目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
第七話『母と子・その3』

「ここが部室だ」


 在原に案内され、ぼくは中等部校舎四階の隅にある部屋へと足を踏み入れた。そこは一見すると倉庫にも見える。事実、去年の文化祭で使ったと思しき小道具が溢れていた。それらを踏み越え、部屋の奥に進むと仕切りで隔たれた空間が見えた。卓球用のフェンスを境に、乱雑に散らかった部屋は綺麗に整頓され、怪しげな本や資料が棚の中に押し込まれている。長机にはランプ、それと木彫りの人形や藁、十字架のネックレスで雁字搦めに縛られた小瓶が見受けられる。


 これが心霊現象究明会、オミクロン・カルトの正体。部室だけが不気味に残る、学校非公認の部活動。


「普段は資料を読み漁ったり、その辺に転がっている道具を弄って遊んでいる。それ以外にすることもないし、あくまで趣味の一環だからな。必要以上にのめり込んで祟られでもしたら大変だ」

「ここで得た知識を誰かに教えたり、自作したお札を配ったりはした?」


 とんでもない、と在原は声を荒げる。その表情は妙に険しく、鬼気迫るものがあった。


「素人が遊び半分で儀式など始めてみろ。よくて何も起きないか、下手を打てば命に関わる。この部室に残された知識は全て本物、かつてどこかの誰かが実践し、検証と裏付けを繰り返して蓄積された情報をまとめた、立派な文献だ。外部に持ち出すような代物でもないし、そんなことはおれが許さない」


 在原の言葉には不思議と重みがあった。高慢な男だとばかり思っていたが、いや実際その通りなのだろうが、それだけではない。彼には彼なりの矜持があるのだ。


 ぼくは木製の本棚に近づき、資料を一冊手に取る。『ホメオパシーに見る感染呪術の問題点と展望』というタイトルを確認し、ワープロで作成された文章を流し読みする。時折ペーストされた画像はこの部室で撮影したもの、確かにこの部屋が機能していたことが伺える。


 資料の最期には、これを作成した部員の名前が記されていた。


「――不思議だよな」


 ぼくは前方に飛び退き、いつの間にか背後に立っていた在原を睨む。悪い、と彼は微笑むが、ぼくと同じく、その瞳には恐怖の色が垣間見える。


「お前をここに招いたのは、何か手がかりが掴めるかもしれないと思ったからだ。オミクロン・カルトの部員達について」


 ぼくは恐る恐る、資料の巻末を再度確認する。部員三名の名前と、外部協力者の名前が順に記されている。


 刳舘くるたち 葉菜はな


 ママ・カルボナーラ。


 在原 たける


 佐久真 天照あまてる


「在原、それに佐久真」


 最初の二名に心当たりはない。大体、ママ・カルボナーラなどというふざけた名前、一度聞いたら忘れるわけがない。大方本名ではなく、ペンネームか何かだろう。


 しかし、在原 尊と佐久真 天照。この二人は違う。単に名字が同じというだけでは説明がつかない、心を騒めかせる何かがある。


「この尊って人は」

「兄でもなければ弟でもない。おれは一人っ子だ」


 ぼくもそうだ。天照という名前の兄弟も姉妹も、親戚だっていない。


 ならば、この胸のざわめきは一体何なのだろう。やってはいけないことをしてしまった後に湧き上がる罪悪感のような、過去の苦い経験を思い出した時に沸々と不安が噴き出すような、不快な気持ち。


 頭が痛い。ネジを脳みそに打ち込まれているみたいだ。悪霊となった糸原先輩に相対した時と症状が似ている――何もかもが憎くて、憎くてたまらない。そんな感覚。


「ごめん、気分が悪くなった。今日はもう帰るよ」


 ぼくは部室を出る。床に足がついているかどうか分からない、ちゃんと前に進めているかも怪しい。


 在原はぼくの心中を察したようで、


「分かる、おれも同じだ。不安で不安でたまらない。落ち着いて深呼吸しろ、帰ったらすぐ休め。いいな?」


 彼は先回りして扉を開けてくれた。ありがとう、とお礼を口にしたが、きちんと発声できていたかどうか。五感が鈍く、体が重い。


 ぼくは廊下を歩く。ろくに動かない足を引きずって体を前に進める。壁伝いに前進し、すぐ近くの階段まで辿り着くのに三分はかかっていた。


「天照――佐久真 天照」


 誰だ。分からない。誰か分からないのに、声が聞こえる。覚えているのだ。ぼくは。間違いなく知っている。本当に?確証はどこだ。探せ、どこかにぼくがぼくであると証明できるものがあるように、天照という人間がいた証が転がっている。


