目覚まし時計のやかましいアラームが、現在の時刻を知らせてくれる。午前六時三十分、最高に目覚めの悪い朝だ。
景気よく鈴の音を鳴らし続ける時計に拳骨を食らわせ、黙らせる。腫れぼったい瞼を強引にこじ開け、自分の部屋を出て共用の洗面所に向かうと同級生の一人が歯を磨いていた。その生徒、
「おはようさん。どうした、寝不足か?」
「おはよう半ちゃん。三日前からずっとこうだ。眠れたと思ったらすぐ目が開く、それの繰り返し」
「悩みか。同じ寮生として、相談くらいは乗ってやるぞ」
ぼく達は鏡の前に並び立ち、揃って水道の蛇口を捻る。半蔵は口をゆすぎ、ぼくは顔を洗う。ひんやり心地良い水が顔のべたつきを洗い流し、清涼な感覚をもたらしてくれる。しかし。どこか澱んで見える表情だけはどうにもならなかった。
「例えば、今半ちゃんが話しているのはぼくじゃなくて、ぼくに憑りついた幽霊だったとしたら、どうする?」
「何だ、ホラー映画でも見たか」
「まあそんなところ」
半蔵はどこからともなくシェーバーを取り出し、顎に満遍なく泡を塗りたくった後、頬に張りついた黒胡麻のような髭を剃り始める。
「そうだなあ、とりあえず殴って正気に戻す。それで駄目なら寺生まれの人に除霊をお願いする」
「寺生まれ?」
「都市伝説だよ。それに、ほら、お前の大好きな壬生坂先輩もゴーストヘルパーとか呼ばれているんだろう?あの人に頼めば幽霊なんていちころさ」
「べ、別に好きなわけじゃないし」
「おやおや、これは恋のお悩み相談に切り替えた方がいいかな?」
けたけたと笑う半蔵を肘で小突き、ぼくは洗面所を後にする。半蔵は髭剃りに時間がかかるだろうから、先に食堂へと足を運ぶ。まだ七時を回っていないにも関わらず、山仲学園の食堂は寮生で賑わっていた。大学受験に備えて朝早くから登校する高校三年生がほとんどで、他には早起きの生徒がちらほらと見受けられる。中等部の生徒はぼくだけだ。
カウンターで寮生用の食券を提出し、味噌汁、小松菜の和え物、鯖の味噌煮が盛られた皿と、別に空の茶碗を受け取る。それらを載せたトレイをテーブルまで運んだ後、茶碗を持って食堂の真ん中に設置された巨大な炊飯器に向かう。そこで自分の好きな量だけご飯を盛り、テーブルに戻る。
「いただきます」
掌を合わせようとした瞬間『あの時』の記憶が蘇り、手が止まってしまう。両手を合わせるその行動は、ミイラ同然の姿でぼく達の前に現れた糸原 光希の姿を思い起こさせた。食事時に思い出すべきではなかったと後悔するが、もう箸を取る気力も削がれてしまった。
「全部、先輩のせいだ」
先輩。それはゴーストヘルパーを名乗り、率先して霊的事件に首を突っ込もうとする愚かな女性。そしてぼくを巻き添えにする悪魔だ。名前は壬生坂 晴、幽霊を視認する力を持ちながら幽霊に対抗する術をもたず、三日前、除霊用のお札を家に置き忘れたとかで汐音という悪霊に体を乗っ取られた、とんでもなくアホな人だ。
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「やあやあ、後輩君」
今まで見たことのない最高の笑顔と共に、例のアホはやってきた。わざわざ中等部まで顔を出した理由は、彼女の手に握られている紙袋から何となく想像がつく。袋には高級ブランドで有名な和菓子専門店のロゴが記され、その中身がとんでもない額の菓子だと分かる。
紺色のセーラー服に、栗色のショートボブ。いつも通り、至って普段通りの先輩だ。しかし、どうしてもあの時の光景が――悪霊に乗っ取られていたと判明した時に浮かべた、発狂してしまいそうなほど醜悪な笑みがちらついて離れない。
「先輩、ですよね?」
「ええ。正真正銘、最後の最後で幽霊に取り憑かれたアホな先輩よ。この間は本当にごめんなさい」
これ、と言って渡された紙袋を受け取り、中身を確認する。やはりお菓子だ、それも袋がぎゅうぎゅうになるまで詰め込んである。
「先輩、わざわざこんな高級品を買ってこなくても、ぼくは別に怒ったり――」
