覚えているのは冷たい水の匂い
肺から空気が全て奪われ
薄れゆく意識の中でその苦しみに歓喜した。
優斗
やっとお前に会える。
優斗が焦がれたこの地の
美しい海に抱かれ今からお前に会いに行く
目を閉じかけたその時
天使を見た気がした。
「目が覚めた?」
……聞き覚えのない声。
訛りのない綺麗なクイーンズイングリッシュだ。
重い瞼を僅かに開くと、目の前に金の髪に輪郭を縁取られた白い肌が見える。
そこで一際目立つ蒼い瞳。
俺が身を投げたあの海と同じ色をしていた。
「良かった、気がついて。人工呼吸なんて初めだから上手くいくかドキドキしたよ。」
屈託ない笑顔で話す少年。
年の頃は17歳くらいか?
身なりから裕福な家庭の育ちである事が窺えるが……。
そうか,俺はこの少年に命を助けられたのか。
「うちの前の浜辺に打ち上げられてたからびっくりしちゃった」
「どうして……そのままにしてくれなかったんだ」
もう少しで優斗に会えたのに。
「言うと思ったー!」
楽しそうにそう言って笑う。
予想とは全く違う反応に面食らった。
「やっぱり死のうとしてたの?なにがあったの?生まれはどこ?この国じゃないよね」
俺の寝かされていたベッドに乗り上げ好奇心でいっぱいの顔をして矢継ぎ早に質問をするその少年の瞳は……
……近くで見ると深く澱んだ深海のようだった。
少年の屋敷に保護されはや三日。
熱が下がらないとの理由で部屋から一歩も出して貰えない。
それでも気持ちが落ちつくと礼の一つも言えてない事に気付き、館の主人に合わせて欲しいと食事を運んできてくれた少年に頼んだ。
「そんなのいないよ」
「親は?」
「いない」
「いないわけがないだろう」
「ほんとだよ。だからお兄さんのことも僕が勝手に助けて使用人に頼んでここに連れて来た。」
「そうか、ありがとう。助けてくれて」
主人が不在であれば本人に礼を言うのが筋だろうと感謝の言葉を伝えたところ少年は大層不機嫌になった。
「心にもないこと言わないで。それよりお兄さんの歩んできた人生を聞かせて」
「人生?」
「そう。退屈だからどんな人生を送ったら死にたいと思えるのか知りたいんだ。」
ふざけた色を滲ませた口調に相反するようなその目は切羽詰まった必死さを醸し出していて。
その対照的な様子に惹かれて俺はポツポツと今までのことを語り始めた。
見知らぬ国の見知らぬ相手だからだろうか。今まで誰にも話したことのない全てを彼には話せた。
ずっと一緒だった優斗のこと。
好いてくれたのに何も返せず傷つけた匠のこと。
幸福も希望も落胆も諦めも混乱も
全てを語る俺の前で少年はただ黙って耳を傾けていた。
「それでお兄さんは」
「直人だ」
「ナオトはユートに会いたくて海に飛び込んだの?」
「……そうだな」
会いたくて……と言うより優斗のいない人生をただ終わらせたかっただけなのかもしれない。
「それほど誰かを愛せるものなの。僕は愛を知らない。」
「……これから沢山知る事になるよ。」
それを愛と呼ぶのか
それすら分からないけど。
惰性や依存、執着だって愛と呼べばたちまち美しい物になる。
俺の優斗への気持はそれらと何が違うのかも曖昧だ。
「僕の名前はミシェル 」
少年は唐突にそう名乗り微笑んだ。
その名にふさわしい美しい笑顔だ。
「天使の名前をつけて僕をこの世に送り出した両親はもういない。ここには僕と数名の使用人だけ。」
「……親はどこへ?」
「僕を捨てて出ていった」
「なぜ?」
「5年前に病気になって。感染するからって。それ以来会ってない」
そんな……。
「生きられてもあと半年。ユートと同じ病気だよ。」
俺は衝撃に声も出せなかった。
優斗の病気はとても珍しい。
国内でも発症例は数件だ。
それを違う国でたまたま出会った相手が同じ病気とは。酷い巡り合わせだ。
「ミシェル 、君の病気は感染しない」
「知ってる。でもこの国の人はそう信じてるんだ。」
「バカな事を……」
そんな迷信に惑わされて我が子を捨てるなんて。
「ナオト僕は死にたくない」
「ミシェル ……」
「それでも最期の時誰かに手を握ってて貰えれば死んでもいいと思えるんだ」
「え?」
「ナオト。僕を看取ってくれない?」
「……ミシェル 、俺はもう……」
誰の死に目にも会いたくない。
そう続ける前にミシェル が口を開いた。
「ナオトの命を救ったのは僕だよ。あの時捨てたはずの人生なんだからたった半年くらい僕にくれてもいいでしょ」
軽い口調とは裏腹に声は拒絶の恐怖に震えている。
俺が断って出て行けばミシェル はたった1人でここで死んでいくんだ。
「……わかった」
「ありがとう!!」
俺の首にしがみつくまだ軽い少年の体。
折れそうな背中にそっと腕を回してあやすように軽く叩きながら涙ぐむ彼を落ち着かせる事に専念した。
優斗これは俺への罰なのか。
ちゃんとお前を看取れなかった俺にその罪を贖えと言う事なのか。
一緒に暮らし出して三ヶ月。
たまに体調は崩すものの、比較的安定した病状でミシェル は穏やかに毎日を過ごした。
彼は家族の思い出や今はもう会えない友達の話をしてくれて、俺にも優斗や匠と過ごした思い出をせがんだ。
そして時折庭の花を愛でたり甘いお菓子を摘んだり。
だが使用人たちはミシェル の顔を見ると慌てて姿を隠し決して関わろうとしない。
彼の孤独な五年間を思うと胸が痛くなった。
「ナオト、これ助けた時に持ってた携帯。返しとくね。」
「ああ……ありがとう」
どうして今頃?
