけじゃ……。その、公園に、行きたくて」

「公園?」

 海堂にはますます疑問点が増える。

「今から行ったら、丁度良い頃だから……。学校休んだけど、夕日は見たいから付き添ってほしかった」

「ああ、なんだ。そういうことなら付き添うけれど……まだ少し早くないかい?」

「洛さん、最近買い物以外で外出てないでしょ。もう秋なんだよ」

『もう秋』、その一言で自分が如何に空を見ていなかったかを突きつけられる。

「洛さん、気温しか気にしてなかったでしょ。僕にこの次期の夕焼けが一番綺麗って教えたのは、洛さんでしょ?」

 海堂には百日の言葉が突き刺さる。

 目を逸らしていた現実を見る、というのはこうも痛みが伴うのか。

「ね、一緒に行こう? 最近、空見てないのは……知ってるけれど」

 これを言おうとしていたから、気まずそうにしていたのか。

 合点がいった海堂は、ただただ自分の弱さを突きつけられたようで、黙り込んだ。

 その行為自体が幼子のやるものだと気づいているが、言葉を返すことが出来なかったのだ。


「最近すっかり絵、描かなくなったから迷惑かなって思ったんだけどさ、やっぱり僕一人で行くわけにはいかないし……それに――また、描いてほしいんだ。洛さんの絵、好きだから」

 純粋な言葉の前に、海堂は無力だった。

「……うん。早く行こう。日が落ちてしまったら意味がないからね」

「いいの?」

「その代わり、今日は早く寝るんだよ。体力だって無限じゃないんだから」

「分かった、ありがとう洛さん。行こう」

 百日に手を引かれ、家を後にする。

 数年前まではよく通っていた公園。

 今は百日が毎日のように通っているが、海堂はこうしてしっかり空を眺めるのは、遠い昔の出来事のように感じていた。

 空の青が次第に薄くなり、朱に染まり始める。

 紅葉した木々は風に揺れ、まるでその光に染め上げられたようだった。

「ほら、もう真っ赤。明日も良い天気になるんだろうね」

「……そうだね」

 久しぶりに眺めた空は、ずっと前から何も変わっていなかった。

(まるで、私がまた眺めるのを待っていたみたいに、変わらない)

 その空が、今の海堂には眩しすぎた。

 空も、百日も、この空間に存在した全てが眩しく感じる。

 百日の目はキラキラと輝く。それは、決して光の反射だけではなかった。


(鈴と同じ空を見られたら……なんて)

 百日の瞳孔は蛇のように鋭くなり、光に包まれた瞳の中で異質さを放つ。

 その目に写っているのは、『理想の姿』なのだから、目を輝かせるのも当然だった。

 一人の風景画家として、百日の目に映る世界にはどうしても興味を抱く。

 同時に、同じものを見ることの出来ない家族としての寂しさも、海堂は抱いている。

「――鈴、私はね」

 海堂が話を切り出す。

「ただ自分に言い訳を重ねて、目を逸らしたかっただけなんだ」

 喉が詰まる思いだった。けれど、話さないことには何も変わらない。

「……何から?」

「世界、というと大げさだけれど、身近な現実からだよ」

「身近な……」

 その言葉に百日は少々表情が曇る。

「ほら、日々世界は変わっていくものだろう? 鈴だって、いつの間にか高校生だし……本当に、時の進みはあっという間だ。……私を置いていくほど、早い歩幅では進んでいく」

「洛、さん……?」

「私は、ずっと迷っていたんだよ。鈴を無理やり連れ出したようなものだったからね」

 その目はいつの間にか潤み、感情を具現化したような涙が浮かんでいた。


「鈴、教えてくれ。君は……君が、心からやりたいことはなんだい?」

「僕は――」

 応えをかき消すように強い風に吹かれ、思わず百日は目を瞑る。

「――鈴」

「……はい?」

 真剣な表情を向ける海堂に、百日はこの一瞬の間に何が起きたのか、思考を巡らすも答えは出ない。

 それ自身が百日を焦らせる。

「帰ろう。もう、暗いからね」

「……はい」

 何か、何かが起きたのだ。

 それを証さなければ、先程の質問に答えなければ、大きく日常が変わってしまう予感がした。

 海堂の視線を追おうとすれば、手を引かれた。

 何かを隠そうとしているのは、明白だった。


 涙で潤んだはずの海堂の瞳は何よりも鋭く、百日の背後――木々の影に紛れた何者かに向いていた。

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