 転がっている?それはぼくだ。ぼくの体がごろごろと階段を転げ落ちている。手摺に捕まる余裕もなく、ぼくは重力に引かれる。最初の一歩で足を滑らせたのだ。頭を打ちつけ、足を、手を、背中を床に叩きつける。


 視界が虚ろになる。モザイクだ、モザイクがぼくの目の前に立っている。ぼくを見下ろしている。またこいつか、許さない。怒りで心を染める。殺す、殺す、そうぶち殺す。たかが守護霊風情が、粋がるんじゃない。


「殺す」


 殺すのはぼくだ。ぼくが殺す。


「殺す、殺す」


 誰だ、誰が喋っているんだ。守護霊か、幻聴か。ああ、ああ。


「ぼくか」


⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯



 視界いっぱいに、先輩の顔が広がる。


 まだ脳が本調子ではないようだ、今の状況を上手く把握しきれていない。夢見心地のまま辺りを見渡すと、見知った保健室の風景が映る。背面に柔らかなベッドの感触を覚え、スカイブルーの毛布が胸の位置まで被さっている。先輩はベッドのすぐ横で丸椅子に座り、ぼくの瞳を覗き込んでいる。


「先輩はどこまで知っているんですか」


 オミクロン・カルトのこと、佐久真 天照という人間のこと。


 先輩は以前、ぼくがそれを知っていて当たり前というような口調でこう聞いた。オミクロン・カルトを覚えているか、と。つまりぼくは『知らない』のではなく、『覚えていない』のだ。


「教えて下さい、先輩。何があったんですか?」


 先輩は俯いたまま、


「今日はたまたまね、保健室の先生が来ていたの。毎週土曜と日曜はいないんだけれど、運動部の付き添いで寄ったんだって。そうしたら後輩君が階段でこけて、孝くんがここまで運んで来てくれたのよ」


「話を反らさないで下さい。先輩は覚えているんでしょう?天照のことを」


 ぼくは彼女の目を見つめ返す。黒い真珠のように綺麗な眼は潤み、見る者に悲しみを訴えてくる。次第にその視線は、ぼくを非難するような鋭いものへと変わっていく。


「時期が来たら、ちゃんと話す。だから待って――まだ私も心の整理がついていないの」

「心の整理って」


 彼女の言い方に、ぼくは違和感を覚える。まるでつい最近、ほんの数か月前に何か好からぬことが起きたような口振りだ。過去を振り返ってみてもそれらしい出来事に覚えはない。だが、ぼくがその記憶を失っていたとするならば――馬鹿馬鹿しい。記憶喪失に陥っていたとでもいうのか。


 天照。ぼくと同じ姓を持つ、謎の人物。オミクロン・カルトと協力関係にあったのはまず間違いないが、そうなれば糸原先輩にお札を供与したのがこの人物という可能性もある。しかし何かが引っ掛かる。そう、心霊現象究明会の資料においてこの人物は『外部協力者』と記されていた。つまりオミクロン・カルトには所属していないのだ。


 心霊現象究明会に依らず、むしろ協力者として招かれるほど霊的現象の知識を持った人間。今のところ、ぼくに推測できるのはここまでだ。後は先輩に直接聞く他ない。彼女の言う心の整理というものがつくまで、天照の正体に悶々と悩まされるしかないのだ。


「分かりました。天照という人物について、今はまだ訊かないでおきます。オミクロン・カルトの件も、先輩が話すべきと判断した時に伺います。しかし、一つだけお話しておきたいことが」


