その日はなんとなく朝から気分が優れなかった。
妙にお腹が張って苦しいしいつも賑やかに暴れる子供が全く動かない。
「じゃあ行ってくるよ」
出勤の準備を終えた晃がカバンを手に玄関に向かう。
「うん。気を付けてね」
そう言っていつものように晃とハグをしようと少し背伸びをした時
内臓を引き絞られるような痛みをお腹に感じた。
思わず顔を顰めて背中を丸める。
「どうした?匠?」
慌てて俺を支える晃の腕に縋り、声も出せない痛みに冷や汗を滲ませた。
もしやこれが陣痛?
予定の入院はまだ半月ほど先なのに。
「病院に行こう。ちょっと我慢できるか?」
「ん……少しマシになった」
本当に陣痛なら痛みはずっと続かないと聞いてる。
「動ける間に病院行きたい」
「すぐ車取ってくる」
晃が慌ただしくドアを開けて出ていった。
その直後にまた激しい痛みに襲われる。
なんで?
陣痛なら最初は1時間おきくらいで痛むって聞いてたのに。
まださっきの痛みがひいてから3分くらいしか経ってない。
もしこの痛みが陣痛以外のものなら。
子供に異変が起きたんだったら?
そんなのダメだ!
みんながどれだけこの子が生まれるのを楽しみにしているか。
泣きそうになりながらお腹をさすって子供を安心させようとするがお腹はガチガチに張って岩のように硬くなっている。
どうしよう。
ちゃんと産めなかったら
嫌な想像ばかりが胸に湧き上がる。
程なく車を玄関に着けて晃が戻ってきた。
「痛いか?すぐ病院に着くからな」
抱き抱えられるように様子を見ながら車に乗せられて病院に向かっている間も、定期的に訪れる激痛に冷静な判断もできず俺はどんどんパニックになっていく。
「匠!着いたぞ。動けるか?抱いて運んでいいか?」
「ん……今ちょっと治まってるから歩く……」
それよりこんな朝早く成宮先生はいるだろうか。
早く先生に診てもらって大丈夫と言って欲しい。
油断すると飛んでしまいそうな意識の中でユキが俺を呼ぶ声がした。
「晃!連絡ありがとう!匠?大丈夫?」
俺の顔を覗き込むユキに返事をしようと顔を上げるとユキの隣に成宮先生が立っていた。
「先生……!まだ産まれちゃダメなのに!それに間隔が空かずにずっと痛みが……」
我慢していた涙が溢れる。
それを見て成宮先生はニコッと笑うともう大丈夫と言ってくれた。
「ひとまず診察しましょう。もうここまで育ったらすぐ産まれても大丈夫なので安心して深呼吸して」
いつもと変わらない穏やかな声にさっきまでのパニックが嘘のように治まっていく。
「さあ、ここに座って。せっかちな赤ちゃんの様子を見ましょう。どっちに似たんですかね?」
「晃です」
そう言う俺にすかさず晃が不満の声をあげる。
「確かに匠が離婚してから動き早かったよねー」
ユキまでそんな事を言い出してすっかり診察室は和やかな雰囲気になった。
「あっ、また痛い……」
「確かに随分下がってきてます。帝王切開の準備をしますね。いよいよ赤ちゃんに会えますよ」
そう言うと先生は側にいた看護師に病室の指定から点滴の内容までテキパキと指示をして準備を進める。
「いよいよだね!匠!」
頬を少し緊張させてユキが俺の右手を握った。
「匠!ずっとついてるからな」
晃は反対の手を握る。
結局俺の左手指は少しだけ動かしづらくなってしまったけど
晃は俺が指の代わりになると言ってくれた。
ユキも頼りになる先生もいる。
こんな幸せな世界にこの子を送り出せることが何よりも嬉しい。
「さあ迎えにきましたよ」
そう言って病室に入ってきた先生に俺は痛みを堪えながらゆっくりと頷いた。
診察を終え分娩手術室に入ってすぐ
先生はベッドに横たわる俺に穏やかに話を切り出した。
「手術をする為に麻酔をします。局所麻酔と以前説明しましたね?」