中身を取り出すと、紙袋のロゴとは似ても似つかない、誰もが知る某お菓子メーカーの名前が飛び込んできた。チョコレート、ゼリー、サブレにマドレーヌ、牛乳プリンと、その中身はとても和菓子とは呼べないものばかり。
「します」
「そんな!小遣い全部はたいて買ったのに」
冗談はこのくらいにして、ぼくは素直に礼を言う。高校生のなけなしの小遣いを消費したばかりの先輩に対し、高級品を買えと命令できるほどぼくは悪人ではない。それに今回はぼくも同意の上で首を突っ込んだ、多少のホラー体験は大目に見るつもりでいた。
「それで、汐音さんはどうなったんですか?」
放課後ということもあり、いつも隣の席で無駄話をふっかけてくる半蔵は部活でいない。彼の席に先輩を座らせ、ぼくは貰ったお菓子を適当に広げ、口に運ぶ。先輩も棒状のゼリーを齧りながら、
「知り合いのお坊さんに頼んで、きちんと成仏してもらったわ。乗り気だったし」
「乗り気だった、って、自ら望んで成仏したんですか?」
「本人も言っていたとは思うけれど、現世に留まる理由がなくなった彼女は、イタズラ気分で私に憑りつき、あなたをからかったのよ。私達をこの事件に巻き込まないよう糸原ちゃんに憑りついて警告までしたのに、それを無視された仕返しだそうよ」
どこかの誰かに似てお茶目な人だな、と心の中で呟く。なるほど下の名前を呼ばれるまで気づかなかったわけだ。
「皆阪 汐音は悪霊に成り果てていたけれど、少なくとも内輪で決着をつけようとしていたみたいね。彼女は殺された後、糸原ちゃんを呪い殺した。それは決して許されることではないし、自分が殺されたからといって相手を殺していい理由にはならない。これは逆も然り。でも糸原ちゃんの暴走は止まらず、どうにか自分の愛する人を護るために奔走していた」
「死んでも三角関係ですか。人を好きになるっていうのは難しいですね」
思うところがあるのかしら、と嫌らしく笑う先輩。どうしてぼくの周りは色恋沙汰に興味津々な人間ばかりなのだろう、と嘆かずにはいられない。
「起きてしまったことを今更悔やんでいても仕方がないわ。お祓いも済んだし、糸原兄妹も含めて供養は済ませた。最善の結果とは言えないけれど、糸原ちゃんの依頼は達成された。それに、あのお札の出所も掴めたわ」
あのお札、というのは硫黄と生ごみを混ぜてシュールストレミングにぶちまけてもなお再現不可能な激臭を発する呪符のことだ。言われてみれば確かに、悪霊になった糸原先輩がどうやってあのお札を入手し、お兄さんを神に仕立てる方法を知り得たのか疑問であった。
先輩はふと、お菓子を漁る手を止める。そしてぼくの顔を覗き込み、
「後輩君、『オミクロン・カルト』を覚えてる?」
オミクロン・カルト、聞き慣れない言葉だ。しかしどういうわけか、先輩はぼくがそれを知っていて当然、とでもいうような口調で訊いてくる。
「いえ、覚えているも何もそんな言葉に聞き覚えはありません。漫画かアニメのタイトルですか?」
いいえ、と先輩は頭を振る。それ以上は何も語らず、物憂げに牛乳プリンの蓋を開ける。スプーンを突っ込んだまではいいが、掬い取ったプリンを口に運ぼうとしない。彼女の視線は床を、いや、どこか遠くの――過去の思い出を見ているようであった。
気まずい雰囲気に耐えられなくなったぼくは、先輩から得た情報を頭の中で反芻し、推測を口にする。
「つまり、例のお札とそのオミクロン・カルトに何か関係があるんですね?」
先輩は口を尖らせ、ちらり、ちらりと視線をこちらに寄越してはプリンの方に戻し、またこちらを見る。何を言い渋っているのかは知らないが、よほど口にすることが憚られるような情報であることは理解できた。
「場所を変えましょうか?それともぼくには言えないことですか?」
「――いえ、今のは忘れて」
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それは、朝一番の授業で起きた。
昨日、先輩から聞いたオミクロン・カルトという言葉。その如何とも形容しがたい怪奇な響きが、ぼくの思考のほとんどを埋め尽くしていた。教科書に記された英文の内容がまるで頭に入ってこない、教師が黒板に走らせるチョークの動きを無意味に目で追っている。
