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第34話:ドメニク・ボーラン

「まじかよ! なんでドメニク・ボーラン様が!?」


 クロードは急いでいた。


 食堂で怠惰をむさぼっていたところに隊員が駆け込んできた。執務室に第1騎士団長殿がお見えになっているという言葉を伝えられた。


 詰め所に戻ってくる最中、群衆の波の中を無理やりに渡ってきたため、制服は汗も混じってしわくちゃだ。


 クロードは宿舎にある自室に駆け込む。


 アイロンが効いている制服に着替える。制服のポケットにマスクを突っ込む。右腕に籠手を纏う。


「マントはどうする? ドメニク様の前でマントつけてちゃ失礼だ。ああ、手に持っていこう」


 クロードは逸る気持ちを抑えて、宿舎の窓ガラスに自分の姿を映す。自分の恰好におかしな部分が無いか素早くチェックする。


「身だしなみ、良し。髪型、良し」


 宿舎の入り口から外に出て、詰め所の建物に入る。


 いったん、そこで足の速度を一気に緩める。クロードは心臓が耳の裏で鼓動しているかのように感じた。足元が軽く震え、何度も手汗を拭おうとするが、それは追いつかない。


(これでいいのか? 間違ってないか? ああ、くそっ)


 心の中で何度も問いかけるが、心の中の混乱は収まらなかった。呼吸を整えながら、執務室へと向かう。


 クロードは執務室のドアの前に立ち、1度、大きく深呼吸する。そのドアを左手で軽くノックする。


「第10機動部隊所属のクロード・サイン。ただいま戻りました!」


 クロードはゴクリと唾を飲み込む。その音がドアの向こう側へと聞こえているのではないかと内心ひやひやとしてしまう。


 ドアの向こう側からマリーの「どうぞ」という声が聞こえる。クロードは意を決して、執務室へと入室する。一歩、執務室へ足を踏み入れた瞬間、クロードは背中に怖気が走った。


(執務室がすげー寒い! こりゃ、とんでもない威圧感だ!)


 クロードはマリー隊長が本来座っているはずの場所にいないことをすぐに視認する。マリー隊長は別の席に座っていた。


 そして、マリー隊長が本来座っている席からは目ちからだけで殺してみせようといわんばかりの視線の強さでクロードを睨みつけてくる男がいた。


 クロードはもう一度、ゴクリと唾を飲み込む。それと同時に自分を身体から溢れさせるオーラで飲み込もうとしてくる男の威圧も一緒に腹の奥へと飲み込んだ。


「遅れて申し訳ございません! クロード・サインです!」


 クロードは緊張感を持ちながら、マリー隊長の席に座っている男に軍式の敬礼をおこなう。


 その男はクロードに対して、コクリとだけ頷いてみせる。クロードは執務室のドアのところから一歩も動けずじまいであった。


(ドメニク様の視線が痛い! 時間が経つのがすごく遅く感じる!)


 静寂の時間がゆっくりと執務室の中を流れる。1秒がその10倍の10秒に思えてしまう。クロードは着席している男に見られているだけで額から汗が流れてきてしまう。


「うむ。楽にしたまえ」


「はい!」


 クロードは体勢を崩して良いという許可を与えられる。クロードは言われた通り、かかとを揃えていた足を肩幅ほどの距離へと広げる。さらに両手を背中の方へと回す。


 軍隊式でいうところの『休め』であった。その流れるような所作を見せることで、自分は一端いっぱしの兵士であることを身体で示してみせる。


 男は表情を崩さぬままに席から立つ。彼が立ち上がると、部屋全体がさらに冷え込んだように感じた。


 クロードだけでなく、そこにいる全員が緊張に包まれ、音もなく息を潜めていた。まるで空気が薄くなったかのように、彼の存在が空間を支配していた。


 クロードは一瞬、顔に驚きの表情を見せた。それを見逃さぬとばかりにクロードの顔を覗き込んでくる、彼は。


(近い! 顔が近いです、ドメニク様!)


 クロードはその動きに誘導されぬよう努める。姿勢を休めの状態にしたまま、まっすぐ前を向く。その姿を見せつけることで、男は「うむ」と言う。


 男の名はドメニク・ボーラン。このハーキマー王国のたったひとりの大将軍だ。念入りにクロードをその鋭い眼光でチェックしてくる。


 クロードはあまりにもの圧迫感で呼吸もしづらくなっていた。さらにドメニク大将軍はクンクンと犬のようにクロードの身体を嗅いでくる。


(なん……だと!?)


 クロードは目を丸くした。彼の鼻が髪のすぐそばで動くのを感じ、思わず後ずさりしそうになったが、足が動かなかった。


(俺は今、いったい何をされてるんだ!?)


 何が起こっているのか、理解しようとしたが、状況は理解を超えていた。部屋の全員が静まり返り、奇妙な緊張感が漂っていた。


 ドメニク団長は髪の毛、耳、顎下。それだけでは足りずとクロードの上半身のいたるところを嗅いでくる。


(動くな、俺! これは試験だ!)


