王都:カーネリアンはいつも以上の賑わいを見せていた。朝9時から始まったセレモニーの熱が王都中に広がっていた。
王都の道のあちらこちらで人だかりが出来ている。王宮からの通達が貼られた伝達板に特にひとが殺到していた。城の前にある広場に入り切れなかったひとたちが中心となり、伝達板に群がったのである。
「すごい人数……」
「ああ。これだけのひとがマリーと俺に期待を寄せてくれてるのか……」
それを横目にしながら、セレモニーを盛り上げるのに貢献した2人が群衆から隠れるように少し急ぎ足であった。
ジーネン大臣から手渡された手土産のひとつにあたまをすっぽり隠せるフードがあった。ジーネン大臣の気遣いに感謝しかない2人である。
(ジーネン大臣は見越していたのね……)
この2人は人混みの隙間をすり抜けるようにして、先を急いだ。いつもなら30分もかからぬ道程であるはずなのに、1時間近くかけてようやく目的地へと到着する。
2人は目的地につくと、ようやくフードを脱ぐことが出来た。
「やっと帰ってきたあ。ほんとすごい盛り上がりだったわね!」
今日は初夏を思わせるような気温であった。
その温かい気温の中で群衆の波を泳いできたために、せっかく王宮で汗をぬぐったというのに、またびっしょりと汗で身体が濡れてしまっている。
マリーは汗で濡れた顔をハンカチで拭く。髪の毛にも汗がついていた。
(汗で濡れているマリーもきれいだな……)
クロードはぼうっとした顔つきで隣に立つマリーを見ていた。彼女の仕草ひとつひとつがクロードの目に映る。
クロードにはマリーが絵画の1場面に描かれるひとりの少女のように感じた。マリーはマリーでクロードの視線を感じる。彼女は笑顔で彼のほうへと顔を向ける。
「どうかした?」
「お、おう。汗で濡れるマリーはまた違って見えるなって」
マリーはクロードの言葉を受けて、ますます笑顔を強くさせる。どうしていいかわからないクロードを突き放すようにマリーは言う。
「まったく何言ってるの。あー、汗かいて喉からからー! お水飲みたいー!」
マリーはクロードのもやもやとした邪念に気づけなかった。無邪気に明るくふるまってみせる。そして、「シャワーを浴びてくるー!」と彼に告げて、そのまま詰め所の中へと走る。
そんな彼女を目で追いかけることしかできないクロードであった。
(……ったく。マリーは今日で16歳になったというのにまだまだ元気いっぱいのお子様だな)
クロードは自分もしっかり休息を取っておこうと、昼食には早いがひとりで食堂に向かおうと思った。
一度、執務室に寄り、マリーのセレモニー用の儀式服が入った桐箱を自分の机の上に置く。そうした後、ひとり、食堂に足を運ぶ。
この時間帯に食堂には誰もいない。朝食や夕食と違った静かな空気が食堂に漂っていた。洗った皿がキレイに食器棚に並んでいる。水切りもきちんとされている。
クロードはこのさわやかな空間を独り占めしていた。
「風が気持ちいい……」
クロードがここにやってきたのは、この詰め所で1番に風通りが良い空間だったからだ。ガラスで仕切られた窓が開いている。そこから季節の変わり目の心地よい風が流れ込んでくる。
「さて、喉を潤すか」
クロードは桶に備えられた蛇口を軽くひねる。湯飲み茶碗で蛇口からちょろちょろ流れ出る水を受け止める。
蛇口を閉めた後、クロードは湯飲み茶碗を手に食堂にある席に座る。そこでグイッと一気に水を飲み干し、喉の渇きを癒すのであった。
そうした後、椅子に座ったまま大きく上半身を伸ばす。伸ばした後は
「気持ちいいなあ……。このテーブルのひんやりとした感触が好きでたまらん!」
午前9時から執り行われたセレモニーで、クロードは大量の熱を民衆から浴びせられた。自分としてはそれほど疲れは無いとは思っていた。
詰め所に戻ってきて、こうしてテーブルに上半身を預けてみると、自分が思っていた以上に身体のあちこちが悲鳴を上げていることに気づいた。
「マリーがシャワーを浴びに行った気持ちが今更にわかる。あれは汗を流すよりも、身体の疲れを取るためだったか」
クロードもシャワーを浴びたいなあと思うようになった。しかし、ひんやりとしたテーブルに身体が張り付いて、どうにもここから身体を動かしたいとは思えなくなっていた。
「だめだ。堕落が俺を支配する……。動きたくない……」
◆ ◆ ◆
クロードが身体をテーブルに預けたままにしてから30分も経つとシャワーを浴び終えたマリーが食堂に入ってくる。
「クロード、何してるのー?」
「ひんやりしたテーブルが気持ちよくて、そこから動けなくなっちまった……。助けてくれえ」
夏場の
マリーは水が入った樽のところに行き、蛇口をひねって湯飲み茶碗に水を入れる。その湯呑み茶碗を持って、クロードとは別のテーブルにつく。
