人間は、未練を抱えて霊となる。では動物の霊はどうだろう。彼らに意識と呼べるものがあったとして、そこに未練はあるのだろうか。もっと生きていたかった、もっと食べたかった、もっと子孫を残したかった。他には?未練にはどれほどのバリエーションがあり、どれだけの差異があるのだろうか。
霊になりやすい未練。地縛霊になりやすい未練。守護霊になりやすい未練。悪霊になりやすい未練。種類と傾向の関係を紐解けば、あるいは人工的に任意の霊を作ることも不可能ではないだろう。それはつまり、ある特定の未練をもたせた人間を殺すことに他ならないのだが。
「やるなよ?」
私は目前の少女に釘を刺しておく。この刳舘 葉菜という同級生は、霊的現象に対して人一倍関心があり、その探求心故に危なっかしい生徒であった。流石に殺人を犯すほどの狂人だとは思わないが、自爆くらいはやってのけそうな雰囲気を醸していた。
「人殺しなんてナンセンス。ホモサピエンスの幽霊なんて生み出したところで何の面白味もないし、そんなのありふれてるじゃない」
葉菜はにやりと笑い、こう付け加える。
「霊殺しなら、ロマンもあって素敵だけど」
こういうところが恐ろしいのだ、彼女は。
霊現象究明会、もといオミクロン・カルトの部室を見渡す。文化祭で使用した小道具の置き場となっていた空き教室を占領し、非公認のクラブを立ち上げた人物こそが、部長こと刳舘 葉菜である。
彼女が持ち込んだ数多くの文献、そのほとんどは紛い物ではない。かつて彼女が実践し、そして今も更新され続けている『生きた資料』そのものである。私はそれらに興味を惹かれ、しかし心霊現象への対処を生業とするものとして、バランサーの役割をもって時たまオミクロン・カルトに顔を出している。
人間に危害をもたらすような術は秘密裏に破棄し、なるべく安全な技術のみを教え、適度に彼女らの知的好奇心を満たす。それが私の役目であり、正式な部員として活動しない理由でもある。
「天照先輩、少しいいですか」
葉菜の隣で長机に広げた資料と向き合い、うんうんと唸っていたママ・カルボナーラが私を呼ぶ。しゃもじのような形をしたお面を被り、その手には一枚の札が握られている。
「これ、匂いはどうにかならないんですか」
札をひらひらと振るカルボナーラ。かつて僧侶の間で流行した劇薬、不眠不休で瞑想に耽ることが出来たという呪符。活動の一環で私が作り方を教え作成したものだが、無論、本来の技術そのままでは一枚でも十分な効果を発揮してしまうので、数十枚揃えてようやく役に立つような代物にダウングレードしてある。
「その匂いでもって眠気を吹き飛ばすんだから、それがなくなったら意味ないだろう」
「女性には一切感じられないんでしたっけ。いいですよね、葉菜先輩は苦労がなくて」
突っかからないで、と葉菜。
「おかげで私にはそのお札の効能が享受できないんだから、おあいこでしょ。それより、あなた男だったの?」
今度はママ・カルボナーラが不貞腐れる。中性的な声とモデルのように細い体つき、加えて顔と名前を隠しているとなれば、そういう疑問が出てくるのも仕方ないかもしれない。分かっていることといえば、中等部の生徒であるという情報だけだ。
「尊は来てないのか」
部室をぐるりと見回すが、在原 尊の姿はない。常に何かに怯え竦み、おどおどとしていて落ち着きのない同級生、尊。更にオカルト研究が趣味となれば、私達のような変人奇人が友達になってしまうのも無理はない。類友というやつだ。
「家庭の事情、だそうです」
「家庭の事情」
「ああ、尊くんって親がいないんだっけ」
それは初耳だ。中等部に弟がいるとは聞いていたが、そうなると兄弟で二人暮らしをしているのだろうか。そこには私のような人間には分からない、想像もつかない苦労があるに違いない――いや、嘘だ。少しだけ想像はつく。私の家庭環境だって正直似たり寄ったりだ。
