陽の差し込む静かな病室。
少し痛み出して来た左腕に気を取られていた俺には医師の言葉がまるで別の国のもののように聞こえていた。
「今のところ順調ですよ。飲める薬は限られるので少し治りは遅くなるかもしれないですが」
「待ってください……」
医師の言葉を遮り俺は思わず上体を起こす。
「ヒートはしばらく来てなくて、前回の性交渉からもう4ヶ月以上経ってます。
それにその後の検査薬で陰性と出たんです」
「検査が早かったか誤診断だったようですね。簡易検査薬ですか?あれは100%じゃないんです」
俄には信じられず言葉を理解するのに時間がかかった。
「すみません。気付いてないとは思わなくて。そろそろつわりも始まっている時期なので」
そうだったのか。
だから吐き気や倦怠感が続いたのか。
それに何より包丁をお腹に向けた時に理解し難い危機感で刺す事が出来なかったのは子供がいたから?
「でも……俺、結婚して1年経っても子供出来なくて……自分は出来ないもんだと思ってました」
「そうなんですね。若いうちは出来にくいこともあります。でもちゃんと授かりましたよ、おめでとうございます」
優しく微笑みながらそう言われてさっきとは違う涙が込み上げてくる。
この中に新しい命がいる。そう思っただけで
まだ平らなお腹からエネルギーが湧いてくるようだ。
「手術の麻酔は影響の少ないものを使いましたが落ち着いたら検査もした方がいいと思います。今後のご説明もしますので番の方も一緒にお話ししましょう。」
「あ……はい」
そうだ。
この子は直人の子じゃない。
唯一無二のパートナーだと思ってる優斗が他のαの子供を宿したなんて知ったら直人はどう思うだろう。
俺と子供を受け入れてくれるだろうか。
けれどこの子を失うことは何があってもしたくない。
「考えることも多いでしょうがひとまず今は子供のためにもゆっくり休んでください」
「はい」
俺は素直に返事をしてベッドに横になったが、気持ちが昂って眠れるわけもなくただひたすらこれから先のことに思いを馳せた。
医師が退室してしばらくしてからノックの音と共にユキが病室に入って来た。
その後ろには晃もいる。
「匠!」
整った顔を泣きそうに歪めて晃が俺のそばに近づく。
「良かった。助かって良かった!」
大きな手で俺の包帯がない方の手を強く握りしめ、掛け布団の上に顔を埋めた。
「迷惑かけてごめん」
「ほんとだよ!出血が多すぎて本当に危なかったんだからね!」
肩を震わせる晃の代わりにユキが怖い顔で俺を見下ろす。
「2度と許さないからね!」
「わかってるもうしない」
いや、出来ない。
このお腹には大事な命が宿ってるから。
「直人さんと何かあったのか?」
晃が俺の目を見て尋ねる。
その顔は涙に濡れていた。
「イケメンが台無しだな……」
思わずそう呟いて2人からそれどころじゃない!と怒られた。
確かにそうなんだけど。
直人に触れられる事を拒絶してしまう原因が分かった事が俺の心を軽くしていた。
それによってまた新たな問題も出て来た訳だけど。
「そうだ!直人さんが会いたいって言ってたよ。もし会ってくれるなら連絡欲しいって」
「うん、会いたい」
自然と思いが溢れる。
「匠、会うなら俺も一緒にいちゃダメか?」
「え?どうして?」
「直人さんは記憶が「晃!!」」
ユキがぴしゃりと言葉を遮った。
「え?なに?」
「なんでもない。晃、それは晃が言っていいことじゃないよ」
「でも……」
俺はピリピリした空気に驚く。
長い付き合いだがこんな二人は初めてだ。
「会いたいなら匠が直接直人さんに連絡してあげて。そしてちゃんと話し合って」
「わかった」
結局ユキや晃に子供の事を話せないまま面会は終了した。時間ギリギリまで居てくれた2人を見送って俺は携帯を手に取る。
そして直人に会いたいと連絡を入れてベッドに横になった。
直人からの返事はすぐだった。来た。
明日行くというメッセージに顔が綻ぶ。
きちんと話そう。
子供のこと
自分は優斗ではないこと
直人をずっと愛していることも
そうして一つずつ歪みを修正してちゃんと直人と向き合おう。
翌朝。
直人を出迎える為に身支度を整えて待っていたが、約束の時間になっても彼は姿を見せなかった。
何度メッセージや電話をかけても繋がらない。
何かあったんだろうか。
優斗の事故のことが脳裏に甦り、心配でいてもたってもいられない。
「誰かに連絡を……悪いけどユキに家まで見に行って貰おう」
事故だけじゃない。
病気で倒れている可能性もあるのだ。
そう考え俺が携帯を手に取った瞬間、直人からメッセージが届いた。
「もう会えない」
そっけない文字だった。
記憶が戻ったのでもう会いたくない。お前は優斗じゃないんだから、と。
離婚手続きはこちらで進める。慰謝料としてわずかだが口座に振り込んでおくので今後は連絡をしてこないようにと締めくくられていた。