 クロードは体中から汗を噴き出していた。汗の匂いも敏感にかぎ分けてやると言いたげな相手と対峙しているというのに、どうやっても身体からにじみでてくる汗を止めれなかった。


「うむ。良い匂いだ。楽にしろ」


 ドメニク大将軍はクロードにそう命じると席へと戻っていく。座る前にハジュンに一言二言囁く。


(何を言っている?)


 クロードはついそちらに視線を向ける。だが、視線を向けられたことを素早く察知したドメニク大将軍はハジュンに囁くのを止めて、着席するのであった。


 そして、ふうと長い嘆息をする。またしても長い静寂が執務室に訪れる。クロードはまばたきすらも注目を浴びるのではなかろうかと心が冷え込んでしまう。


「すまなかった。試すような真似をして。ハジュン、たまにはお前の報告を信じても良いと思えた」


 ドメニク大将軍から溢れていた威圧感が段々と彼の身体の内側へと収まっていく。それにより、ようやくしっかりと呼吸が出来るようになる室内の人々であった。


「クロードくん。きみは報告通り100人の長としての才器を持っている」


「ありがとうございます!」


「だが、マリー隊長は万を率いる将器の持ち主だ」


 ドメニク大将軍はそこまで言うと、一度、言葉を切る。何かを考えている風であった。目を閉じ、言葉を探しているようにも見える。そして、頭を左右に振った後、続きの言葉を言う。


「万を率いる将器の持ち主を支えようとするならば、お前はもっと精進せねばならん。それをゆめゆめ怠るな。以上である」


 ドメニク大将軍はそう言うと、すくっとまっすぐに席から立ちあがる。ハジュンに「後は任せた」と言い、ひとり、執務室から退出していく。


 クロードは結局、執務室の入り口近くから一歩も動けずじまいであった。


◆ ◆ ◆


 ドメニク大将軍が退出すると、室内にようやく人々の息遣いが戻った。最初は小さな囁き声が交わされ、次第に全員が徐々にリラックスした表情を見せ始めた。


 ハジュン団長がその場を柔和な雰囲気で包み込み、ついに誰かが笑い出した瞬間、緊張が完全に解けていった。ハジュン団長のおかげとも言えた。


「いやあ、すいませんね」


 ハジュンは申し訳なさそうにするが、笑顔の裏にはいつも通りの柔和さがにじんでいた。


「マリー殿とクロード殿を直にこの目で確かめたいと言って聞きませんでしたので」


 ようやくひとごこちつけた面々の前に隊員が湯飲み茶碗を配っていく。その中には麦茶が入っていた。


「一度、言い出したら、第2騎士団のアリス団長も真っ青なくらいに自分を突き通すひとですからね、ドミニク団長は」


 ハジュンは右手を団扇にしながら、首元に風を送っている。


「いやあ、驚いたんやで。いきなりマリーちゃんの身体をくんくん嗅ぎまわし始めた時は、わいでもドン引きやったからな!」


「噂には聞いていたから、平静をなんとか保てたけど……。それを知らなかったらクロードみたいにガッチガッチになってたと思う」


 ヨンの言う通り、マリーもクロードと同じことをドメニク大将軍にされていた。その場にクロードがいたならば、ドメニク大将軍に殴りかかっていたかもしれない。


「んで、ハジュン団長。さっき、ドメニク様がハジュン団長にぼそぼそ呟いていたッスけど、何言われたんッスか?」


 それは皆も気になるところであった。マリーがドメニク大将軍にいろいろと身体検査をされた時には彼はそんなことをしなかった。


 しかし、クロードの時は違っていた。ハジュンは言っても良いのだろうかと首を少し捻ってみせる。だが、言っても大丈夫だろうという顔つきになる。


「先生にしっかり手綱を握っておけって言ったんですよ。犬は犬でもお前と違ってこいつは狂犬だと」


 そのハジュンの台詞を聞いて、執務室は爆笑の渦に包まれてしまう。


「あかん! わい、一発でドメニク大将軍にハートを射抜かれたわ!」


「狂犬って。クロードにピッタリじゃないッスか!」


「そんなに、笑っちゃダメよ……。ぷぷぷ、ぷふ」


 ヨンが腹を抱えて笑う。レオンが笑い過ぎて椅子から転げ落ちる。マリーは笑いすぎちゃ可哀想だとばかりに机に突っ伏して笑いを堪えている。


 クロードは笑われ過ぎて、赤面しながらうつむいていた。


「いやあ、すごいッスね。ひとの匂いでそこまでわかるもんなんッスか?」


 レオンは声をうわずらせながらハジュン団長に質問する。ハジュンはええ……まあ……と前置きしつつ


「じっくりと相手を観察し、さらに体臭や汗の匂いでその中身まで暴く。国王の犬と呼ばれている先生も顔負けですよ」


「ハジュン団長も出来るようになったほうがいいんじゃないッスか?」


「嫌ですよ。一歩間違えればセクハラとかパワハラとかで更迭されます。あれはドメニク様ほどの威厳と威風があってこそです。先生程度ではただのハラスメント親父です」


 確かにそうだなという雰囲気が皆から伝わってくる。


 嵐のように現れ、嵐のように去っていたドメニク大将軍。


 その後に柔和な雰囲気に戻してくれるハジュン団長。


 こうなるように最初から計算して、ハジュン団長を連れてきたのではと思ってしまうマリーであった。

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