「なんや、こりゃあ……。この世の終わりなんかぁ?」
ヨンが泣きそうな声でそう言う。大の男が決して言っていいような台詞ではなかった。
しかし、ヨンの言う通り、この王都、いや、この世界が地獄に変わってしまったかのように感じてしまう赤い空であった。
その赤い空で輪郭だけが光っている歪んだ黒い太陽が浮かんでいる。この異様な光景を前にして、正気を保つほうが難しいと言えた。
「クロード。助けて……」
「ああ……。大丈夫だ。俺はここだ」
クロードはマリーを気遣う。だがそれでもクロードはマリーよりも震えるマスクに目を持っていかれていた。
誰しもが異常な状況に困惑していた。空が黒く染まり、さらに赤い色が湧き出していく様子を前に、ただならぬ事態を感じていた。
クロードはマスクが震え続ける理由を探した。今起きている現象以上の何かが起きる前触れのように思えたからだ。
クロードの腕の中で震えるマリー。マリーは変わってしまった世界を見る。
マリーを抱くクロード。クロードは何かを訴えかけているマスクを見る。
残酷にも2人が見ているものは違っていた……。
◆ ◆ ◆
世界の変貌は未だに続いていた。王都の上だけでなく、空がまんべんなく赤く染まってしまった。
身に吹きつける風は異様に冷たい。火のぬくもりは一切感じない。
大地は細かに鳴動している。水はざわめきで荒れ狂い始めていた。
恐怖する者。その場でへたり込む者。泣き叫ぶ者。
変わりゆく世界を前にして、恐怖でこころが押しつぶされる者が続出した。
「これはさすがに避難したほうが良いと思うッス!」
「避難するってどこに避難するんや!?」
動揺が収まらぬレオンとヨンであった。そんなレオンたちがクロードの肩に手を置き、クロードを無理やりこちらに引き寄せようとした。
しかし、そのクロードはレオンたちに促されてもレオンたちに身体を向けなかった。
クロードはただただ自分の腕の中で小さくなっているマリーを気遣う。
それと同時に地面で震えるマスクを見ていた。
マリーはクロードの腕の中で小さく震えている。右腕をクロードの身体に巻き付かせ、空いた左手を歪んだ黒い太陽へと向ける。
「クロード……。精霊たちが泣いてる。風が止んでる。火が怯えてる。水が荒れ狂ってる。土が腐っていく。助けてほしいって精霊たちが泣いてるのっ!」
「ああ……」
クロードはマリーの言葉に同意するように頷くが、地面に落ちてなお自律的に震えるマスクから目を離せないでいた。
「わかってる。けど、このマスクが…何かを伝えようとしてるんだ。マスク・ド・タイラー、教えてくれ! これからいったい何が起きるって言うんだ!」
クロードの問いかけに答えるようにマスクは一度、ぴたりと振動を止める。
そうした後、自然とマスクが宙に浮かび、さらにはクロードの顔面めがけてすっ飛んでくる。
クロードは一瞬、目をつむるが、マスクはクロードの頭全体を優しくすっぽりと覆いこむ。そして、ひとりでにマスクの後ろ側にある紐が結ばれる。
「クロード!」
「ああ、わかってる! 災厄だ、これは!」
クロードとマリーはマスク・ド・タイラーの遺物を通じて、この急変していく事態を起こしているのが何者なのかを察する。
クロードはしっかりとマリーを抱きしめ、次に起こる事態に対処しようとする。しかし、そんなクロードをあざ笑うかのように大地が振動しはじめる。
「マリーは俺が守ってみせる」
地面の底から重低音が響き、地面に亀裂が走り始めた。
亀裂はジグザグに走りながらクロードたちの10ミャートル前まで進んでくる。
あわやその亀裂に飲み込まれるのではないかと思うが亀裂はそこでいきなり止まったのだ。
さらにはその裂け目から黒い霧が立ち上り、その霧がゆっくりと空に向かって上昇していく。
「絶対に渡しはしない!」
クロードはその異様な光景を見つめながら、マリーを抱きしめる腕に自然と力が入る。
マリーはクロードの右腕に自分の左手を添える。マリーの左手は氷のよう冷たくなっていた。
そのマリーの左手を温めようとクロードは右手でマリーの左手を出来るだけ優しく掴む。自分の体温を出来るだけ、マリーに伝わらせようとした。
マリーはクロードの手の温かさを感じた。しかし、次の瞬間にはマリーの耳に精霊の声が届く。
マリーは黒い太陽の方を見た。彼女の動きに追従するようにクロードも彼女と同じものを見た。
「何かがくる、クロード!」
怯える精霊たちがマリーの身を案じ、マリーにここから去るようにと伝える。
マリーは身体が氷つきそうな恐怖を感じながらも、クロードのそばを離れることなど考えられなかった。
「あたしはクロードと共にここにいるの!」
