意識が戻った時、俺はベッドの上にいた。
「……ここどこ?」
苦しい。
吐く息が熱い。
そういえばさっき突然ヒートが起こって……。
俺は気を失ったのか?
ゆっくりと体を起こし、おぼつかない足取りでベッドから降りる。
どろりと足の間を粘液が滴り落ちた。
「晃……」
リビングに続くドアを開けようとした時、「開けるな!」と鋭い声がした。
「晃?」
「匠、頼むから部屋から出るな。鍵をかけてそこにいてくれ」
晃の切羽詰まった悲しげな声がドアの向こうから聞こえる。
「……晃も?」
俺のヒートに誘発されたのか。
「ごめん、晃。俺のせいだ」
……けれど、もどかしく熱を持つ体は、ドア一枚隔てた先にいる運命の番を欲してたまらなく疼く。
「助けて……」
誰にともなくそう呟いて座り込むが、抱いて欲しくて気が狂いそうだ。
浅ましいオメガの性。
こんなにも心と体を乖離させる。
「匠……大丈夫か?」
「……大丈夫じゃない……」
今までのヒートと全然違う。
こんなに激しい衝動は知らない。
抗えない痛みにも似た感覚が全身を舐めるように覆い包んだ。
「匠」
「なに……」
「抱きたい」
「……晃」
ドアにもたれているんだろう、隙間から晃のフェロモンが流れてきた。
息が出来ない。
「で、でも……俺はまだ直人が好きなんだ」
息が上がる。
肺が悲鳴を上げている。
「分かってる。でももう終わったんだよ。すぐは無理かもしれないけど俺と番になって欲しい」
「でも……!」
かチャリとドアが開いた。
「なんで鍵閉めないんだよ……」
二重の少し青みがかった綺麗な目が燃えるような赤い色をしている。
アルファのヒートであるラットを起こしているのだ。
ラット状態のアルファは通常、理性が無くなる。それなのに晃はまだ俺を慮って意に沿わないことをするまいと欲望と戦っている。
「あきら……」
もういい。
新しい人生を歩むと決めたじゃないか。
目の前には運命の番。
何を迷うことがあるのか。
晃は大切な人だ。
その人がこんなにも苦しんでいるんだから。
俺は手を差し伸べて強く晃を抱きしめた。
お互いの乱れた呼吸。
結合部から規則的に聞こえる濡れた音
悲鳴のようなベッドの軋み
そして脳を焼くような快感
もう何度目の性交だろうか。
俺の意識は既に朦朧としていた。
目の前の相手を強く抱きしめ、より深く繋がれるように背中に足を絡ませる。
「……匠!」
直人じゃない声。
直人じゃない体。
「あきら……」
俺が名前を呼ぶと晃は体を震わせて俺を見た。
俺のせいだ。
ごめん晃。
俺が引っ掻いたであろう頬の傷をそっと撫でる。
その途端、晃の目から涙がぽろぽろと溢れ出した。
「ごめん匠。俺匠のこと無理矢理……。でも止まらない。ごめん」
「あっ!」
そう言いながら俺の腰を掴んで思い切り奥まで貫く。
予期せぬ動きとあまりの気持ちよさに俺の背中は限界までのけぞった。
身体にも心にも。
足りなかった部分にぴったりハマるような。
尾てい骨から首筋まで痺れて頭が真っ白になる
これが運命の相手とのセックス。
まだ直人を心から愛しているのに
与えられ貪っている快感は晃から与えられるもので
俺は混乱し
激しく抱かれながら俺はひたすら泣いた。
次に目が覚めたのはお風呂の浴槽の中だった。
暖かくて気持ちがいい。
ぼんやりとクラゲのようにたゆたっている俺を、晃が後ろから抱きしめ現実に繋ぎ止めている。
黙って俺の首筋に唇を押し当てじっとしている晃はまるで怒られてしょんぼりしている小さい子供のようだ。
「晃……ごめんな」
俺がそう言うと晃は驚いたように俺を抱く腕に力を込めた。
