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第九話『天照という男・その2』

 コウモリ天井のだだっ広い空間は薄暗く、正面から差し込む虹色の光はステンドグラスによるものだ。聖卓の類は全て取り払われ、オルガンの代わりに音叉にも似た不快なメロディが響く。


 鼻につく異臭。その原因は床一面に散らばった呪符であり、更にはその上に撒き散らされた精液でもある。裸体の女が会衆席に代わってずらりと並び、同じく裸の男共が贅肉の目立つその体で女の上に覆い被さっている。


 その中の一人――まるで衣服の如く、女を紐で体に縛り付けている男がこちらに目をやり、にこりと微笑んだ。よくいらっしゃいました、と頭を下げると、男に向かい合っていた女の頭が仰け反り、その表情を露わにした。白目を剥き、恍惚に酔い痴れているその様を見て、大塚が言った。


「お前――」


 彼の絶望が伝播する。おそらくは彼女が、大塚の探していた妻その人だろう。肉欲に溺れた彼女を目の当たりにし、打ちひしがれてしまったのだ。


 大塚の妻を抱いていた男は全身を縛る紐をほどき、彼女を床に打ち捨てる。そうして駆け寄ってきた少女から白いローブを受け取り、その少女の股に手を回す。


「我々に迫らんとする存在には気づいていました。しかし、どういうわけか足取りが掴めない。そこで罠を仕掛けました」

「結界を張り、わざと拠点を見つかりやすくした。霊の関与を見越して」


 その通り、と男は笑う。話をしている間、彼の手は少女の陰部から漏れる液を指で擦り、濡れたその手で彼女の肢体を舐っていた。


「申し遅れました。わたくしは是羅と言います。神との調和を図るべくこの大ア・マナ会を立ち上げ、以来、こうして志を共にする仲間と共に異界への扉を開こうと――」

「お前だけはああああああああああああああああああ!」


 雄叫びと共に飛び掛かり、是羅の首を絞め上げたのは、間違いなく私だ。付き添いの少女が必死に私を引き剥がそうとする。だが私の手はますます力を込めて離さない。私の意思ではなく、大塚の意志によって。


 大塚は私の体を乗っ取り、事の元凶を葬ろうとしている。首を絞める力は更に強まり、是羅の顔が茹蛸よろしく赤色に染まる。淫欲に浸かっていた信者は遅れて状況を理解し、慌てて私に掴みかかろうとする。


 しかし、是羅本人がそれを制した。


「おやめなさい。全ては忌まわしき悪霊の仕業也」


 瞬間、全身に激痛が走る。是羅を絞め殺そうとしていた腕は解け、肩からだらりと垂れ下がる。耳をつんざく男の悲鳴は、大塚のものだ。私の体を飛び出た大塚はおぼろげな霊体を晒し、それでもなお是羅に挑もうとする。


「愚かな」


 是羅の真っ赤に腫れた首に半透明の指が触れる寸前、霊体が空間に融け始めた。指から肘へ、肩から顔へ。口も消え、悲鳴を上げることもままならなくなった彼の体は遂に消え、完全に消滅した。


「愚者の魂は健全なる肉体に触れ、浄化されました。彼の魂が天国へ向かうことを祈り、ここに黙祷を捧げましょう」

「ふざけるな」


 私は声を荒げ、今度は自分の意思で是羅に掴みかかった。この男が纏う得体の知れない力を前にして、恐怖心がないと言えば嘘になる。しかしそれを上回る怒りが、大塚の遺した怨念が動力源となって今の私を突き動かしていた。


「まだ悪霊が残っていましたか?」

「お前がやったことは浄化でも成仏でも何でもない。未練を抱えたままの霊を、一生懸命に生きた人間の最期の願いさえ踏みにじって、殺したんだ」


 涙が溢れるのを止められない。大塚の無念もそうだが、自分の不甲斐なさにも腹が立っていた。悔しくて悔しくてたまらなかった、どうして自分は大塚を静止できなかったのか、そうすれば助けられたのに、と悔やんでいた。


 私の思いなど知る由もなく、是羅はそっと私の手に触れ、


「あなたは悪霊に憑かれていたのです。長年の修練によりマナを蓄えたわたくしがいなければ、今頃あなたは呪い殺されていたでしょう」


 説得するように、あるいは言い聞かせるようにそう呟き、ローブを掴む手を引き離し距離を取る。と同時に信者が私を中心に円を描いて並び、逃げ道を塞ぐ。


「皆さん、彼に危害を加えることは許しません。彼は悪しき霊によって汚された被害者なのです。しからば、神聖なる儀式によってその穢れを除かなければなりません。それこそが我らの使命なのだから」