「片親は子供の教育上よろしくないと聞きますが、両親がいない場合はどうなるんでしょうね」
「尊くんを見れば分かるでしょ。地味で根暗でヒス持ちで――」
私は両の握り拳を掲げ、葉菜とママ・カルボナーラの頭頂部目掛けて振り下ろす。ごごん、と心地よい打撃音が重なり、悲鳴の混声合唱を奏でる。何するの、と噛みつく葉菜に、何で僕も殴られたんですか、と言いながら崩れ落ちるママ・カルボナーラ。
「ここは悪口合戦に興じる部活だったか。ちゃんと活動しないなら帰るぞ」
「はいはい、悪うござんした。全く、天照は冗句の分からない男ね」
葉菜はふんと鼻を鳴らし、キーボードに指を走らせる。降霊の儀式に関するレポートをまとめているのだ。今回は対象の血液や髪の毛を触媒とした生き霊の召喚、並びに紙や藁の人形にそれを下ろし、本体に干渉する儀式について。つまりは呪術だ。
「丑の刻参り、一度くらい実践してみたいものね」
「呪い殺したい相手でもいるのか」
もちろん、と頷く葉菜の顔は不気味だ。口元はにんまりと笑みを作っているのに、目は笑っていない。真っ黒なインクで塗り潰したような瞳は、デスクトップの灯りさえも飲み込むほどに暗い。
「親がカルト教団の教祖様だと色々苦労するの。清めの波動だの地脈だの、何が悲しくて神様に縋らないといけないんだって話」
「その割には葉菜先輩ってまともですよね。いや、オカルトに傾倒している時点で普通じゃないんですけど、洗脳されてる感じがしないっていうか。少しはマインドコントロールしてもらった方が年相応の女性らしくなるんじゃないですか」
ママ・カルボナーラの軽口に、葉菜は舌打ちを返すだけでそれ以上口を開こうとはしなかった。拗ねちゃいましたね、と私の方を見るママ・カルボナーラは、私の視線が葉菜に向いていることに気づいたようだ――そして葉菜も私を見つめ返していることに。
陰鬱なムードが部室を包む。私は葉菜と出会った時のことを思い返していた。それは彼女も同じだろう。ただ何も知らないママ・カルボナーラだけが、説明を求めるように私達二人の顔を交互に見つめていた。
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大ア・マナ会。大気に漲るマナを独自の儀式によって体内に取り込むことにより、輪廻転生と安寧の生活を目指す新興宗教である。と、お題目から典型的なカルト教団の匂いがするこの一派により、刳舘 葉菜は巫女として崇められている。教祖の刳舘
一年前、彼女を地獄の窯から救い出したのは、他ならぬ私だ。
ゴーストヘルパー。霊を視認し、霊に干渉し、彼らを天国とでも呼ぶべきどこかへと導く人間のことを、私はそう呼んでいた。そして自らもゴーストヘルパーを名乗り、除霊師紛いの日々を送っていた。葉菜という同級生の悲惨な境遇を知ったのも、当時とある浮遊霊から相談を受けたのがきっかけだ。
「カルト教団にハマった奥さんが気がかりで成仏できない、と」
「妻は借金に追われ、心身共に疲れ果てていました。元は私が原因です、生命保険をその返済に充ててほしいと考え身を投げ出しましたが、大金を手にした妻は心の拠り所を求めるように新興宗教へと傾倒し、せっかくの保険金もお布施という名目で残らず吸い上げられてしまいました。このままでは、死んでも死に切れません」
大塚は膝の上に握り拳を作り、怒りに震えている。彼のシルエットを澱んだ大気が包む。どす黒いそのオーラは彼自身が発しているものだ。
地縛霊か、悪霊か。霊という曖昧な存在は些細な出来事で如何様にも姿形を変える。それが大切な妻のことともなれば、今すぐにでも人間の殻を捨ててしまいかねない。