「一緒に海に沈んだんだ。もう使えないだろう。」
「僕もそう思ってたんだけど念の為に修理に出したら生きてたんだよ。だから返すよ」
驚いて受け取る。
丈夫に出来てるんだな。
「しかもね、まだ解約されてないみたいでちゃんと使えるんだって」
「そうなのか?」
行き先も言わず勝手にこの国に来て随分経った。
まさか解約されてないとは。
電源を入れると夥しい数の着信とメール。
殆どが大久保からのものだった。
ずらっと並ぶメールを順番に見ていく。
好奇心いっぱいのミシェル も一緒だ。
早く翻訳しろと急かされる。
最初はどこにいるのかと言う内容ばかりだったものが途中から独り言のような内容になり
そのうち日記のような近況報告になった。
「面白いね。でもこの人はとてもナオトが好きなんだね」
「そうだな。本当の父親より父親みたいな人だ」
その報告には父親のことや匠のこともあり、晃くんと結婚して出産を控え幸せに暮らしている事なんかが綴られていた。
そのうち生まれたとのメールを見つけ2人でハイタッチで喜んだりもした。
全て読み切ったミシェル は新しいメールが届くたびに本の新刊を見るようなワクワク顔で早く読めと目をキラキラさせていた。
その顔を俺は一生忘れないだろう。
そんな穏やかな日を過ごし更に二ヶ月。
ミシェル は少しずつ言葉数が少なくなっていった。
「ナオト、そろそろ咲いた?」
庭を見遣ってミシェルが問いかける。
彼の大切にしているクチナシの木は蕾は大きくなるのに一向に開かない。
肥料の配分を変えた事を気にしていたので、もう咲きそうだと安心させる。
身体はすっかり痩せてしまい美しかった金髪も艶が無くなった。
あとどれくらい保つのだろう。
優斗は事故だったからこんな姿を目にするのは初めてだ。
なんとか満開のクチナシの花を見せてやりたくて必死に木の手入れをするが強情な蕾は頑なに花弁を閉じたままだ。
この木はミシェル が生まれた時に両親が記念樹として植えたらしい。
「ナオト」
「なんだ?」
昨日から具合が悪くスープさえ口にしていない事を気にしながらどうにか水分だけでもと考えていると上掛けから手を伸ばし俺の手を握った。
「ありがとう。この半年凄く凄く幸せだった」
「最期の言葉みたいだからやめろ。大丈夫だ。」
だってまだ歩けるし食事が出来ないのも昨日と今日だけだ。
「だからまだ元気なうちに言うんじゃないか。本当に感謝してる」
「そんなの俺だって。お前と暮らせて良かった。ありがとう。」
自分が死のうとしていた事なんて忘れるくらいに楽しくゆったりとした暮らし。
全部ミシェル のおかげだ。
「僕を看取る事で貴方の苦しみは赦される。」
「なんだ?本当に天使みたいな事を言うな」
そう言う俺にミシェル は天使の笑みを授けた。
「花が……」
小さなささやきにハッとして庭を振り返るとあんなに強情だった蕾が狂ったように一斉に咲き誇っている。
それは圧巻でとても美しく独特の芳香が部屋の中にまで漂ってきた。
「やったな!肥料の配分は間違ってなかった!あんなに大きな花は見た事が……」
思わずはしゃいで振り向いた俺の目に映ったのは幸せそうに穏やかな表情で眠りにつくミシェル の姿だった。
「天国の花と呼ばれるクチナシと共に逝くなんてさすが天使だな」
彼の腕を上掛けの中にしまい、その額に感謝のキスをする。
そしてそのまま僅かな私物を持って俺はひっそりと屋敷を出た。
ありがとう、ミシェル にそう言った時その顔が優斗と重なった。
そうか俺はちゃんと優斗にお礼が言いたかったんだ。
俺のために苦しい治療をして生き続けてくれたお前に。
もう十分だと。
ありがとうと。
事故の時の記憶はすっかり戻っている。
あの時、接触の衝撃に一瞬気を失い、次に目が覚めた時には閉じ込められた車内で優斗の心臓は止まっていた。
病気で亡くなる事は覚悟していたけどあんな風に最期の言葉も交わせず突然いなくなるなんて考えもしなかった。
その事実に耐えられず記憶が混濁し匠を苦しめた。
それでもそばにいてくれた匠。
お腹の子供が自分の子なら匠を幸せに出来ただろうか。
考えても仕方ないことだ。
全ては巡り合わせ。
こうなる運命なんだろう。
ミシェル と出会った事も
必要な事だった。
会えて良かった。
看取らせてくれてありがとう。
特徴的なナオトと呼ぶ舌足らずな声がまだどこからか聞こえてきそうだ。
そんな事を思い、流れるままの涙を拭もせず前を向いて歩く。
仕事を探そう。
ここで生きていこう。
そしていつか大久保にだけでも元気でいると連絡出来ればいい。
そうだ、その前に
遅くなったけど匠たちに出産のお祝いのカードを送ろうか。
以前の住所に送れば転送されるだろう。
子どもの誕生を心から喜んでいたミシェル の気持ちを届けたい。
自分の中にもう死のうなんて気持ちは残ってなかった。
金の髪に海の色の瞳を持つ天使が全部持っていってくれたから。