 是羅が汚らしく舌なめずりをする。それが合図とばかりに小太りの信者が飛び出し、じりじりと近寄ってくる。玄関に向かって走り出すが、是羅に弄ばれていた少女のタックルを受け、うつ伏せに押し倒される。


「流石はわたくしの娘だ、親のマナをきちんと受け継いでいる。言葉を交わさずとも、わたくしの意思をよく理解している」


 勝手だな、と私は叫ぶ。子が親の機嫌を伺ってどうする、子供は親の言いなりじゃない。私は少女に訴えかける。


 この子は溺れ死んだ私と同じだ。親の勝手な理屈、勝手な事情に巻き込まれ、現在進行形で犠牲になっている。


 少女の瞳には何も映っていない。死者はおろか生者さえも見えてはいない。ただ性欲を貪るだけの木偶人形など、生きていないし死んでもいない。痩せこけた顔に浮かべる不気味な微笑みは骸骨と呼ぶにふさわしい。


 そう、誰も彼もが骸骨だ。信者は自分の頭で考える力を奪われ、死ぬまで是羅の養分となる。金を奪われ、生気を奪われ、骨の髄までしゃぶりつくされる。大塚の妻が行き着いた先は乱交パーティーだ、これのどこが救いだというのか。


 私は床に伏したまま、強く拳を握る。床に散乱した呪符を握り潰し、少女の拘束を逃れようと足をばたつかせる。もう少しで彼女の手が外れる――そんな予感はあっけなく打ち砕かれた。背中に強い衝撃を受け、私は肺の中にある空気を一気に吐き出した。私に迫っていた小太りの男がのしかかり、馬乗りの姿勢で私の髪を掴む。


「綺麗な顔だ。女と言っても通じるだろう」


 ひぃ、とたまらず私は悲鳴を上げる。立ち上がろうともがくが、男はびくともしない。ところが私の足はたまたま少女の顎を蹴り上げたらしく、彼女の呻き声に是羅を含む全員が意識をそちらに向けた。わずかに緩んだ拘束を振り解いて仰向けになり、男の露出した股間を思い切り握り潰す。


「こうして欲しかったんだろうが!」


 男は大声を上げてのたうち回り、遂には泡を吹いて動かなくなった。その脇腹に蹴りを入れて退かし、私は是羅の方に向き直る。彼は自分の娘に付き添い、彼女の口の中を覗いている。唇でも切ったのだろう。一応は親らしい対応だが、私はつい先程、この男が自分の娘の陰部をまさぐる光景を目の当たりにしている。


 是羅のそばにいる限り、彼女に幸せはない。私の体は自然と彼女の許へと向かっていた。警戒する信者の一人にアッパーカットを浴びせ、是羅の呆けた顔に思い切り拳を叩きつけた。「うべぇ」と奇声を上げて倒れる是羅をよそに、私は少女の手を掴んで走り出した。


「これを羽織って」


 上着を彼女に着せ、私は教会を飛び出した。信者は倒れた是羅を介抱するべきか、私を追跡するべきか迷っている。逃げるチャンスは今しかない。


 草木のカーテンを見渡すと、人一人分の通路が出来ていた。私がこの教会に向かう道中、すぐ逃げられるようにと枝を折って作ったトンネルだ。先に少女を押し込み、後方を確認しながら私も進む。


 少女は何も言わず私の指示に従っていた。とろんとした表情が続いているのを見るに、まだ夢見心地なのだ。退廃的な世界に溺れすぎたために、現実と空想の区別が出来ていない。まるで赤子だ。


 細い路地に出ると、大通りを目指して一気に駆けだす。覚束ない足取りの少女を牽引し、背後から忍び寄る群衆の気配に怯えながら走り続ける。


 歩道橋に辿り着いたがしかし、大ア・マナ会の信者もまた私達との距離を詰めていた。このまま逃げ切れるか――そう思った矢先、赤いセダンが歩道を跨いで私達の前に突っ込んできた。


「早く乗れ!」


 助手席の窓を開け、そこから枝峰が声を張り上げる。私はもたつく少女の背中を押し、後部座席に飛び込んだ。間一髪のところで信者の手を逃れたが、勢い余って信者が車に突進してきた。他の信者も恨めしげに私を睨み、窓を叩き割ろうとしてくる。この危機的状況に枝峰は焦ることなく、助手席の窓からの侵入を試みる信者を一瞥し、アクセルを踏み込んだ。