私は腰を上げ、大塚の手を取る。半透明の己が手を握る存在に、大塚は驚きの声を上げる。幽霊が生きた人間に干渉するためには、自身の存在をきちんと認識してもらう必要がある。あなたは間違いなくここにいるのだと、霊にアプローチをかけることで生者は彼らに触れる権利を得る。
大塚 保はまだ現世に在る。そんな当たり前の主張は、陽炎のような彼らに得も言われぬ安心感を与える。大塚の周囲で揺らめいていた黒い靄が晴れ、彼は落ち着きを取り戻した。
「君は不思議な人だ。君にならば、妻を任せられる」
「任せる?それでは駄目なんです。あなたも『こちら』に来ていただかないと」
私は大塚の手を引っ張り、彼を強引に立たせると――そのまま自分の体に取り込んだ。驚愕する彼を他所に、手を腹部に融け込ませ、互いの足を同化し、最後に残った顔を抱きかかえる。ゆっくりと両腕を開き、大塚の体が微塵も残っていないことを確認すると、
「生者に憑依した気分はどうですか」
――これは驚いた、という声。脳に直接響く大塚の言葉に、私は破顔する。
「これから奥さんの許に向かいますが、他人である私の言葉は届かないかもしれません。その時は迷わず私の体を使ってください。あなたが私の口を介して説得すれば、カルト教団から奥さんを取り戻すことができるかも」
もし仮に、私がこのまま君の体を乗っ取ったらどうするつもりだい。大塚は思ってもいない疑問を口にする。彼は今、私の一部でもある。彼が本気で妻を救いたいと願っていること、邪な願いを抱いていないことは手に取るように分かる。
だが、私はあえて答えた。
「それであなたが救われるなら、私は構いません」
彼の返答を待たず、私は歩き出す。
大ア・マナ会が拠点とする場所は既に大塚から聞いている。霊体である彼は大ア・マナ会の本拠地を突き止めたがしかし、侵入することはできなかったそうだ。壁をすり抜け宙を舞う彼を阻むものとはつまり、結界の類か。たかがカルト教団如きに高度な術を扱う心得があるとも思えないが。そもそも、霊の侵略を阻害して何の意味がある。彼らは基本的に無害で、ポルターガイストのように生者を驚かせることしかできない。悪霊ともなれば話は別だが、大塚はまだ悪霊に至っていない。恨みつらみを買って悪霊となった死者に祟られることを懸念している――そんな馬鹿な。
自然と歩幅が広がり、急げ急げと内なる自分が囁く。
目的地まであと十五分はかかるだろうか。歩道橋を二段飛ばしで上っていると、大塚が遠慮がちに言った。
「天照君、今訊くようなことでもないのかもしれないが」
「構いませんよ」
「君はいつから私のような、いわゆる幽霊が見えるようになったんだい」
私は足を止めない。
「溺死した時です」
大塚の動揺が自分のことのように伝わる。憑依とは霊に体の支配権を譲り渡すことに他ならない。私というマシンを二人がかりで動かしている、といった方が正確か。共にハンドルを手に相乗りしている状態なのだから、相手の心の動きなどは簡単に分かってしまうのだ。
「父母が一家心中したんですよ。私と弟を車に乗せたまま、海に飛び込んだんです。私と弟はただ遊びに行くとしか伝えられておらず、車内の全方向から噴き出す流水に二人で怯えていました」
瞬きをする度、目蓋の裏に写る光景――父母の安らかな顔。「大丈夫、怖くないよ。皆一緒だからね」という声。弟の泣き叫ぶ姿。口に海水をいっぱい飲み込みながら、それでも私のことを何度も何度も呼び続けていた。お兄ちゃん、助けて、お兄ちゃん。扉が開く。最後の力を振り絞り、弟の体を車外に押し出す。
「私はね、出られなかったんです」
歩道橋を下りながら、私は自分の顔に触れた。ひんやりと冷たい。冬にはまだ早いが、私の体は氷塊めいて凍りついていた。