ぼくの呆けた顔を見て、ここぞとばかりに半蔵がちょっかいを出してくる。シャープペンシルの芯を爪で弾き、折れた先端を頬に当ててくる。やっていることがまるで小学生だ。
「授業に集中しろよ、半ちゃん」
「嵐の方こそ、ノート真っ白だぜ」
半蔵が笑いながらぼくのノートを指差す、とほぼ同時に教室全体が小刻みに揺れる。地震だろうか、校舎全体が生徒の声でざわつく。悪ふざけで悲鳴を上げ、注目を浴びようとする生徒を除けば、そう過敏に反応する者はいない。だが、ぼく達のクラスは違った。
気のせいとも思えた微弱な揺れはしかし、廊下側の窓ガラスを桟から外すには十分であった。窓に近かった一人の生徒目掛け、長方形のガラス板が襲いかかる。
つまり、半蔵の頭部にガラス板が直撃したのだ。彼の頭は大きく仰け反り、砕けたガラス片が頭と背中とに降りかかる。ガラスの雨に打たれた半蔵は、頭部から滴る血の雫を手の平で受け、唖然とする。
「あ、嵐?救急車を頼む。一一八、だったか」
女子生徒の絶叫、そして教師の悲鳴が続く。ぼくは今にも倒れそうな半蔵の体を抱きとめ、近くの生徒に救急車を呼ぶよう手配する。保険医を呼ぶ係は別の生徒に任せ、残った生徒を鎮める役、担架を用意する役、半蔵の意識が飛ばないように声をかけ続ける役を分担し、てきぱきと事の対処に臨む。
ついこの間、体育館で似たようなことが起きたばかりだ。バスケットゴールが外れ、生徒数人がその下敷きになった。被害に遭った生徒らは打撲、打ち身程度で済んでいたが、それでも場が混乱したことには変わりない。あの時の経験が今生かされているわけだが、こうも問題が続くとこの校舎の安全性を疑わざるを得ない。
「一一〇だ、違ったかな」
救急隊員が到着し、半蔵を担架に乗せる。血はもう流れていない、髪に張りついていた血は乾き、意識も明瞭なままだ。ただ、未だに救急車を呼ぶ際の電話番号が思い出せずにいる。
一一九ですよ、と真面目に答える救急隊員に運ばれ、半蔵は病院に搬送された。
血を見て興奮している学生を宥め、ガラス片を掃除している内に英語の授業は終わった。休み時間を挟み、次の授業まで食い潰し、ようやく事態は終息した。ガラス片は全て取り除かれ、血の拭き残しも見当たらない。半蔵の方は皮膚を少し切っただけで、頭蓋骨や脳に異常はないらしい。言ってしまえばたんこぶが出来ていただけで、氷水で冷やしていればその内治るそうだ。
担任の先生から半蔵の様子を訊き出したぼくは、残った午前の授業を上の空で受けていた。半蔵は心配ないにしても、ぼくが体験しただけでも二つ、この学校で事故が起きた。真面目に授業を受ける気などしない。
はあ、と思わずため息が漏れる。今はオミクロン・カルトのことで頭がいっぱいだというのに――ぼくは天井を仰ぎ見る。そこに青空でも広がっていれば少しは気が紛れたのだろうが、天井はただただ平面が続き、太陽の代わりに蛍光灯が輝いている。
しばらく蛍光灯を眺めていると、寿命が尽きたのか、ちかちかと点滅を繰り返し始めた。買い替え時だな、と呟いた瞬間、蛍光灯の一本が落下する。
ぼくの真上、それもあからさまに脳天を狙った軌道だ。
「うおっ!」
ぼくはとっさに蛍光灯をキャッチする。見事な白刃取りが決まったことに感動する暇もなく、先程まで光を放っていた蛍光灯がぼくの手に暴力的な熱を伝える。たまらず床に叩きつけてしまい、砕けた破片が散乱する。ぼくは手の平に残った真っ赤な火傷の線を確認すると、トイレの洗面所へと駆けて行った。
蛇口を目いっぱい捻り、吹き出た水で手を冷やす。襲い来る激痛に歯を食いしばって堪える。遅れて駆けつけた教師やクラスメイトには「大丈夫」と笑って答えるが、あの熱さは尋常ではない。熱したフライパンに手を突っ込んだかのようだった。
これは校舎の老朽化で済む話なのだろうか。はっきりとしたことは言えない。ただ、ぼくは『視て』しまった――蛍光灯が落ちる刹那、天井に張りつくモザイクを一瞬だが目にしていたのだ。
こういう靄がかった何かを、ぼくは知っている。
あれは幽霊だ。今は亡き人間が天井にへばり付き、ぼくに狙いを定めて蛍光灯を落としたのだ。
