真っ白い空間がただただ広がっている。
果てに壁があるのかどこから上が天井なのかの境界線も定かではない真っ白い空間に、小学生ぐらいの外見をした少年が立っていた。
横ストライプのTシャツに黒いジャージというその服装はまるで囚人服のようにも見える。
その左手には分厚い本。
右手にはボールペン。
足元には横たわる少女。
「こんにちはー!」
少年が少女に声をかける。
返事はない。
少年はパターンを変えて挨拶を繰り返すも起き上がらない。
「こ、ん、に、ち、はー!」
少女の肩甲骨まで伸びた黒髪はツヤを失って、まとまらずに跳ねている。
絡まったり枝毛ができていたりと、長期間手入れされていないようだ。
「失敗かね?」
少年は誰にともなくつぶやいたのだが、その“失敗”という単語で少女の身体がピクリと反応した。
瞼を開けてその黒い瞳で少年の真っ黒なスニーカーを捉える。
「起きたね?」
「ぎゃっ!」
視界に顔が現れて少女は悲鳴を上げた。
少年は少女の顔を覗き込んだだけなのにえらく驚かれてしまって「ふぅん」と心外そうな表情を作る。
「あなた誰ですか!」
少女は上体を起こすとずりずりと後ろに下がって少年と距離を取った。
その過程で自分が一糸纏わぬ姿であることに気付き、また「ぎゃっ!?」と叫んで両腕で胸を隠す。
「な、ななななぁ! なんで!?」
「ぼくは
少年――宮城創――ゲームマスターは少女からの何者かという問いかけに答える。
少女はそれどころではない。
可及的速やかに必要としているのは返答ではなく洋服である。
震えながら立ち上がり、ゲームマスターに背を向けてキョロキョロと辺りを見回す。
何もない。
痛いぐらいの白さしか見当たらない。
「最初に名前を決めてほしい。Transport Gaming Xanaduの世界で名乗るプレイヤーネームをね」
ゲームマスターは少女の、空間の白さに比べればまだ人間らしい肌色をした背中に話しかける。
少女はのんきにプレイヤーネームを決めている場合ではない。
自分の身体を覆い隠す布を探すほうが大事だ。
残酷な事実を突きつけるとすれば、この真っ白な空間には何もないのである。
望みの何かを手に入れるためにはゲームマスターの所持している本を奪い取らなければならない。
なので、ゲームマスターのセリフに従ってチュートリアル通りに『プレイヤーネームを決定する』のがこのシーンにおいての最適解である。
混乱の極みにある少女は「ここどこ!? なんで裸なの!?」と喚いている。
まず、何故自分がこんな場所にいるかもわからない。
胸に手を当てて最後の記憶を辿ってみる。
少女は病院のベッドの上にいた。
その時はまだ薄ピンク色のパジャマを着ている。
ひとつずつ数えるのも飽きてしまうような本数の管が腕や足に刺さっていた。
病室には心電図モニターのぴこんぴこんという音がリズミカルに響いている。
深呼吸して、少女は「……わたし、死んだんですか?」と振り返らずにゲームマスターへ訊ねる。
ゲームマスターはとぼけた調子で「そんな名前でいいのかね?」と確認してきた。
「名前より先に、服をください!」
ゲームマスターは、その一言により『何故目の前のこの少女がゲームマスターたるぼくの話を聞いてくれないのか』という疑問に対する正答に思い至って「ぼくが
「レベル1だしこんなもんかね」
膝上までの丈がある《麻の服》と膝が隠れる長さの《スパッツ》は一時凌ぎの服として可もなく不可もない。ステータスの上昇値は0。それでも、海陸は安堵の息を吐く。
「で、プレイヤーネームは何にするのかね?」
ゲームマスターは海陸に『ゲーム内で使用する名前』を決めてほしい。海陸がこれから“Transport Gaming Xanadu”の世界に飛び込むために重要な儀式の最初の過程である。一方の張本人たる海陸は「何故自分が全裸でこんなよくわからない真っ白い空間にいるのか?」という疑問で頭の中が一杯一杯になってしまっていた。全裸問題は服を手に入れたことで解決したので、次は何故ここにいるのか問題を解消しなければならない。
海陸の思い出せる範囲での最後の記憶はベッドの上であった。その時はちゃんと服も着ていた。しかし、ゲームマスターは『裸で寝てて、上に布を被せられていた』と語っている。そこから推測される認めたくない現実はひとつ。
「ここは天国ってこと……?」
六道海陸は死に、ここは死んだ人間が来る天国。想像していた
「その『とらんすぽーとなんとか』って何なんです?」
これまでのことと今後のことはこの目の前にいる“ゲームマスター”を問いただせば良い。海陸はゲームマスターが自分の言葉に反応したのをいいことに、質問攻めにしようと意気込む。
「ぼくがいままさにはまっているゲームだね。“全員が主人公”がキャッチコピーのMMORPG」
「えむえむおー?」
「マッシブリィマルチプレイヤーオンラインロールプレイングゲーム」
聞きなれない英単語を並べられて海陸は「まっする……つまり、どういうこと?」と困惑の色を隠しきれなくなる。海陸は英語が得意ではない。日本語もひょっとすると怪しい部分がある。勉強は不得手であった。
「いろんな人たちがいろんな場所から参加できるRPG、って言えばいいかね。ぼくはそのゲームのいちばんえらい人って感じだね」
ゲームマスターの説明に、海陸はわかったようなわからないような顔で「ふーん?」と反応してみせる。せっかく意気込んだのにゲームマスターのペースに飲み込まれてしまった。その表情を見てゲームマスターは「ぼくがここであーだこーだ言うより、やってみたほうがわかるからね」と補足していく。
「わたしは死んじゃって、これからそのえむえむおー? の世界に行くから、その世界での名前を決めろ、ってこと?」
「そうそう。理解が早くて助かるね。最近流行りの“ゲームの中への転生”ができる人としてぼくは海陸ちゃんを選んだわけ。海陸ちゃんの存在の有無なんて“正しい歴史”においては蝶の羽ばたきにも満たないささいなことだしね」
ゲームマスターはさらっと海陸の生前を否定するような言葉を並べたが、海陸は“転生”という単語の響きが気に入ったらしく「転生、わたしが転生かあ! 選ばれたんですね!?」と繰り返して嬉しそうに微笑んだ。海陸はゲームマスターの言葉を一切怪しまない。彼女の中の猜疑心は肉体の死と共に滅んでしまった。純粋な魂だけがここに存在している。
「もう聞くの3度目になるけど、名前を決めてほしいんだよね」
ゲームマスターは持っている本のページをめくり、履歴書のようなものが描かれているページでそのめくる指を止めた。一番上にプレイヤーネームを書き記さなければならない。
「名前……名前ねえ……」
海陸の視線が宙を泳ぐ。腕を組んで「うーん、うーん……」と唸ったのちに「カイリのままではダメですか?」とゲームマスターへ訊ねた。
「ゲームの主人公に自分の名前をつけて遊ぶ人もいるしいいんじゃないかね?」