 ぼくは在原に憑いていた霊について報告する。おそらくそれは守護霊であること、それ故に悪意を感じなかったこと、そしてその霊は在原の母である可能性が高いこと。


 先輩は黙ってぼくの話を聞いていた。驚いた様子もなく、時折何かに納得したようにうんと頷いてみせる。そしてぼくが話し終えると同時に、


「彼は守護霊の存在に気づいてる?」

「確信はないようですが、気がつくのも時間の問題ではないかと思います。なにせ心霊現象究明会を再興しようとしているくらいですから」


 先輩の目の色が変わる。本当に、と確認を求める彼女の表情には鬼気迫るものがあり、恐怖で体がぶるりと震える。どうにか頷きを返すと、先輩には珍しく、ため息をついた。


「人間は怖いわね。何度だって同じことを繰り返すんだもの」


 先輩は踵を返し、保健室を出ようとする。一体どこへ行くのかと尋ねてみるが、返事はない。叩きつけるように扉を閉め、その足音は遠ざかってもなお荒々しい。ぼくは言いようのない不安を覚える。


 先輩が苛立っている――理由は分からない。だが、何かが彼女の癇に障ったのだ。何かが、いや、誰かが。


 ぼくは答えに辿り着く。その後押しをするように、廊下から男の悲鳴が響き渡る。ベッドから転げ落ち、床を這って扉まで移動する。尺取虫さながらの動きでどうにか保健室を出ると、ごろごろと床を転がって悲鳴の発生地点を目指す。


 そこは校舎の隅にある霊現象究明会の部室。ふらつきながらも壁を伝い、半分開いた扉を潜る。


「よせ、触るんじゃない!これは素人が触っていいものじゃないんだ!」


 部室の半分を覆う機材を押し退け、フェンスを巻き込んで倒れる。顔を上げると、棚の資料を豪快に引きずり出す先輩と、彼女の不可解な行動を懸命に止めようとする在原の姿があった。


 がらがらと音を立てて崩れるアルミ缶。その中にはミサンガのような、それでいて血の匂いが漂うブレスレッドが敷き詰めてある。藁人形が床に落ちて跳ね、ぼくの目の前に着地する。先輩は無言で棚を物色し、透明な小瓶を取り出すと、ようやく動きを止めた。


「孝くん。あなたに憑いている『それ』は守護霊で間違いない」


 先輩の虚ろな声は、彼に憑いた霊が守護霊であるという言葉に反して恐ろしさを付け加えている。手に持った瓶を振り、中に液体が残っていることを確認すると、コルクを空けた。


「でも、すぐに除霊することを勧めるわ」

「何を言って――」


 在原の言葉は、先輩が突き出した瓶に吹き込まれる。液体は容赦なく彼の口に注がれ、在原がむせるのも構わず飲ませ続ける。


 ぼくは見ていられず、先輩の手から小瓶をひったくり、これ以上飲ませないよう自分の口に突っ込んだ。モズクみたいに酸っぱい液を飲み干し、瓶を床に放る。


「先輩、一体どういうつもりですか」


 先輩は何も答えない。ただ、在原の背後を指差し――嗤った。


 ぼくは彼女の指先を追い、視線を在原に向ける。彼の背中に立っているはずのモザイクは、本来の解像度を帯びてはっきりと視えた。先程飲んだ薬はそういう、霊感を強化する類の薬なのだろうと理解する。


 恐る恐る、在原も振り向く。そこに佇む女性を見た彼は、嬉しそうに叫ぶ。


「おふくろ」


 突如鳴り響く金属音。それが人の声であると分かるのに、しばらく時間がかかった。ぎゃぎゃぎゃぎゃ、と人ならざるモノの発する声に、真っ青な霊の顔が共鳴して震える。段々と縦に伸び、唾液や血液を在原の顔に撒き散らす。当然、彼の顔は恐怖に歪んでいた。


「しねえええええええええええええええええええええ」


 瓢箪の如く変形した顔は、怨念を口にし続ける。死ね、死ね、死ね。それ自体はまるで出来損ないのホラー映画さながらで、語彙力の足りない幽霊が同じ言葉を繰り返していた。だが、霊の発する威圧感が、この場を恐怖一色に塗りつぶしている。


