2時間に渡る備品チェックもようやく終わりを迎える。
マリー隊長はカッツエに足りない備品の数を報告する。それを受けて、カッツエは一両日中には備品の補充をすると約束する。
カッツエはマリー隊長たちに一礼する。その後、馬留めに繋げた馬に跨り、その場を去っていく。
「無骨一辺倒に見えて、なかなかに気遣いができるヒトだったッス。俺っち、将来はカッツエさんみたいになりたいッスね」
「むりむり。カッツエさんからは女癖が悪そうなイメージはないやんか。レオンくん、そこを直せる自信がおありでっか?」
ヨンの適格なツッコミに一同が大笑いする。レオンは面白くないという表情である。
しかし出来ないところは出来ないで開き直って、出来るところは自分に取り入れればいいとすぐに切り替えた。
実にレオンらしい考え方だ。レオンはへいへいとわざとらしく悪態をつきながら、ヨンと共に詰め所へと戻っていく。
◆ ◆ ◆
そんなレオンの背中を見ていたクロードはふと足を止める。それにつられてマリーも足を止める。クロードは太陽が城壁の向こう側に消えていく反対方向の空を見ていた。
そこには宵の明星が姿を現していた。今日の宵の明星はいつもとは違って、不気味な雰囲気に包まれていた。その星を見ているだけで、心に薄ら寒さを感じてしまう。
マリーも同じことを思ったのか、クロードの左腕に自分の右腕を回してきていた。
「5月ももう半ばになろうというのにまだまだ夕方は寒いね」
「ああ、そうだな。これがもし災厄王がもたらした寒さだとしたら、マリーはどうする?」
クロードがそう言うとマリーは彼の左腕に回している右腕に力を込めた。マリーは夕方のせいだと思い込みたかったのだ。だが、クロードに本当のところを言い当てられてしまった。
「マリー。きみは俺の太陽だ。お前がいないと俺は輝けない」
「そんなことないよ。あたしが笑っていられるのはクロードのおかげ。だから太陽はクロードのほうがお似合い」
マリーはそう言うと体重をクロードのほうへと預ける。クロードはマリーの支えとなるべく身体に自然と力を入れる。そして空いた手と手を結びあう。
「クロード。ねえ、あたし、クロードとキスしたい」
「俺もだ。マリー。でもこれは今生の別れのキスじゃない」
マリーはクロードに向かって顎をあげる。そして静かに目を閉じる。まぶたの隙間からは涙が一筋流れてくる。
その涙をクロードが唇で吸う。
唇をマリーの涙で湿らせたクロードはそのままマリーの形の良い唇へといざなわれていく。
しかしながら、キスをしなれていないクロードはマリーと自分の鼻をぶつけてしまうことになる。
マリーはそれで緊張が取れたのか、一度、笑顔になる。クロードは逆に苦笑していた。
「んじゃ、改めて。これは誓いのキスだ」
「うん……。クロード、大好き」
マリーとクロードは初めてお互いの唇を重ね合うキスをした。
マリーは幸せで心が満たされる。クロードもまた幸せに包まれる。
マリーとの口づけが終わったクロードはどうしたものかと一瞬だけ考えた。マリーはまだクロードから身体を離してはいない。
マリーもまたこの幸せの時間を少しでも長く続けておきたいと考えてくれているように感じた。
マリーの頬が赤く蒸気している。唇が寂しそうにしている。対して、クロードはすごく照れくさそうにうつむき加減だ。
(俺のマリー……)
しかし身体と身体が重なる時間が長くなるにつれて、心の奥底から冷たい手が下腹部から這い上がってくる感覚に襲われる。
その冷たい手は脇腹をすり抜け、右肩へと回り込んでくる。やがて右腕全体にその冷たい手がまとわりつく。
その右腕がマリーの身体をいやらしく撫でまわせと囁いてくる。
(こんなときにかよ……)
コッシローからは呪いを受け入れろと助言されている。あまり抑圧しすぎるのも悪い方向に向かうだけだと。
「マリー。すまない。マリーが可愛くて、もう1回、キスしたい」
「んもう。しょうがないんだからぁ……、もう1回だけね?」
クロードは自分の身体の中をうごめく邪念を上手く誘導した。マリーの身体のどこかを1番に触るのであれば、それこそ今は唇であろうと。
クロードはマリーと2度目のキスをする。
1度目はお互いに緊張があったため、まだまだ固い感触であった。しかしながら2度目となるとかなり柔らかくなっている。
3度目となるとどうなるのであろうか? もっととろけるような甘いキスになるのではなかろうか?