 勢いよく飛び出した車にしがみついていたその男は、目前に迫る電柱に気づかず、サイドミラーごと弾き飛ばされた。車はそのまま歩道を爆走すると、信者が追ってこないことを確認し、車道に出た。


 枝峰の頬を一粒の汗が伝う。かくいう私も全身汗まみれで、服が水分でぐっしょりと重い。よく見ると、教会に散らばっていた呪符の切れ端が至る所に張りついている。


「車、持ってたんですね。知らなかった」

「託されていたものだ。何か不測の事態が起きた際には遠慮なく使ってくれ、と。妻を救えるならば安いものだと」


 大塚――そう、私の使命は彼の妻を救い出すこと。だが私は依頼を果たすどころか、目の前で彼を見殺しにしてしまった。私が彼の暴走を止めていれば、消滅せずに済んだかもしれない。そうでなくとも、奥さんを連れて逃げ出すべきだったのではないか。私は一体何をやっているんだ。


「無理な話ではあった」


 枝峰は乱れた呼吸を整えると、助手席の窓が開いたままになっていることを確認し、胸ポケットから取り出した煙草に火をつけた。紫煙の塊を大砲のように吐き出すと、普段の落ち着きを取り戻す。


「是羅は違法に神の座へと近づいた。その背に得た蝋の翼は脆く、精々悪霊を祓う程度の力しか持たない。なればこそ、悪霊になりかけている者を己が身に憑依させることで心の安定を図り、是羅の脅威から彼を守護しつつ依頼を達成する。そういう手筈だった」

「是羅を、あの男の力を知っていたんですか。だったらどうして先に」

「憑依が完璧であったならば、是羅の力などは存在していないようなものだ」


 結局のところ、大塚が自分の妻の惨状を目の当たりにした時が分岐点だったということか。私がとっさに彼を諫めていれば、是羅の纏っていた異能に大塚が消されることもなかった。そもそも、大塚は私の目の前で悪霊になってしまったのだ。是羅の言葉もあながち間違いではなかった。私は大塚に憑かれ、彼の憎悪に呑まれていたのだ。


「憑依術は、死者の怨恨を己のものとして認識しながらも制御し得る柔軟な感受性を持つ者にのみ扱える。その術を教えたのは私だが、私の凝り固まった意識では彼と一心同体になることは不可能だった。故に若き除霊師の卵、その才能と心に秘めた正義の炎に期待してのことだったが」


 残念だ。


 枝峰はそう呟くと、私に一度も目を向けることなく、車を走らせた。


⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯


「屈辱だった?」


 私は空を見上げる。雲一つ見当たらない青空、降り注ぐ太陽が眩しくもあり暖かくもある。秋も本番、段々と冬の寒さが忍び寄ってくる感じだ。落下防止のフェンスに体を預けると、鉄の冷たさが制服越しに感じられる。


「自分の非力さを突きつけられたようで、嫌だった?」


 葉菜は私と向かい合い、小馬鹿にした笑みを浮かべている。その瞳には確かな生気が宿っている。実の親に与えられた快楽の渦に目を回してはいない。


「もう一年も前の話だ。自分が何を考えていたかなんて覚えてないよ」

「私は覚えてるけど。あの時の天照は目にいっぱいの涙を溜めて、手が震えてた」


 そうだったか、と誤魔化す。


 彼女が私の様子を覚えていたように、私だってあの時の葉菜がどんな有り様であったか記憶している。空っぽの頭を左右に振りながら、時折不気味に笑っていた。枝峰の車を降りた時、彼女の座席はどういうわけか湿っていた。


 是羅の追跡を逃れ、カルト教団から解放されたあの少女は今、刳舘 葉菜として生活している。当たり前に、一人の人間として尊重されている。決して大人の玩具などではない、年頃の女の子として。奨学金を借り、女子寮で暮らしている。赤子同然だった精神年齢は今や同年代の生徒に並び、十分に自立していると言えた。


「ママ・カルボナーラには何も言わなくていい。これは私と葉菜だけの秘密だ」

「当たり前よ。あなたに返しきれない恩があるなんて知れたら、一体何を言われるか」


 葉菜は踵を返し、校内へと続く階段を下りていった。昼食時、屋上に彼女を呼び出したのは私だ。私と彼女の関係については誰にも口外しない、という二人で取り決めたルールを改めて確認するためだ。それに、少しだけ思い出話がしたくなったというのもある。


 今日の私はどうにもセンチだ。落ち着きがないというか、胸のざわつきが止まらない。満点の快晴さえ、ほんの一瞬きの間に暗雲が覆ってしまうのではないかと考えてしまう。体温がいつも以上に上がりにくいのも気になっている。上着の中にセーターを二枚重ね着しているが、変わらず寒いし動きづらいときている。