 在原は唇を、そして顔全体を震わせ、目の前の化け物に怖気づいていた。母親に会えたという喜びは消え去り、その目に涙を溜めている。嘘だ、こんなのおふくろじゃない。そんな呟きに、先輩の冷淡な声が答える。


「あなたの母親は死して守護霊となった。でも見ての通り、悪霊や怨霊に勝るとも劣らない存在に成り果てている。詳しい事情は分からないけれど、あなたに殺意を抱き、あなたを呪い殺そうとしている。体育館や教室の騒動の犯人は彼女でしょうね。でも守護霊は絶対に守護対象に干渉してはならない。本来守護霊とは、善行でもって霊的に成長しようとするのが目的のはず。だから彼女はあなたに手出しできない、かといってあなたへの殺意を抑えようともしない、出来損ないの守護霊よ」


 悪い守護霊、と形容すればよいのだろうか。一連の事件は在原の守護霊である母親が行ったもので間違いないが、彼女は肝心の在原には一切干渉することを許されなかった。


 思い出される在原の言葉――おふくろの霊が護ってくれたのかも。その言葉には彼の、母親に対する愛情が感じられた。父親を嫌ってはいたが、いや、だからこそ母親をより一層慕っていたのだろう。彼のそんな思いは見事に裏切られ、真実を知ってしまった。


 自分が相手を好いているからといって、相手もそうであるとは限らない。


「来るな、来るなああ!」


 在原は駆け出した。床に散乱した小道具に躓き、すぐに接近した守護霊を手で払って遠ざけようとする。しかし母親は消えない。我が子の死を望み、それでも手が出せない霊。彼女が在原に触れられないように、彼も母親に触れない。悲鳴ともつかない喚き声を上げながら、在原は部室を飛び出した。


⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯


 冬は近く、日没もまた早い。つい先程まで青一色だった世界は赤く染まる。そんな夕焼けにかかるモザイク――以前、献花の傍で跪いていた女性の霊だろうか。泣く声は聞こえないが、まだそこを離れるつもりはないらしい。先輩曰く、もう数日と経たない内にいなくなるらしい。泣くことに疲れた霊は、現状に目を向ける。そうして成仏するのだ。


「守護霊、背後霊の類は自力で成仏が出来ない。そのためか、悪意をもった霊が守護の座につくことは本来ありえないの」


 先輩と共に帰路を往く。在原はきちんとお祓いをしただろうか、それとも未だ母親という悪霊から逃れているのだろうか。あまりに強引な幕引きに、ぼくは疲れ切っていた。オミクロン・カルトのことも結局分からず仕舞いだ。


「先輩、あのやり方はどうかと思います」


 肉親の変わり果てた姿を見せつけたところで、一体何が変わるというのだろう。在原の母親を諫めるでもなく、除霊を手伝うでもなく、彼女を利用して在原を追いつめ、傷つけただけではないのか。


 先輩は俯き、ごめんなさい、と呟いた。


「あなたの話を聞いて、居ても立っても居られなくなったの」

「霊現象究明会の、いや、オミクロン・カルトの復活。それを阻止するために、在原にあえて霊的なトラウマを植え付けた。そうですね?」


 先輩は顔を上げ、ぼくの瞳を見つめ返す。涙ぐむ理由が分からず、とっさに視線をそらしてしまった。


 二人の沈黙。周囲もまた静寂だ。ひと気のない街路は生者の気配も、死者の存在も感じられない。風に流されてからから、と地面を転がる枯葉はぼくの足元に滑り込み、くしゃりと小気味良い音を奏でるが、それも一瞬のこと、すぐさま無音がぼくらの世界を支配する。


 どれくらい歩いただろうか。学生寮まで後三分とかからない場所まで来たところで、先輩が口を開いた。


「後輩君、時間ある?」


 寮の門限は午後十一時、夕食の時間を考えなければ時間などいくらでもある。大丈夫ですよ、と答えると、


「これから私の家に来ない?そこで全てを話す」


 霊現象究明会のこと、オミクロン・カルトのこと、佐久間 天照のこと。


 そして、を――あなた自身のことを。



⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯『母と子』了

コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?