「悪いのは俺だ!匠は何も悪くない」
「俺のヒートが原因だろ」
「そのヒートだって俺のフェロモンが誘発したのかもしれないだろ」
運命の相手のフェロモン。
例え他に番がいても抗えない暴力的な匂い。
……こんな気持ちが不安定な時に晃の側にいるべきじゃ無かった。
「匠……もう一つ謝らなきゃ」
「なに?」
晃はちゃぷんとお湯の中に手を入れて俺のお腹をそっと触った。
「ゴムつける余裕が無かった」
「え?」
「赤ちゃん……出来たかも」
「……大丈夫じゃ無いかな。今までも全然出来なかったし」
いや、運命の相手だとどうなのかな。
出来やすいとかあるのかな……。
晃が俺のお腹をゆっくりと優しく撫でる。
まるでそこに既に愛しい我が子がいるかのように。
「もし赤ちゃんが出来てたら、覚悟決めて俺と番って」
俺は何と答えればいいのか分からず、小さな声で「考えとく」とだけ呟いた。
風呂から上がって、指一本動かすのも億劫なくらいの疲労に立つことも出来ない。
俺は結局そのまま晃の家に泊まった。
晃は律儀にベッドの下に布団を敷いてそこで眠っている。
ラットが治まったとはいえ、さっきまであんなに抱き合っていた俺に遠慮する必要があるだろうかと思ったけど
それが凄く晃らしくてホッとした。
もし本当に子供が出来ていたら
晃はきっといい父親になるだろう。
こんな中途半端な気持ちで晃と番えるんだろうかという不安はあるけれど……
だって直人とは別れたんだ。
いつまでも思っていても仕方ない。
直人に幸せになって欲しいと思う分、自分も幸せになりたいと思う。
けれど・・・
静かに寝息を立てる晃を見ながらどうしようもなく寂しくなって声を殺して泣きながら長い夜を過ごした。
翌日家に帰るとまだ両親はリビングにいた。
きちんと顔を合わせるのは久しぶりだ。
「おかえり!匠!ご飯できてるわよ」
「あ、うん」
ずいぶんご機嫌で挨拶される。
てっきり病院の話になるかと思ったのに
拍子抜けして用意された食事に箸を伸ばす。
「なんかいいことあったの?」
恐る恐る聞く俺に、何もないと笑顔の母親。
いや、絶対ある。
隠すってことは俺に関することだ。
まさかもう次の相手が決まったとか??
その証拠に不妊治療がどうのなんて話は一切出てこない。
……次の相手は
どんな人でもいいけど
俺のことを好きじゃない人がいいなと思っていた。
だって俺も好きになれないから。
けれど晃とそうなってしまったからには、新しい見合いは出来ない。
ちゃんと話さないといけないな。
両親には反対されるだろうけど。
ぼんやりと箸を動かしていると、掴んだはずのアスパラガスがつるりと膝の上に落ちた。
拾おうとして自然と自分のお腹が目に入る。
正直まだ覚悟はできていない。
晃と番い直すことも晃との子供を産み育てることも。
アフターピルを飲むことも考えたけど
自然に任せたいと思った。
その判断が正しいのか間違っているのかわからないけど
どんなに考えてもまだ今は答えは出てこない。
それからしばらくしても
直人から変わらず連絡はないし、両親から新しい縁談の話もない。
落ち着かないが晃とユキからひっきりなしに連絡が入り、遊びに誘われるので気が紛れている。
今日なんて三人で水族館だ
なんでかは知らない。
こういう提案をするのはいつもユキだし
恐らく理由なんてないただの思いつきだろう。
「マグロの群れがすごいな」
感心したように晃が巨大な水槽を見上げる。
薄暗く静かな館内の至る所に青、蒼、碧。
光の反射に鱗を煌めかせて沢山の魚が泳いでいる水槽はまるで宝石のようだ。