そして、クロードと同じように上半身をひんやりとしたテーブルに預ける。クロードと同じ姿勢になることでマリーはクロードと気持ちを共有したくなったのだ。
「ほんと、この時期のひんやりとしたテーブルって悪魔的存在よね。皆にはこんな姿、見せられないわ」
「わかってくれるか。この怠惰になっていく気持ち」
「うん、わかるー。動きたくなくなっちゃうー」
2人は笑顔を共有した。どちらからともなくふふっと笑みを零す。それが互いに幸せを呼び込み、さらに笑みを増していく。
アドラー国王から身体を休めておけとは言われていた。しかしながら、そのアドラー国王もこんなふうに2人が身体を休めているとは想像していないだろう。
今の2人の姿を見たら、きっと国王は「しっかりせぬか! 国の柱石ぞ!」と叱ってくるかもしれない。
だが、今この空間に国王様は居ない。2人は怠惰な時間をゆったりとした気持ちで過ごすことになる。
◆ ◆ ◆
それからさらに30分の時間が経過する。
「先に行くね」
「おう。俺はもう少し怠惰になっとく」
「テーブルと合体しないでね?」
マリーが先に席を立つ。午後からは自分たちが所属する第3騎士団から辞令が届く予定であった。身なりをしっかりと整えておかねばならない。
右手をぶらぶらと振っているクロードへ向けて、マリーはくすくすと可笑しそうに笑う。
マリーは宿舎にある自室へと戻り、クローゼットから新しい制服を取り出し、ささっと着替え終わる。
姿見の鏡の前でおかしいところが無いか念入りにチェックする。
その後、詰め所にある執務室へ戻る。そこにはセレモニーの警備と後片付けを終えたヨンとレオンが居た。
マリーは彼らに挨拶した後、自分の席へと着席する。
「はぁ……。マリーちゃんの晴れ姿がすごくきれいやったで……」
「うっすうっす。クロードの奴、役得だったッスね。マリーちゃんとチュゥするだけで大歓声だったすもん」
「わいもあんな風な情熱的なチュウしてみたいんやで。ほんま、クロードくんがうらやましいんやで」
クロードとキスした相手を目の前にしながらヨンとレオンは言いたい放題であった。マリーはあの時のことを思い出し、赤面してしまう。
「俺も城のテラスで情熱的なキスがしたくなったッス」
「わいは未亡人の貴族をお誘いするシチュエーションがええな」
マリーが赤面しまくっているのも構わずに、ヨンとレオンがセレモニーを警備する側から見ていた感想と自分ならこうしたいとなどとズケズケと言って見せる。マリーは顔を真っ赤にしながら、うつむく他なかった。
◆ ◆ ◆
そんなしまりのない空気を一変させる人物が執務室へと案内されようとしていた。執務室のドアがノックされる。
そのドアの向こうから隊員が「お客人です」と言う。それを聞いた途端、マリーは何か得体のしれない緊張感が身体に走ってしまう。
客人が部屋へと現れる前に姿勢を正す。そのマリーの姿になんやなんや? と異変に気付くヨンだ。気構えが十分に出来ぬままに、隊員はその人物を執務室の中へと案内してくる。
「はいらせてもらう」
「!?」
ダレきっていた執務室の空気が一瞬で冷たく乾いたものへと変わってしまう。
「うむ。楽にいたせ」
楽にできねーよ! っていうのが3人の率直な感想であった。午後から辞令が届くとは聞いていたが、まだ昼前だ。
辞令を伝えにくる人物はきっと自分の所属する騎士団長とその補佐官だろうとマリーたちは予測していた。
そうだと言うのにその期待は見事に裏切られる。本来ならこの執務室では無く、応接室のほうで対応しなければならないひとだ。
その人物の名はドメニク・ボーラン。第1騎士団の団長であり、かつ、5つの騎士団をまとめ上げる大将軍の役目も担っている。
そのご本人が第3騎士団団長を自分の補佐官であるかのように連れまわして、一緒にやってきたのだ。
(ハジュン団長が借りてきた猫みたいになってる……。あたし、どうしよう。緊張で口から胃が飛び出そう……)
ハジュン団長をそんな風にしてしまうドメニク大将軍にマリーは恐る恐るお伺いを立てる。
「ドメニク様ほどのひとが何故、このような場所へおいでになられたのでしょうか?」
ドメニク大将軍は鋭い眼光でマリーをじっくりと見る。そして「なるほど」とひとつ言ってみせてから、ドメニク大将軍は執務室にあるマリー隊長用の机に着席し、マリーの質問に答える。
「セレモニーで見せたのは国民用の勇ましい姿。そして、今はひとりの若き隊長の姿。どちらが本当のマリー殿かをこの目で確かめにきた。ハジュンからの報告だけを鵜呑みにするわけにはいかぬからな」
ドメニク大将軍が着席している席の真横で立っているハジュンはいつもとは違う。補佐官のカッツエ抜きで団長らしい気風を纏わせていた。
あのハジュン団長ですら、緊張感をしっかり保っている。今からどんなことを聞かれるのかと肝が冷えて仕方がない第10機動部隊の面々であった……。