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「後輩君を狙う幽霊なんているわけないじゃない」
昼時、高等部の先輩を訪ねたぼくは、事の経緯を説明した。立て続けに事故が起きたこと、それも一歩間違えば命に関わるような事件であったこと、そして天井に張りつく幽霊を見たこと。
しかし先輩は、何の根拠があってそう断言するのかは知らないが、あの霊はぼくを狙って蛍光灯を落としたわけではないと言う。売店で購入したたこ焼きパンを頬張りつつ、彼女は話を続ける。
「今まで黙っていたけれど、後輩君って霊が見える割に霊媒体質の素養が皆無なのよ」
「どういうことです?」
ぼくは話を聞きながら、菓子パンの袋を開けようとする。しかし両掌の火傷があり、どうにも上手く掴めない。
「ほら、開けてあげるから貸して。話の続きだけれど、人には霊感というものがあるわ。霊感が強ければ霊は見えるし、触れることさえ出来る。逆に低ければ霊は見えないし、例え霊が望んでも接触は出来ない」
先輩からパンを受け取り、齧りつく。口いっぱいに白餡の甘味が広がっていくのを感じつつ、話の続きを促す。
「この霊感と、先に言った霊媒体質は複雑に絡み合っているわ。例えば、私の『霊視』は特別な状況、つまりは亡くなった母から生まれたことで獲得した、後天的な能力よ。私自身の霊感は人並み。霊感の低い人は霊に憑かれにくい、言い換えれば霊媒体質じゃない。要するに私は、霊を見ることに長けているだけで言うほど憑かれやすい体質じゃないってわけ」
「――この間、汐音さんに憑りつかれたのは?」
「彼女と私が似ていたから。霊感の強弱に関わらず、似た者同士の体には入りやすいそうよ。彼女曰く、魂の質が同じだと体が馴染みやすいんですって。そういう事態を防ぐためにお札を持っていなければいけなかったのだけれど、忘れちゃった」
どこか腑に落ちない気もするが(お札を忘れたというのも今思えば先輩らしくないミスだ)、先輩と汐音さんが似ているという意見には心から同意する。二人のように、人を驚かせて喜ぶ輩はまとめてぼくの天敵だ。
「後輩君もまた、不完全とはいえ霊が見える体質にありながら霊を寄せつけない人間よ。でもそのメカニズムは私とも異なる。あなたは憑かれにくい体質なんてものじゃない、如何なる悪霊の干渉も絶対に許さない能力を持つ、稀代の霊能者になれる器よ。後輩君が望めば――」
「褒めてもらえるのは嬉しいですけれど、霊能者なんて死んでも御免です。大体、先輩はどうしてぼくの体質についてそこまで知っているんですか?」
先輩は言葉に詰まる。その表情はオミクロン・カルトについて知っているかと問われ、知らないと答えた時のそれに酷似している。これ以上詮索するのは無駄かと考え、代わりに校内に巣食う謎の霊について話を進める。
「天井に張りついていた霊は、後輩君を標的に蛍光灯を落としたわけじゃなかった。それはあなたが非憑依体質とでも言うべき耐性を持っているから。好意的な霊――例えば三久保先生や諒君のような幽霊はあなたに干渉することができるけれど、明らかな敵意を持った悪霊はそもそもあなたに近づこうと思わない。だって霊の特権である憑依、呪い、その他の手段が一切通用しないんだもの」
「あの、先輩がよくぼくを連れ回して心霊スポット巡りをするのは、もしかして」
「ええ、いざという時のボディーガード。後輩君は霊の存在に怯えているけれど、霊はあなたのことをもっと怖がっているのよ。知らなかった?」
そういう大事なことはもっと早くに言ってください、と怒鳴るが、それで今までの恐怖が消えるわけではない。怨霊に追い回され、手首に足首、挙げ句の果てには乳首を掴まれ、全身に手形がべっとりと残り、後ろを向いても上を向いても下を向いても真っ青な顔がこちらを見つめ、武士の霊の大群とフルマラソンした思い出は消えない。だが五メートルはある巨大な人影に捕まった時や、四つん這いで高速移動する巫女服の化け物に手を掴まれた時、見つけた、見つけたとしきりに喚く怪物に囲まれた時も、何だかんだ生き残った。それがぼくの体質によるものだった、と――振り返ってみて思ったが、ぼくはどうして今までその事実に気付かなかったのだろう。どう考えてもおかしいはずなのに、己の幸運に何の疑問も抱かなかったのだ。