「医者には奇跡だって言われました。車が引き揚げられた時、父と母は海水をたっぷり吸って人間の姿を留めていなかったのですから。ところが私の体はタオルケットに包まれ、ミイラさながらの状態で病院に担ぎ込まれました。心臓マッサージで息を吹き返し、点滴で元通り。医者には、こんな処置で人間が助かれば苦労はないと言われました。死ななかったわけがない、ともね」
「君は一度、死んでいる?」
「真実は分かりません。ただ、あの日から思うように体温が上がってくれないんですよね。おかげで風邪を引いても薬を出してもらえません。それに、視えてはいけないものが視えるようになってしまった」
死に近づきすぎたんです。私はそう言って締め括る。
歩道橋を下りた先に構える写真館と理容店、その隙間に生まれた狭い路地を進むと、鬱蒼と生い茂る草木の壁に突き当たる。向かいに立つ大ア・マナ会本部を覆う自然のカーテンは、怪しげな宗教の巣窟を住民の目から隠している。
身体にまとわりつく小枝を強引に圧し折りながら、私は先に進む。草花が日光を遮る。夜のトンネルを潜っているように真っ暗だ。頬についた羽虫を手の平で払い、奥へ奥へと突き進む。二十分ほど経っただろうか、ようやっと光が見えたところで立ち止まり、木々の隙間から外を観察する。
一般的な教会を彷彿とさせる、白い建造物。日の光がちょうど真上から降り注ぎ、今にも天使か何かが舞い降りて来そうな神々しささえ感じられる。私が突破した植物の壁は建造物をぐるりと取り囲んでいた。大塚曰く、信者は近隣の一軒家からこの教会まで続く地下トンネルを利用しているらしい。
「妻は朝から晩までこの教会で過ごしています。中で何をしているのかまでは確認できていませんが」
「妙ちきりんなダンスに傾倒しているだけならいいんですけれどね」
その手の胡散臭い宗教ではよくある話だ。聞きかじっただけのヨガを禊と称し、人体に負荷のかかる体操を奉る。洗礼の名の下に赤ん坊の首を捻って殺したニュースなどはまだ記憶に新しい。
ただ、中には本当に『やばい』儀式を知らずに行っている団体もある。あるカルト教団ではイスラム神秘主義に見られるセマー・ダンスを義務とし、結果として信者の一人が人神になりかけたらしい。同じゴーストヘルパーとして、あるいはそれを本職とする枝峰 雪定という男から聞いた話だ。
彼には多くを学んだ。弟を学生寮に入れるため、アルバイトという名目でお祓いなどを手伝った。それ自体がゴーストヘルパーとなるための修行足りえたし、おそらくは枝峰もそのつもりだったのだろう。事実、大塚の一件は彼の紹介が始まりであった。成功報酬はいつも通り、私と弟の生活費の工面だ。両親を失った今の私にとって、彼は親に近い存在だといえる。
「神が流行っている」
大塚への接触を試みようとする私に対し、枝峰はただ一言、そう忠告した。
協会から発せられる異様な気に、大塚が息をのむ。彼が教会の中を確認しなかったのは単なる怠慢などではなく、この肌を刺すような感覚に圧倒されたのだ。
私は教会を一周し、その全貌を観察する。窓も裏口もない、人が出入りできそうなのは玄関の扉だけときた。仮に信者がこの教会から逃げ出したとしても、ぐるりと建物を囲む緑の障壁に気圧され、のろのろと草木を分けて進んでいる内に捕まってしまう――よくできた牢獄だ。外から侵入するのに軽く二十分は費やした、どれだけ急いでも十分はかかるだろう。帰りの算段もつけておかなければ。
「何はともあれ、奥さんの無事を確認しないと始まらないか」
正面から堂々と、玄関を通って教会に侵入する。鍵はかかっていなかった。外から侵入する者などいないと高を括っているのか、と思った矢先、
「ようこそ」
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