「……あっけないな」
俺は窓の外を見た。
夕闇が空から降りて見事なオレンジに染まっている。
俺に何があっても世界は何も変わらない。
それは直人にとっても同じで、彼はずっと優斗一人を愛していたしそれを邪魔して最後まで惨めに彼に縋ったのは俺のエゴだった。
それだけだ。
涙と一緒に嗚咽が漏れる。
結局最後まで彼にとっては必要のない人間だったのだ。
~直人視点~
匠が俺に会いたいと言ってくれた。
ユキくんには感謝しかない。
怯えさせて自らの手で身体を傷付けるような真似をさせたのに。
ずっと違う名前、それも匠にとって一番聞きたくない名前で呼ばれて側にいるのもつらかっただろうに。
謝っても謝りきれない。
償う方法なんて考えつかない。
これからはすべて匠の望むようにしよう。
俺はそう思った。
俺の記憶ははっきりしている。
正確に言うと不審な物音に気付いて匠の部屋を開けた時から。
むせかえる血の匂いと死んだように動かない身体を見て事故を思い出した。
揺さぶっても目を覚さない様子に慌てて救急車を呼び電話の相手の指示通りに傷より上をタオルできつく止血する。
救急車が到着するまでの時間は永遠に感じるくらい長かった。
その間に混乱した頭の中が少しずつ冷静になり、今まで不自然を感じつつも見ないふりをしていた事の辻褄が全て合い……
俺はずっと匠のことを優斗だと思いこもうとしていた事に気が付いた。
なんて酷いことをしたんだろう。
匠にもそして優斗にも。
優斗の死を受け入れられず
匠を優斗と呼んでのうのうと生きていた。
その頬に涙の粒をはらはらと零しながら自分を捨ててくれと言った優斗。
けれど俺は何があっても側にいると誓ったのに。
優斗と初めて会ったのはまだお互い中学に上がったばかりの頃。
上級アルファだった俺に近づいてくるのは権力目当ての奴ばかりでそれに疲れ果て人付き合いを一切しない人間だった。
そんな俺を見かねて夏休みに大久保が優斗を遊び相手にと連れて来たのだ。
優斗は気が強く俺にも平気で説教をするような奴だった。でもそれが面白くて俺はどんどん優斗に魅かれていったことを覚えている。
そして大学を卒業する頃には一生を誓い合う仲になっていた。
あの頃は幸せだった。
お互いがお互いだけを見ていれば良かった。
けれど大人になり社会に出てそれだけでは生きていけない事を知った。
2人の仲を家族に認めてもらう事は難しく
散々争い家を出る覚悟までした時
優斗に病気が見つかった。
その難病は治療方法が無く長い時間をかけて身体を蝕んでいくもので高額な治療費がかかる。
それはなんの後ろ盾もない若い2人には到底払える額ではなく
俺たちは親父の条件であるオメガと結婚して子供を作る事を受け入れた。
優斗はずっと匠を気にしていた。
寂しい思いをさせるなとよく怒られた。
本当に不安で寂しかったのは自分の方なのに。
その証拠に匠と結婚後、優斗はオメガに変化した。
滅多に起こる事ではない。
現にどういったメカニズムで後天的に第二性変化が起こるのか解明されていない。
けれどアルファを愛し愛されて心からオメガになりたいと望んだベータに後天性の変化が多いという事はオメガであれば俺の子供を産めたのではという儚い想いが原因ではないだろうか。
ただその性変化は優斗の体に負担をかけ病気を更に進行させる結果になった。
後天的オメガは子供ができるわけでもないのに。
それでも性変化するほどに俺の側にいる事を望んだ優斗。
事故がなくてももう長くは生きられなかった彼を
忘れてしまうなんて。
優斗に対する裏切りでしかない。
ちゃんと優斗に会って謝ろう。
ごく自然にそんな風に考えて立ち上がり
部屋の鍵を手にしたところで
もうこの世のどこにも優斗はいないんだ
2度と謝ることも会うことも出来ないんだと
唐突に気付かされて
初めて
死んだ優斗を想いただひたすら泣いた。
次の日の朝
俺は約束の時間に間に合うように匠の病院に着いた。
病室の場所を聞くためにナースステーションに寄ると手術室で会った看護師がいた。
声をかけると向こうも覚えていたようでにこやかに対応してくれる。
「面会が終わったら声かけて頂けますか?ご夫婦揃って聞いて頂きたい話があるんです」
「なんの話ですか?」
今後の治療方針か?
「お腹のお子さんの話です。まだ3ヶ月ですが今でも出来る検査があるので」
お腹の?子供?
俺は曖昧な返事をして病室に向かって歩き出した。
子供……3ヶ月?
匠が家を出てからもう5ヶ月近く経つ。
一緒に暮らすようになってからも2人の間に体の関係は無かった。
では誰の……
そこまで考えて匠が入院した夜のことを思い出した。
「匠は俺の運命の相手です」
確かに晃くんはそう言った。
匠を幸せにしたいとも……。
では2人は。
とっくに戸籍上は他人だ。
そんなことになっていても不思議はない。
それに気付き、俺は自分のすべきことを悟った。