「ぼくが霊的なものを寄せつけない体質で、件の霊がぼくを狙っているわけではない、ということは分かりました。しかしそうなると、あの霊は一体何を目的として蛍光灯を落としたんでしょうね」
先輩は水筒の緑茶を啜り、
「イタズラにしては少し度が過ぎているし、物体に干渉している時点でかなり力の強い霊であることが伺えるわ。その狙いはおそらく、後輩君以外の誰かだったと考えられる。以上の点を踏まえ、私なりに推測を立ててみるわね」
先輩の仮説はこうだ。
今現在、この山仲学園には亡霊が棲みついている。その霊はある『ターゲット』を狙って奇々怪々な事故を引き起こした。バスケットゴールの転落に始まり、窓ガラス、蛍光灯の落下。被害者は皆何らかの手傷を負ったが、いずれも亡霊のターゲットには含まれていない。被害者に共通点はなく、最初に起きたバスケットゴールの事故では他のクラスの生徒も巻き込まれていた。だからクラスそのものに恨みを持つ者の仕業とは考えにくい。
愉快犯、という線もなくはないが、そんな悪意の塊とも言える悪霊が校内にいれば先輩が気付かないわけがない。先輩の『霊視』は霊に限らず、その霊が纏う雰囲気、あるいは感情をも読み取る。オーラと言えば格好良いが、大抵の悪霊はそういうものをあちらこちらに振りまいているらしい。時たま生きた人間が同種の気を発しているらしいが、そういう人間には近づかない方が良い、と先輩は言う。
それは最早生ける悪霊よ。ぼくの瞳をひたと見据え、先輩はそう呟いた。
悪霊云々はさておき、要はこの学校にはまだ悪霊と呼べるほど質の悪い霊はおらず、言うなれば『悪霊のなり損ない』が潜伏している可能性が高いそうだ。その霊がターゲットを仕留めるまで、事故の連鎖は止まらない。
「しかし、何だってその霊はターゲットを直接狙わないんでしょうね」
「狙わない、ではなく狙えないのかも。ほら、糸原ちゃんのお兄さんを救う時、小屋にお札を持って侵入したでしょう?」
「いいえ、アホな先輩が忘れていました」
「――とにかく、ターゲットが除霊や退魔の効果を発するお札、その他の仏具を持っていれば、霊はターゲットを狙うことが出来なくなるわ。後輩君や半蔵君が襲われたのは、単なるとばっちりという線もありえるわね」
とばっちりでガラスや蛍光灯を頭に落とされてはたまったものではない。
「でも先輩、退魔のお札なんてそう簡単に手に入るようなものではないでしょう。先輩のようなもの好き、失礼、心霊現象に秀でた人間でもない限り、そもそもお札の存在を知っているかも怪しいところです」
「『そこ』よね、問題は」
からかいはさらりと流され、先輩は腕を組んで後方に仰け反り、うんうん唸る。彼女に意見を乞うてはみたものの、どうやらはっきりとした答えは得られそうにない。数分の沈黙の後、実際に霊と接触してみる以外に道はない、という結論に至った先輩は、残り少ない昼休みの時間を中等部で費やし、校舎を見て回った。ところが霊の姿は見当たらず、結局午後の授業開始時間が迫り、先輩は高等部の校舎へと戻っていった。
天井にへばり付いたモザイク、それはぼくの見間違いだったのだろうか。いや、確かにあれは霊だった。ぼくには幽霊のシルエットを完璧に捉える高性能な『目』はないけれど、先輩との心霊スポット巡りで培った直感がある。霊と対峙した時の感覚、ぴんと張り詰めた独特の空気を、第六感のようなもので感じ取ることは可能だ。
確かにあの時、蛍光灯が落下する刹那、ぼくは霊の存在を感じ取った。ただ、それは糸原先輩のような悪霊を前にした時とは違う――そう、三久保先生が寄ってきた時の感覚に似ている。言わずもがな、三久保先生は悪霊などではない。
学校の設備を使い、ある人物を追いつめようとする霊の正体。それは悪霊でも、悪霊になりかけているわけでもない、もっと別の『何か』なのかもしれない。
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