第1話☆仮想世界の黎明期
「吉川!待たないか。いったいどこまで行くんだ」
ネクタイをしめた背広姿の青年が、彼の担任のクラスの女子生徒の後を追って足早に歩いていた。
「たけみ先生!この世界のことどう思う?」
花畑の中を少女は笑いながら先を行く。
「仮想世界なんて、現実世界よりたいしたことはないじゃないか」
「そうかな?今はまだ発展途上で、将来的にずっといいものになると私は思うんですけど」
世界各地で、自治体ごとにそれぞれの仮想空間が造られ、お互いに競い合うようにプログラムを組んでいた。
ラスベガスの仮想空間は、ギャンブル。ケニアの仮想空間は、動物たちの楽園、大草原。摩天楼の見下ろす東京は、大都会。なにわの大阪は、食い倒れ。エトセトラ、エトセトラ。
この青年教師と女子高生のいる日本のK県でも、例にもれず地域色の強い仮想世界が構築中だった。
「吉川!悩み事があって相談したいとお前が言ったからここに来たが、そろそろ本題に入ってくれないか?」
少女は笑い顔を真顔に変えて立ち止まった。
「私の好きな人が、とても頭が良くて、なんでもできるのに、人生に敷かれたレールの上をただまっすぐ歩こうとしているんです」
「……それで?」
「先生、どう思います?いくつもの未来と選択肢。でもその人は一つだけしか選ぼうとしないんです」
「その人なりに使命感があるんだろう。科学者とか、研究員とか決まった仕事に生涯をかけている人達もたくさんいるぞ」
「でも、私はその人に他の選択肢にも目を向けてほしい」
「なぜ?」
「その人が好きだから。私のことを振り向いてほしいから」
「それはお前のエゴじゃないのか?」
「違います!」
少女は叫ぶように言った。
ごう、と一陣の風が彼女の周りで巻き起こる。
「吉川、現実世界に戻ろう。現実は、そう簡単じゃないし、甘くもないんだ。もし、お前の想い人がお前の言うことを聞いて、一生自分の意に沿わないことをやって生きていくとしたら、それは悲しいことだぞ。そうじゃないか?吉川」
少女は両手を握りしめ、今にも泣き出しそうだった。
「……です」
「なに?なんだ?」
「私はたけみ先生のことが好きです!」
「俺が、か?」
「はい」
「俺にはお前の言っているような人生設計はないぞ」
「いいえ。他の先生に聞いたんです。たけみ先生はK県の県立高校から東京のW大に進学して高校の英語教師になってK県に帰ってきた。そしてまだ上を目指すつもりで、また昇進試験の勉強をして、県庁に勤めて県立高校の校長先生になるつもりだって」
「……そうか、それを聞いたのか」
「K県の教育委員会に貢献するのがそんなにやりたいことなんですか?」
「吉川。俺のことはいい。もうほっといてくれ」
「どうして!?」
「俺にも使命がある。死んだ親父との約束なんだ。できるところまで、俺は行く」
教師の決意は固く、ゆるがなかった。
「たけみ先生!私と仮想世界で一緒に新しい世界をつくりましょう!ここならどんな願いもかないます」
「吉川。確かにいろんな願い事がかなうかもしれない。だが、それはまがい物だ。現実逃避でしかない。お前はまだ幼いから、わからないかもしれないが、いつかわかるときがくる。その時後悔しないように一緒に現実世界に戻ろう。大地に足を踏みしめて一歩一歩確実に歩いていこう」
「そんなのいやです!」
少女に教師の言葉は届かなかった。
「……人生なんてゲームみたいなものでしょ?だったら、楽しんだ者勝ちじゃないですか?」
「吉川、人生はゲームなんかじゃない。どんな理不尽なことも起こるし、深刻な問題だって山積みだ。それを乗り越えて生きていくんだ。逃げずに立ち向かって乗り越えられたら、人生の醍醐味が初めてわかる」
「先生、わざわざいばらの道に分け入っていかなくてもいいじゃないですか」
「お前には、わからないんだな。もう、俺のことは考えるな。俺もお前のことは忘れる」
「そんな!」
教師は少女を残して仮想世界から現実世界へ帰っていった。
その後。
仮想世界に置き去りにされた少女は打ちひしがれて、泣きながら森をさまよっていた。
「独りでどうしたんだい?」
誰かが少女に声をかけた。
「だれ?」
そばには人影はなく、ただきれいな水をたたえた湖があった。
少女は岸から湖を覗き込んだ
湖面に自分が映っている。しがない女子高生。それでも、あの教師のことを本気で想っている。
「吉川、よしかわ……」
気付くと湖面に彼が立っていた。求めてやまないあの教師が手を延ばせば届きそうな距離に微笑んで立っていた。
これは幻だ。
彼女にはわかっていたが、それでも体はいうことをきかなかった。
「先生!たけみ先生!」
「こっちへおいで」
「うそだ!うそだ、うそだ」
「うそなものか。この世界で一緒に生きよう」
「先生は、たけみ先生はそんなこと言わない!」
「気が変わったんだよ。お前の言うことも一理ある」
「そんなはず、ない」
足元の土がずるりと滑った。
「あっ!」
どぼん。彼女は湖に落ちた。
水の中だったが不思議と苦しくなかった。
「あなたはいったい何者なの?」
「イーサン・湖の精。この仮想世界の意志に通じる者」
「仮想世界の意志、って?」
「求めてやまないものがある意志。それはお前と同じ。さあ、同化しよう」
「たすけて」
なにか得体のしれない巨大なものに包み込まれた。
少女の体は二分割されて、無意識の本体は水の底へ沈んでいった。意識のある方だけ湖面に浮かび、岸からはいあがった。
少女はそれ以後この仮想世界から出られなくなってしまった。