神の到来を待ち望み、私達は霊と踊る。インディアンもびっくりのゴーストダンスは、ウンデット・ニーの虐殺と同じ末路を辿るのだろうか。
「幽霊に一杯食わされたってわけね」
最初から糸原の掌の上とは、間抜けもここに極まれり、だ。肝心の状況そのものは何も変わっていないのが唯一の救いだろうか。相手が依頼人であろうとなかろうと、私のやるべきことは変わらない。
「お兄さんを解放しなさい、糸原ちゃん。このままだと本当に神になってしまうわ」
糸原はキヒヒと声を上げて笑う。
「それが私の狙いなのに、止めたら何の意味もない。私の大好きなお兄ちゃんは誰にも汚させない、触らせない。私が守る、私だけのお兄ちゃん。親なんて要らない、恋人なんて要らない。お兄ちゃんには私以外――いや、
糸原の体が不気味に歪む。彼女の家で襲ってきたウミウシの悪霊とは異なる姿。それはいくつもの方向に枝分かれした細い影を思わせる。しかし大きさは私達を軽く凌ぎ、この空間を丸ごと覆ってしまうほどに巨大であった。
もうどこに顔があるのか分からないが、糸原だった悪霊は不敵に笑い続ける。
「こんな姿になった私なんて必要ない。お兄ちゃんはもうすぐ神になるための準備に入る。そうすればもう誰にも、あのゴキブリにも、神様にだって止められない。そう、誰も要らない、必要ない。ゴーストヘルパーも邪魔、邪魔邪魔邪魔。これから先、お兄ちゃんの邪魔をするかもしれない、しれない、かもしれない。だったらここで、私の手で」
後輩君、と叫ぶが彼は気付かない。無理矢理彼の手を引いて逃げ出そうとするが、梯子の前に出現した黒い影が行く手を阻む。
「私がいる限り、生者の言葉は通じない。文法は焼失し、意味のない文字列に変換される。これであなた達の意思疎通は封じた。何の相談も助言も出来ない。まずはこの子から!」
影は鋭く、より鋭角になるよう形を変え、佐久真の喉元に飛び掛かる。彼を突き飛ばそうとするが、影の方が早い。
糸原の嘲笑、私の絶叫。世界の進行がスローモーションに感じられる。もったいぶるように視線を影に向けた佐久真は、その先端を見つめている。避けようとはしない。じわじわと迫りくる漆黒の針から目を背け、彼はため息をついた。その表情はこちらから視認できない。
走馬灯の如くゆるゆると動く世界の中で、佐久真は言った。
「低級霊が『我』に盾突くか」
影が動きを止める。それは私の持っていたお札の効果が今更になって発揮されたという、都合の良い理由ではない。佐久真の周囲に漂う異質の流動に、気圧されているのだ。
佐久真の瞳は限界まで見開かれ、真っ赤な血管が瞳孔をも覆い尽くしている。生きた人間とも、糸原のような悪霊とも異なる瘴気を発し、佐久真は影の一端を掴み、捩り上げた。糸原の悲痛な叫びがアスファルトの空間に木霊する、しかし佐久真は更に力を込めて捻り、遂に影を引き千切ってしまった。
「何で、何で!」
巨大化していた影は梯子に向けて収縮し、抜け殻の体へ戻ろうとする。佐久真は影よりも先に糸原の死体へと駆け寄り、その腹部に拳を撃ち込んだ。一切の情け容赦なく、渾身の力を込めて二度、三度と殴りつける。
体に入ったことが仇となり、糸原は黒ずんだ血を吐き出す己の体を茫然と眺め、そして休む暇もなく殴られ続ける。今度は体から抜け出ようと、口から黒い影の塊が飛び出す。しかし影の進行方向には佐久真の顔、そして彼の皮膚表面を漂う靄のようなものが待ち受けている。
靄に触れた影は、跡形もなく消えた。かつて友達だった悪霊の悲痛の叫びを残し、糸原 友花は完全に消滅したのだ。
「嵐」
佐久真は糸原の死体を背に、身を翻す。『名前』を呼ばれ、目前の少年は私をねめつける。今度はお前の番だ、そう言わんばかりの激情を湛えた目を見つめ返し、
「もういいわ、悪霊は消えた。これ以上『あなた』が出てくる必要はない」
佐久真は不満げに鼻を鳴らし、床に突っ伏した。気絶したのだろう、その顔は弛緩し、眠る赤子にも似た安らかな表情を浮かべている。先程の面影はどこにもない――悪霊を退けた時の気配は完全に霧散していた。
糸原の亡骸と寝転ぶ佐久真を交互に見やり、次いで今回の救出目的である糸原 光希に目を向ける。一連の騒ぎには見向きもせず、ひたすらに黙祷を続けていた彼だったが、既にその体勢は崩れ、足を前方に伸ばし、両手はかろうじて合掌の形を保っているが、だらりと床に垂れ下がっていた。
枝峰から授かった呪符は、ここにきて本来の目的を発揮したのだ。悪霊から私達を護ってくれなかったくせに、随分と調子の良いお札だ。そう思いながら光希を観察していると、彼の瞼がゆったりと持ち上がり、私を見た。ひび割れた皮膚と骨だけしか残っていないにも関わらず、青年らしい爽やかな声が飛び出す。
「ここは」
彼の目が妹の遺体を捉えた。口から黒く変色した血を垂らし、力なく壁にもたれる友花の姿を見た途端、全てを悟ったように頷く。
「幻だった、のか。友花と、
汐音。おそらくは糸原が手にかけたという女性の名前だろう。光希の彼女か、あるいは単なる友人か。ともかく、彼は二人がより良い関係になることを願っていたのだろう。
「あなたはそれを現実に出来る力を手に入れようとしていた。糸原ちゃんがそうさせた。あなたに対する愛しさ故に、あなたを神にしようとしたの」
光希は俯き、そして肩を震わせて笑い始めた。くっ、くっ、とか細い笑い声がぼろぼろの歯の隙間から漏れ、空間に融けていく。
