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第8話 頑張らなきゃ……

直人の退院の日


迎えにきてくれた大久保さんの車で俺は直人と家に向かった。


直人には住み慣れた、でも俺にとっては初めての家。


見知らぬ人が暮らしていたその場所が、これからの自分の住処となる事に戸惑い少し気分が悪くなった。


「優斗どうした?顔色悪いけど」


……優斗と呼ばれる事に少し慣れてはきたけど出来れば大久保さんの前でその名前は出さないであげて欲しい。


「大丈夫だよ。それよりお腹空いてない?」


俺は話を逸らすように問いかける。


「あんまり」


「じゃあ今夜は軽くポトフでも作るよ」


慣れないキッチンの事を考慮し、簡単なメニューを提案しつつ買い物の算段をしていると、大久保さんから着きましたよと声を掛けられた。


以前住んでいた所から少し離れた静かで緑が多い地区に建つタワーマンション。


当たり前のように最上階に向かうエレベーターに乗り、小さくなる景色を見ていると世界から置いていかれ隔離されてしまうような気持ちになる。


「優斗、鍵開けられるか?」


鍵持ってない……。当たり前だけど。


「ごめん忘れちゃった」


「俺のジャケットのポケットに入ってるから取って」


不自由そうに松葉杖をつきながら俺の方に体を傾けた直人を支え、カードキーを取り出して重たいドアを開けた。


その瞬間


部屋から流れてくる空気に ここがどこなのか一瞬分からなくなる。


それほどにこの部屋は以前俺が直人と2人で暮らしていたあの部屋の匂いがした。


いつも使っていたフレグランス……?

でもどうして?



直人をソファに座らせて荷物を片付けようと、奥に続く部屋のドアを開けた。

そこで待っていたのは、あの部屋に置いてきた直人に買ってもらった俺の服や雑貨たち。


恐らく以前は優斗のものがあったであろう場所に今はとても自然に俺の荷物が並んでいた。


「どうして?」


他の部屋やキッチンにも使い慣れたアイテムや、気に入っていた飾り物が全て引っ越してきている。


まるで最初からここにあったみたいに。



ふとマンションの前まで見送ってくれた大久保さんを思い出す。

お陰で先ほどからの吐き気が驚くほど楽になった。



冷蔵庫にも買い物が必要ないほどの食材が揃えられていたのでコーヒーを淹れて直人の隣に座る。


「やっぱり家はいいな」


そう言いながら俺を抱きしめて甘えるように肩に顔を埋める直人。


俺は驚きながらも抱き返して髪を撫でた。

優斗にはいつもこんな風に心を許していたのかと切ない気持ちで。


そういえば俺たちの離婚は成立してるんだっけ。

再婚するんだろうか?

いや、俺は死んだ事になってるもんな。

だからって優斗と結婚しようにも役所で受理はされないよな。



そんな事をぼんやり考えていたら直人の手がシャツの裾から忍び込み明確な意図を持ってゆっくりと俺の肌を撫で始めた。


え?なんで?ヒートでもないのに


そう思った時


「優斗」


愛し気に耳元でその名を呼ぶ直人。


そうだ。今俺は優斗なんだ。



この優しさも

熱を持った瞳も指も

甘やかな仕草も


全て優斗に向けられたもの



改めてそう気付いた途端

言いようのない吐き気が込み上げて

俺は直人を押し退けるように立ち上がりトイレに駆け込んだ。



「優斗?大丈夫か?!」


ドアの外から驚いた直人の声がする。

大丈夫と伝えながらも俺は立ち上がる事さえできないままそこでうずくまっていた。



なんだろう……。

変なものでも食べたかな。


しばらくすると少しおさまってきたので、気のせいと思うことにして直人の元に戻る。


そして心配性の直人の手によって怪我人の彼より早くベッドに寝かされた。





それから10日ほどが経ち、結婚していた頃に戻ったように穏やかな二人の時間を過ごしている。


違うことといえば……


直人がリモートで在宅仕事をしているので出社もせず24時間一緒に過ごしていること。

そして俺のことを変わらず優斗と呼ぶこと。



いつ違和感に気づくのだろうと身構えていたが思ったより落ち着いていて、もう一生このままなのかと何ともいえない気持ちになる。


後は俺が改名でもしたと割り切って自分を優斗だと思い込めば2人で幸せに暮らしていけるんだろう。


今は無理でもいつかそうなれば

お互いにとって一番いいのだと思う。



それから、もう一つ今までと違うことがある。

実はこれが一番厄介な問題で


直人に触れられる事をどうしても身体が拒絶してしまい大抵途中で気持ち悪くなるか不安になって涙が止まらなくなる。

最初に気持ち悪くなったのは気のせいじゃなかったんだ。



そのせいで直人とは再会以来一度もセックスが出来ないでいた。


夫婦なのに抱かれそうになるたびに具合が悪くなるなんて、直人からして見れば不愉快極まりないだろう。


その証拠にここ数日で俺に対する態度がよそよそしくなった。


次のヒートが来るまでの我慢だと思いながらも目を合わせてくれない直人に寂しさと恋しさが募った。





やっと俺だけの直人になったのに……。






「優斗?聞こえてるのか?」


「はいっ?」


ぼんやりしていたところに本来自分のものではない名前を呼ばれたので、反応が遅くなり直人を苛立たせてしまった。


「ごめんなさい。どうしたの?」


「もういい。少し外に出てくる」


「わかった。すぐ着替えるから待ってて」


「優斗は来なくていい」


えっ?


松葉杖なしで歩けるようになったとは言えまだ無理は出来ない。


「大久保を呼ぶから心配しなくていい。」


「……わかった。何時ごろ帰る?今日は新鮮なお魚で……」


「今夜は遅くなるからいらない」



聞いたことのない冷たい声。


直人は驚いてなにも言えない俺の前を通り過ぎ、ドアを開け出て行ってしまった。



一人取り残された俺は力なくソファに腰掛ける。


何か思い出しかけているのかもしれない。

直人もきっと違和感や不安と戦っている。

側で1番に支えないといけない俺がこんな事でどうするんだ。







俺が頑張らなきゃ……



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