マリーは精霊たちの助言を聞いてなお、クロードと一緒にいることを選んだ。災厄と共に立ち向かうと誓ったのだ、クロードと共に。
クロードはマリーの手に自ずと力が入るのを感じた。クロードはマリーの手を握り返す。
マリーはクロードを置いて、自分だけ避難することなど出来るはずがないという様子だった。
クロードはマリーが共にいてくれることに安心感を覚える。
だが、そんな健気なマリーをあざ笑うかのような声が辺りから聞こえてくる。
「ふははははは……」
その声の中心は先ほど、地面の亀裂から湧き上がってきた黒い霧であった。黒い霧はどんどんその体積を増やしていき、今や歪んだ黒い太陽に届かんとしていた。
「あーははははははっ!」
赤い空を背景に、黒い大きな何かがこの世に出現したようにも見えた。その黒い大きな何かは確かにマリーたちをあざ笑ったのだ。
「我が花嫁よ。よくぞ美しく育った。さあ、
その声は地の底から響き、この地にいる者たちの足を伝い、さらには腹の奥へと入り込む。
この地にいる誰しもがこの声に恐怖した。
――災厄王。この命に満ちた世界に影を落とした者。この者の声はそれを聞く者の全身を貫く恐怖を伴っていた。
太陽すら飲み込むその大きな影は黒い霧を凝縮させた。それにより真っ黒な右腕を作り出す。その腕の輪郭はおぼろげであった。
災厄王はその右腕をマリーのほうへと差し出す。マリーはギュッと口を閉じ、その影を拒絶する表情をした。
「おお、その恐怖に挑む顔。そなたの恐怖と勇気は
マリーの表情を見た災厄王はまたしても高笑いをする。
その高笑いに同期して、地面と空気がおおいに振動する。マリーとクロード以外の者は腰を抜かして、その場にへたり込んでしまう。
マリーが立っていられたのはクロードがマリーの身体を支えていたからだ。
「さあ、こちらに来るのだ、我が花嫁」
災厄王は自分の顔の代わりを務めている黒い太陽を歪ませる。それと同時にとんでもない揺れがマリーとクロードを襲う。
誰しもが地面に突っ伏して、さらには両手で頭をかばった。
そんな中に置いて、災厄王の威厳に抗う2人はしっかりと大地に立ち続けた。
「俺の中のマスク・ド・タイラーがお前を倒せと叫んでるぜ、災厄王!」
クロードは歪んだ黒い太陽に向けて、はっきりとそう叫ぶ。災厄王は顔代わりの黒い太陽をさらに歪ませる。
「くっくっくっ……。あーはっはっは……」
その様はまるで愉悦に溺れているかのようであった。
「ずいぶん懐かしい名を聞いた。我が
「だめ、クロード!」
「災厄……王!!」
ただでさえボロボロになっていた制服が溢れてきた筋肉により、内側から爆ぜることになる。
クロードの身体から発せられた衝撃波により、マリーは無理やりにクロードから吹き飛ばされることになる。
マリーは土の地面の上で何度かバウンドする。そのマリーを受け止めたのはヨンとレオンであった。
「マリーちゃん、大丈夫かいな! クロードくん、あんた、マリーちゃんになんてことしてるんや!」
ヨンの声は怒りで震え、彼の手も震えていた。クロードがヨンの方へと顔を向ける。
その瞳には決意が宿っていた。
「このドアホ! ひとりでなんとかする気かい!」
ヨンはクロードに怒声を浴びせながらも、魔法でマリーの治療にあたる。ヨンは
「クロード……。無茶しちゃダメ……」
「しゃべっちゃあかん、マリーちゃん! クロードのドアホにはあとでみっちり説教したるさかい!」
ヨンはマリーの身体にあちこちの擦り傷や打撲があることを魔法の力で感知する。それをキレイに癒すためにも自分の中にある魔力を
クロードはマリーが無事なことを視認する。対して、ヨンはマリーの状態を見つつも、クロードの方へと非難の視線を送る。
「マリーを頼む」
「クッソ野郎! このドアホが!」
クロードはマリーをヨンたちに預けた格好になった後、顔代わりの黒い太陽を愉悦で歪ませる災厄王に向かって、右腕を突き出す。
「マリーは絶対にお前になんか渡さねえ!」
今にもその右腕を切り飛ばして、右の
「かつての
「黙れ!」
「貴様のおかげで今の
「黙れって言ってんだ!」
「昔のように
災厄王はいっさい、クロードに耳を貸さなかった。それどころか一方的に災厄王はそう言った後、動きを見せる。
災厄王は周囲に纏わせた黒い霧を凝縮させた。今度は左腕を作り出す。そして両腕をクロードの前へと差し出す。
その様はまるで花嫁を献上せよとでも言いたげであった。両腕を模した黒い霧がクロードへとゆっくとではあるが一直線に突き進んでくる。
その動き自体がクロードのへの攻撃のようにも映った。
「ふざけんじゃねえよ!」
黒い両腕がクロードに向かって伸びてくる。
クロードは反射的に拳を振り上げ、
爆音が鳴る。
そこに落雷が落ちたかのような衝撃が周囲へと走る。