「友花に、妙な札の臭いを嗅がされた時から、分かっていた。神に、そんな力はない。俺は神ではない、別の何かに、なりかけていた。天国でも、地獄でもない、所に縛られるだけの概念――ああ、分かった」
悪霊だ、と言った彼の顔は、既に死人のそれであった。
霊が自分の体に憑依する。それは糸原がやってみせたばかりの芸当だ。先に妹が実行し、次に兄を同じ状態に作り変えた。糸原は彼のことを神だと表現した。そこに矛盾はない。枝峰が言った通り、神もまた人であり、亡霊に過ぎないのだ。
「ありがとう、君のおかげで、俺は俺のままでいられる。俺らしく、俺として死ねる」
「お礼を言われる筋合いはないわ。私は誰も助けられなかった。あなたも、糸原ちゃんも、誰も」
こんなはずではなかった。私は糸原の依頼を受け、悪霊と化した汐音という女性を成仏させ、光希を救出する。そういう手筈だった。だが実際は糸原の思惑に動かされ、汐音を野放しにしたまま、光希も今この世界から旅立とうとしている。枝峰の力を借り、佐久真に救われ、それでも成果は得られないまま、事件は終わりを迎えようとしている。
悔しさに涙が込み上げてくる。何がゴーストヘルパーだ、何が先輩だ。そう自らを叱咤し、己の無力さを噛みしめる。
「生きるだけが救いじゃない」
潤んだ瞳に映る光希は、彼がなろうとした存在――神のように映った。後光を受け、弱り切った体をしゃんと伸ばし、最後の力を振り絞って彼は言う。
「神に近づく内に、分かったことがある。命が喪われることは、寂しいこと。だが、悪いことじゃない。今、俺と友花、それに汐音が生き返ったところで、待っているのは、悲劇の再現だ。死は人間一人、一人の物語に終止符を打って、くれる」
光希の体が震え、頬の皮がずるりと剥ける。頬骨が露出し、血管が急速に腐り落ちていく。顔だけではない、全身に同じ症状が表れ、残りわずかな肉と骨だけがかろうじて人のシルエットを保っている。ひどく不気味な姿に成り果ててなお、彼の威光は失われていない。
「俺達の悲しい物語は、ここで終わらせる。そうすることが俺達にとっての救いになる――だから、どうか泣かないでくれ。こういう形でしか終われない俺達のような存在を、これからも、救ってあげてくれ。頼んだぞ、ゴーストヘルパー」
からん、と音を立てて床に崩れたのは、神になりかけた一人の男の頭蓋骨だった。肉はすっかり腐り落ち、骨だけが山を築いている。彼の背後から差していた光も、先程まで点いていたはずの電灯も、その全てが幻となって消えていた。初めから光などなかったとばかりに、周囲は闇に飲まれている。
ただ、床に転がるハンディライトの灯りだけが、光希の遺骨を照らしていた。
⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯
「結局ぼくは何の役にも立てないまま、情けなく倒れていたわけですね」
事件の始終を語り終えると、嵐は不快感露わにそう言った。不貞腐れているのは火を見るよりも明らかだ。糸原 友花という悪霊を消滅させ、私を救ったのは他ならぬ嵐その人なのだが、彼は地下に入った時の記憶が曖昧で、ゲロを吐いたところまでしか覚えていなかった。そんな自分に嫌気が差したのだろう。
私達は並んで歩道を往く。凱旋とは程遠い負け戦の帰り道、二人の足取りはどこかぎこちない。糸原兄妹の遺体はそのまま小屋に置いてきたが、近隣の公衆電話から警察には連絡を入れておいた。警察は地下から彼らを発見し、きちんと弔ってくれることだろう。
「先輩、そういえば糸原先輩に憑りついていた悪霊はどこに行ったんでしょう?糸原先輩が、その、殺めたっていう――」
「
「イタズラは困ります」
「嵐は本当に怖がりさんね」
そう言って笑うと、嵐は突如歩みを止める。スーパーマーケットの前だったこともあり、何か買いたいものでもあるのかと尋ねる。しかし彼は眉間に皺を寄せたまま、首を横に振る。
「先輩」
どうしたの、とにこやかに嗤って答えるが、彼の表情は曇ったままだ。ひょっとすると、トイレに行きたいけれど言い出せないのかもしれない。幽霊だ、悪霊だとこの世のものではない存在を目の当たりにすれば、当然警戒心も強くなる。一人でトイレに行きづらいのだ、そうに違いない。
「もう、漏らしそうなら早く言えばいいのに。そこの店――ええと、ミヤハラマートだったかしら。そこにトイレがあるから、早くいってらっしゃい。扉の前までなら付き合ってあげるから」
彼の心意を理解し、配慮したつもりなのだが、彼はその場から動こうとしない。顔が引きつり、青みを増していく。血の気が引いていくとはまさにこのこと、まさか背後に何かいるのかと振り返ってみるが、子連れの男性が歩いていくのが見えただけだ。別に恐怖するようなものは何もない。
だが、どういうわけか嵐は怯えている。
先輩、と震える声で呼びかける嵐。一体どうしたの、と心配する私をよそに、畏怖の籠った彼の視線はひたと私に向けられる。彼は肩を抱き、体の震えを懸命に抑えながら、声を絞り出した。
「どうして後輩君って呼ばないんですか?」
――あれ?君、『嵐』って呼ばれてなかった?
⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯『先輩と後輩君』了