「はい」
「一刻も早い手術が必要なので全身麻酔に切り替えます。いいですか?」
「えっ、それってまさか子供が……」
「お腹で暴れ疲れたのか少し心音が弱くなってます。すぐ出してあげましょう」
「せ……先生!でも前に全身麻酔は子供にも多少影響が出る可能性があるから出来れば局所でって……」
「そうですね。局所麻酔の方がより安全ですが効くまで少し時間がかかります。待っていられないんです」
「そんな」
話をしている間にも周りには沢山の看護師達が忙しそうに手術の準備をしていた。
「先生……問題は時間だけですか?」
「そうですね。局所麻酔だとまだ効かないうちにお腹を切ることになるので」
「それなら大丈夫です!切って下さい!」
医者の立場として許可して貰えないかもしれないと思いながらも俺は必死に訴える。
先生はしばらく考えてわかりましたと言った。
「やって下さるんですか?」
「何を言ってももう決めたんでしょう?それなら一刻も早く始める方がいい。痛いかもしれませんが頑張りましょうね」
いつもの優しい微笑みでそう言った先生は周りの人たちに変更を伝え自分も支度をする為に部屋を出た。
どんな事をしても
無事に産んであげたい。
その為ならなんでも出来る。
早く会いたいよ。
元気な顔を見せて
手術が開始して1時間半。
晃とユキは手術室の前に立ち尽くしていた。
「長くない?こんなに時間かかるものなの?」
「そんなのわかんねえよ・・」
その時、医師と思しき数名が何に使うのかも分からないような器具を手に手術室まで走って来た。
それを迎えるように中から成宮医師がドアを開け早口で指示を出す。
「先生っ!」
ユキの声にこちらを向いた成宮医師は大丈夫と答えるものの、その笑顔はいつもと違い焦りに歪んでいる。
「絶対助けます。だからもう少し待ってて下さい」
それだけ言うと他の医師と共に中に入って行った。
「……晃、取り敢えず座ろう」
「ああ……」
2人は生きた心地のしないまま待合のベンチに腰掛けた。
「ねえ、高校の時の修学旅行覚えてる?」
突然泥の中から彼を引き摺り出すようにユキが明るい声で晃に話しかけた。
「何を?」
「夜抜け出して遊びに行こうって言ってたのに匠がさっさと寝ちゃって」
「ああ……あれは信じられなかったよな」
少し笑ってあきらが呟いた。
「その時初めて晃の口から匠が好きって聞いたんだよね」
「そうだったな」
とっくに気付いてたけどね、と笑うユキに晃は気まずげに視線を逸らす。
そのあとユキから好きだと告げられたのだ。
「丁度匠の結婚が決まった時期でさ、それなのに諦めないって聞いてバカだなあって思ったんだよなあ」
「馬鹿とは何だよ。そりゃ自分でも思ってたけど」
「でも匠にも伝えず、ずっと1人で隠し通して来たんだもんね。その気持ちが実を結んで僕は本当に嬉しいよ」
「ありがとう……」
晃は隣にいる一生の親友に心からお礼を言言った。
言葉ひとつ行動ひとつ違えば
まるで違う人生になっていたかもしれない。
そんな正解のない選択肢をいくつも重ねて今こうしてここにいる。
最善ではなかったかもしれないし、その選択のせいで傷つけた人も沢山いた。
でも今日奇跡に立ち会える事を全てに感謝したい。
晃はそんなことを考えながらひたすら匠と子供の無事を祈った。
「飲み物でも買ってくるよ」
それから更に1時間が経過した頃、ユキがそう言って立ち上がった。
晃はそんなユキを見上げてああと返事をしたがユキはそのまま微動だにせずドアを見ている。
「どうかしたのか?」
「いや、気のせいかな?今……」
「なに?」
その時
白く閉ざされたドアの向こうから
柔らかい途切れ途切れの子猫のような産声が待ち望んでいた2人の元に届いた。