 これを何かの予兆と見ることはできないだろうか。未来予知は古来より存在する立派な技術だ。星に未来を視る占星術辺りが有名だが、霊的な現象を肌で感じ取り、そこから何が起こるかを先読みする予知能力もある。私には生まれながらその才があると、枝峰はそう言っていた。入水自殺の道連れによって得た霊視とは別の、視るのではなく感じる力。これは生来のものだという。俗に『虫の知らせ』として知られる才だ。幼い子供に強く現れる傾向があり、ある子供は遠く離れた場所から祖父の死を感じ取った。子供はそのことを両親に知らせ、実際に確認を取ってみると祖父が亡くなっていた――心霊現象をテーマにしたテレビ番組で取り上げられていたが、作り物上等のテレビに珍しい『本物』の心霊現象だったといえる。


「心霊」


 心の霊。あるいは心にのみ存在する霊。霊が視える者と視えない者の両者は、何によって隔たれているのだろうか。


「死に触れたか否か、天国に近づいたか否か」


 私の疑問は言葉となって口から漏れ出ていたのだろう、こちらに歩み寄る人影は私の疑問にそう答えた。事切れた母から誕生した彼女は、死から生まれた子供と言い換えられる。私の良き理解者であり、ゴーストヘルパーである私をも上回る素養を持ちながら、毎日を平穏に暮らす少女。壬生坂 晴は私の隣に移動すると、地べたに座り込み、手に持っていた菓子パンを頬張り始めた。


「好きだな、それ」

「美味しいもの、たこ焼きパン」


 今にも垂れそうな大量のソースとマヨネーズに苦戦しながら、晴は切り出す。


「オミクロン・カルトについて、少し気になる噂を耳にしたの。何でも、部員の誰かが自作した呪符や呪いの人形を売買しているって」

「売買――誰に?」

「生徒に教師、その親族や友人。段々と取引の規模を広げて、最近は怪しげなカルト教団にも提供しているとか」


 カルト教団と聞いて思い浮かべるのはやはり大ア・マナ会だ。教会に乗り込んだ時、床一面を呪符が覆っていた。汗まみれの服にこびりついた切れ端しか回収できなかったが、思えばあの呪符は精度こそ荒いがきちんと効果のあるものだった。ああした粗悪品が本来の効能を発揮するためには、それこそ一度に、大量に使用するしかない。物量にものを言わせた出鱈目な運用方法は、呪符の効力を熟知しているからこそ思いつくものだ。


「それで、一体誰がそんなことを」


 晴は口元についた鰹節を手で拭い、


「そこまでは分からない。天照以外の誰かが、金のためか、他に目的があるのか、あなたから教わった技術を悪用しているんだと思う」


 真っ先に私を対象から外してくれる辺り、彼女からの信頼が感じ取れる。信頼には応えなければならない、それがゴーストヘルパーだ。


 晴の顔を見る。口いっぱいにパンを頬張る姿はハムスターを彷彿とさせるが、その目は人間ともハムスターとも異なる狂気を宿している。死を浴びて身につけた霊視は霊感のそれとは明らかに異なる手順の許、霊を視覚している。


 彼女は普通の少女ではない。それは私も同じだ、私も普通の人間ではない。枝峰も、葉菜も、ママ・カルボナーラも、是羅もそうだ。私の周りにはおおよそまともな人がいない。私の弟も、おそらく霊に魅入られている。


 私の思考に応えるように、屋上を訪ねる人物があった。中性的な見た目は母の血を強く受け継いでいる証拠か。何かと人にいじられがちなその性格は父譲りだ。


 佐久間 嵐は「いたいた」と声を上げ、晴に駆け寄ろうとする。ところが彼女の隣に立つ私の姿を捉えた瞬間、足取りが重くなる。目線を合わせないように晴の方へと顔を向けるが、ちらりちらりとこちらを伺っている。


「先輩。例の件ですが、同級生の一人が在原 尊という生徒から藁人形を購入したそうです」


 何、と私が詰め寄ると、嵐は小さな悲鳴を上げて晴の背中に回った。私は伸ばしかけた手を下ろし、少し距離を取った後、話の続きを促す。しかし晴の背中にしがみついたまま押し黙る嵐に、私はため息をついた。


「ごめんな、嵐。晴、後は頼む」


 晴は手慣れた様子で嵐を抱き締め、任せなさいと笑ってみせた。私は去り際に嵐の顔を見ようとするが、最後までちゃんと目を合わせてはくれなかった。


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