「だーめ! そんなにがっつかれたら、あたしの価値がすぐに薄れちゃいそう!」
「す、すまん。顔に出てたか?」
「うん、すっごく出てた! 3度目も許しちゃったら、そのまま押し倒しちゃうぞー! ってくらいに!」
マリーは頬を赤らめながらも笑顔であった。そして「先に行ってるね」とクロードに告げて、詰め所の入り口へと逃げるように消えていく。
クロードは右手を自然とマリーへと突き出していた。自分のその姿を見たクロードは考えた。
マリーを性欲で見ているのか。
それとも愛情で見ているのか。
それとももっと別の感情で見ているのかと。
今のクロードには答えは見つからなかった。その全てが複雑に交じり合っていたかのようでもあったからだ。
◆ ◆ ◆
マリーを追い求める右手を今度は宵の明星へと向ける。宵の明星を鷲掴みにするようにクロードは右手をギュッと握り込む。
「願えば星にも手が届く……なーんてな、っておい!?」
クロードが驚くのも当然であった。夕方の空に浮かんでいた宵の明星がいきなり消えたのだ。さらにチクリと右手にトゲが刺さるような感覚を覚える。
クロードが恐る恐る右手を開いてみる。なんと手のひらの上に宵の明星らしき物体があったのだ。その星のような生き物がクロードに対して、怯えている感じを出している。
「おいおい、冗談はよしてくれ。すまん、本当に掴めるとか思わなかった。悪気は無い」
クロードの言葉が理解できるのか、星型の生き物はぺこぺこと頭を下げてくる。そして、何も危害を加えられないことを悟ると、星型の生き物はふわふわと浮き出す。
そのままどうなるのかとクロードはその生き物を眺めていたが、こちらにお尻を向けたかと思った瞬間、流れ星のようなスピードで空の彼方へと消えていってしまう。
「童話のおとぎ話じゃあるまいしな。一瞬、焦ったぜ」
クロードが再び、空を見ると、先ほどと同じように宵の明星が空でまたたいていた。自分は初めてのキスで浮かれて、まぼろしを見たにすぎないと思うようにした。
しかしクロードの首回りにしめっぽくて妙に生暖かい何かがまとわりついてくる感覚に襲われる……。
「本当は欲しかったんじゃないのか?」
「誰だ!?」
クロードの耳には確かに誰かの声が聞こえた。先ほどの星を掴んだうんぬんはまぼろしだと思えたが、こちらの声ははっきりと現実のものだという認識があった。
それゆえにクロードは何者が自分に囁いているのかとその正体を探し求めた。しかし、いくら頭を前後左右に振ろうが声の主は見当たらない。
そんなクロードをあざ笑うかのように声の主は言葉を続けた。
「望むのなら、望むだけ力を与えてやろう」
「おまえ、何言ってやがる!」
クロードがあらぬ方向に顔を向けながら叫ぶ。すると今度はクロードの耳に生暖かい触手がまとわりついてくるような感覚が襲ってくる。
「くっくっく。マリーが欲しいんだろう? マリーを守るための力を与えてやると言っている」
「ふざけるなっ! 俺はそんな意味でマリーを守るとか言ってるんじゃねえ!」
クロードは見えない何かと戦っていた。自分を惑わす何かとだ。
クロードは目を閉じ、耳を両手で塞ぐ。
しかし、そんなことをしても無駄だとばかりに声の主はクロードにまとわりつき、さらに囁き続けた。
「もっと自分に正直になれ。俺が力を与えてやる。そして、マリーにこう告げろ。お前を抱きたくてしょうがないとなぁあああ!」
「ふざけんじゃねえ、てめえ! 俺は怒ったぞ!」
「怒れ! さあ怒れ! お前が激情に駆られるほど、お前は俺に身体を奪われる! さあもっと怒るんだ!」
クロードをあざ笑う何かは昂揚していた。もうすぐこの身体は自分のものになるとでも言いたげであった。
しかしクロードは惑わされずに右手に力を入れた。籠手を身に着けていない状態であったとしても、コッシローとの特訓の甲斐もあって、マスク・ド・タイラーの力を少しだけだが使うことが出来る。
クロードの右手は黒く変色する。肌はまるで甲殻に覆われたかのように固く見え、爪は鋭く尖っていた。
「そこだ!」
その黒い指で自分の首すじに潜む見えない何かを引きはがそうとした。見えない何かは軟体動物のようであった。
見えないタコの足のようなものがクロードの首を中心としてまとわりつく。決して獲物を逃がさぬようにと必死にあがいてみせる。
「うおおおおお!」
クロードは靴底にくっついたガムを無理やりはがすが如く、変わり果てた右手で強引に引っぱり続けた。
ブチブチッ! とゴムが伸びて引きちぎれる音がする。見えない軟体動物を完全に引きはがす。それを宙に放り投げ、鋭い爪で引き裂く。
「ギャァァァァ!」
その見えない何かは断末魔をあげた。ピンク色の液体をまき散らしながら、地面へと転がる。クロードはその肉の塊のようなピンクの物体をブーツで散々に踏み抜く。
「はぁはぁはぁ。こいつは夢魔じゃねえか! くっそ!」
夢魔とは別名、サッキュバスやインキュバスと呼ばれる悪魔であった。夢魔は下級も下級の悪魔である。
しかしながら下級といえども魔物とはまた別の恐ろしい存在だ。そんなものが王都の中に入り込んでいる。
「これも災厄王からのプレゼントってか!?」
その事実がクロードに否応なく、災厄王の影響力の強さを認識させた……。