「では、お邪魔しました」
「いえ。この辺りは明かりも有りませんので、お気をつけてお帰りくださいね」
海棠は林道に笑いかけ、軽く手を振り見送りをする。
背後から百日も控えめに手を振っていた。
辺りはすっかり暗闇が包んでいた。
月明かりだけが、唯一道を照らす中、林道は一人帰路に着く。
やがて林道の姿か見えなくなると、百日は軽くため息を吐いた。
「鈴、今日はどうしたんだい? 様子がおかしいけれど……」
「ああ、うん……。洛さんにはずっと黙ってたんだけど、林道さん。名前自体は僕も知っていて……。それは、洛さんが写真を見せていてくれたから、とかじゃない。ずっと……林道さんに関しては噂が流れてたんだよ」
「林道さんの噂?」
「……えっと、『林道玲、彼が写真に撮った人物は消える』っていう、そんな噂」
最初に百日が苦い顔をした唯一の理由だった。
何故なら、その噂が本当ならば、消されるのは海棠かもしれないと考えたからだ。
「彼は凄い写真家だよ。私が言えるのはそれだけしか無いけれど……」
海棠は寂しそうに笑うと百日に改めて微笑み、言葉を続ける。
「鈴は私のことを心配してくれたんだろう? だから、回り道をして帰ってきた……ってところだと思うんだけれど、どうだろう?」
「そう、林道さんが写真家として凄い人……ってのは正直知らなかった。洛さん、名前は伏せてたから。でも、この噂を聞いて、調べた時に出てきた写真の空気感がよく似ていたから、だから警戒した。どういった意図で、どういった経緯で『消える』のか分からないし、それに」
「――それに?」
「……なんでもない」
百日は話を切り上げる。
これ以上の追求を許さない、と言わんばかりに。
そのまま、百日は家の中に戻ろうと、戸を開いた。
それを止めるかのように、海堂は声を掛ける。
「鈴、君は――蛇目を知っているのかい?」
「林道さんにも聞かれたけれど、知らないよ」
「そっか、なら……良いんだ」
気まずそうに笑う海堂から、聞きたいことは山ほどあったが、百日は口に出せなかった。
隠しているのは、それに応じる不都合があるのだと、理解していたからだ。
(鈴、君は……何も知らないまま、その目を正しく使ってくれ)
それは、海堂の心からの願いだった。
百日は、少しだけ人と変わった目を持っていることを、海堂は知っていた。
その目は悪用することだって、人によってはできるのだろう。
百日鈴はそれをしない。海堂もそんなことは分かっているのだ。
だが、願わずにはいられないのが現実だ。
海堂が蛇目について聞いたのは、百日の目が関係していたからだ。
蛇目の血を引き、特殊な目を持った人間たちは、その目を悪用することもあれば――命を狙われることもある。
蛇目……改め、蛇の目を持っている、ただそれだけのことで、簡単に狙われてしまうのだ。
「洛さん?」
「……ああ、なんだい? 鈴」
「急に黙り込むから、気になっただけ。何かあった?」
その百日の目は純粋そのもので、表情にこそ出さないが、心から海堂を心配していることが伝わっていた。
だからこそ海堂は返答に迷った。
「――なんでもないよ。鈴が風邪を引かないと良いなって、思っただけさ」
「……? 急になんで……?」
「今日、帰り遅かったからね」
「……それは、そう、だけれど」
「本当にそれだけだよ。心配しないで」
そう言って海堂は、そっと百日の頭を撫でた。
そうして二人は家に戻る。
何度もしていたように。
(きっと、これから先も――)
そう、願いながら。
「ほら、お風呂に入っておいで。後片付けは私がやっておくから」
海堂は百日の背を軽く押すと、居間から離れるよう促す。
「……分かった」
普段、一人で後片付けなどしないことは鈴はよく知っていた。
だからこそ、今日の様子はおかしいと思わざるを得なかった。
しかし、またはぐらかされることだって、分かりきっていたのだ。
「洛さん、一つ頼み事をしても良い?」
「なんだい?」
「今日は夜ふかしさせて。絵を描きたいんだ」
「……分かったよ。完成したら、ちゃんと寝るんだよ」
背中を互いに向けたまま、そんな会話はどこか寂しいものだと知りながら、海堂は振り向くことが出来なかった。
振り向いたら、どんな
内心はとても臆病な二人であることは、互いによく知っている。
それでも強がって、笑いかけるくらいの誤魔化しと共に生きてきた。
だからこそ、今は互いに顔を見ることが出来なかった。
「……ありがとう、洛さん」
「……ああ、絵描きは、衝動が大事だからね」
海堂は自身の弱さや不安を隠すように、声色を明るく返答した。
何も答えることができない謝罪代わりに、百日が風呂に入っている間、海堂は画材を用意していた。
画室というだけ有って、床は絵の具で汚れている。
やはり定期的に掃除をしなければならないな、と笑った。
「……この色、だいぶ減ってきたね。今度買い足そう」
絵の具を片手に、画材の様子を見ては、百日の成長を間接的に実感していた。
「ふふ、前はあまり使わない色だったのにね」
それは喜びとも、寂しさとも取れる、柔らかな声色。
しっかりと見渡せば、描きかけだった絵もいつの間にか完成しているものが幾つかある。
一方で変わらず放置されているものも、此処には有る。
目隠し布ですら埃を被っている、海堂の絵だ。
その絵に少しだけ居心地の悪さを覚え、海堂は視線をそらす。
しっかりと手入れされている画材を一通り並べ、画室を去ろうと、戸を開けた。
すると、驚いた様子で百日が立っている。
「わっ」
「おっと。おや、もう上がったのかい?」
「洛さんが集中しすぎてただけで、十分長風呂だったと思うよ」
「そっか、水分は摂ったかい?」
「ん。……あの、画材の用意、ありがと」
百日の真っ直ぐとした瞳に、内心海堂は気まずさを抱いていた。
「どういたしまして。私は上がったら寝るけれど、もう夜は冷えるから暖かくして描くんだよ」
「分かった。ちょっと早いけど……おやすみ、洛さん」
「ああ。おやすみ、鈴」