その神聖さに心から感動していた
……が。
「魚見てたらお腹すいたね。寿司食べにいかない?」
そんな俺の耳元で無神経な声。
勿論ユキだ。
「来たばったかだろ。最後まで見ろよ」
「あーじゃあさっさと回ろうよ」
本当に気まぐれ。
けどそれがユキの魅力だ。
どんな奴だってユキが迫れば落ちる。
「晃の相手がユキならよかったのにな」
思わず口に出した言葉にユキの顔が険しくなる
「それ二度と言うの禁止!僕むかーし晃に振られたんだよね」
「えっ?!」
知らなかった。
「あー勿論すっかり吹っ切れてるよ。酷いことされてさ。もうあいつ大嫌い」
「酷いこと?晃が?」
そんなはずない。
晃はいつでも優しい
「何があったんだよ」
そう聞く俺にユキは拗ねたように唇を尖らせて話し出した。
「ずっと好きって言ってたのに晃は匠しか見てなくてさ。ヒートの時わざと晃の家に押しかけて押し倒したんだ」
何という強硬手段。
そして凄くユキらしい。
「あいつどうしたと思う?」
「そんなのアルファなんだからオメガのフェロモンには逆らえないだろ」
そう言いながら俺はあの夜のことを思い出していた。
好きとか嫌いじゃない。
本能で誘われてしまうんだから。
晃とユキにそんな事があっても不思議じゃない。
でもチリチリと胸が痛むのは何でだろう。
「あいつさ、僕に抑制剤飲ませて自分もありったけの抑制剤のんでさ。僕の薬が効くまで布団にくるんでずっと抱きしめてたんだよ。
匠しか無理だからって謝りながら。だから何にもなかったの。捨て身で迫ったのに酷くない?
でもその後晃は薬の飲み過ぎで救急搬送されて入院したんだ。
ザマーミロだよね。」
そうだよなとは言えない内容に俺は口籠る。
酷い目にあったのは晃の方だろう……。
「あいつ優しいと思ってるでしょ。それ匠にだけだから。匠に誘発剤飲ませて襲おうとしてた奴とかえらい目に遭ったよ」
そんな事があったのか。
何も知らなかった。
知らない間にずっと晃に守られていたのか。
離れたところで魚の生態の看板を熱心に読んでいる晃の広い背中を見て、鼻の奥が痛み泣きそうになった。
「この前晃に抱かれたんでしょ?聞いたよ。」
ユキはそう言って俺のお腹を見た。
「子供出来てたらいいね。僕は子供嫌いだから生まれても可愛がってあげないけどね」
そんな悪態をつきながら笑うユキはすっかりいつも通りで。
「そうだな。出来てたらいいな」
俺もいつも通り浮かんだ言葉をそのまま口に出し、そんな自分に驚きながらも少し幸せな気持ちになった。
まだ見たいと珍しくごねる晃を宥めすかし、水族館を後にした俺たちはユキの希望通り寿司屋に向かっている。
「水族館の後寿司屋とか冒涜だよな」
「うるさいから晃の奢りね」
「いいけどなんか納得できない」
三人で笑いながら最寄駅に向かう途中で俺の携帯が鳴る。
直人の秘書の大久保さんだ。
離婚手続きの話かな。
俺は2人に断って電話に出た。
「はい・・匠です」
旧姓を名乗るのか直人の姓を名乗るのか迷って名前だけを伝えた俺に大久保さんの慌てた声が飛び込んできた。
珍しい。
いつも冷静な人なのに。
「大久保さん、すいませんもう少しゆっくり」
「もうしわけありません!匠様、社長が事故に遭われました」
「直人が?」
全身に冷たい水を浴びたように血の気が引いた。
「それで容体は?!」
「まずはすぐおいでください。場所は……」
大久保さんに言われた病院の名前を繰り返し電話を切る。
「ごめん!また連絡する!」
「たくみ?!」
俺は2人には何も告げないままタクシーに飛び乗った。