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第三話『先輩と後輩君・その3』

 三十猛寺みそたけでらは、学校からミヤハラマートとは正反対の方向へ進んだ場所にある。異様に短い石の階段を上り、閑散とした雰囲気を醸すその寺に踏み込んだ私はそのまま僧房へと進む。宗教に対する関心が薄れた現代にあっては、お坊さんの数も以前より少なくなった。この三十猛寺にしても、常駐している坊主は一人しかいない。


「懐かしい香りがする」


 僧房はすぐ目の前というところで、砂利を踏み分けこちらに進む人影があった。坊主頭に似合わないスーツと赤いストライプのネクタイ、それに眼鏡を身につけ、枝峰えみね 雪定ゆきさだは私に歩み寄る。


「住職になる以前のこと、私も含め先代の弟子達はよくこの激臭を嗅いで務めに励んでいた。僧侶の間にも流行り廃りはある。それは若者の薬物乱用と何ら変わりない、あるいはそれ以上の劇薬であったよ」

「仏の技を薬物扱いだなんて、住職が聞いて呆れるわ」


 枝峰は不敵な微笑みを浮かべたまま、私を和室に案内する。ふかふかの座布団に腰を下ろし、長机を挟んで向かい合う。机上に並ぶお茶と菓子は、私の来訪を予期してのことだろうか。茶は既に湯気を発するのを止め、すっかり冷めてしまっていた。


「予想よりだいぶ遅かった」

「迷子の子供に捕まっていてね。早速で悪いんだけれど、このお札を見てちょうだい」


 バッグの中から取り出したお札をクリアファイルに挟んだまま枝峰に渡す。彼は文字が綴られた表面を一瞥し、裏返して何も書かれていないことを確認する。鼻を近づけてくん、くんと臭いを確かめ、そっと机の上に置いた。


「人神に変わる道は長く、そして入り組んでいる。怒りを鎮めるべく神として崇め奉られた者もいれば、生前の活躍をもって神に指定された者もいる。古来より、人は神の登場を望んだ。目に見えない、手の届かない、余計なことを言わない聞かない、都合の良い信仰対象は妄想の域を脱し、人の手によって姿を得て、言葉を介して耳を得た。それが人神の誕生だ。古きは邪馬台国の女王より、現代は薬品をばら撒いて人を殺す狂人が神の称号を得た。神になる手段というのは、それこそ信仰の数だけ異なる。機械仕掛けの神とて誰かが生み出した人工物に過ぎず、こう言ってよければ製造過程がある。この呪符は神に至る一歩――己が心を清め、瞑想に取り組むための潤滑油だ」


 小難しい物言いを要約するならば、元々このお札は瞑想やお勤めを乗り切るための眠気覚まし、飲まない栄養ドリンクとして使用されていたのだ。目はぱっちりと覚め、頭の中のもやもやが晴れ、ランナーズハイに似た高揚感を与えてくれる。


 僧侶の嗜みが時代の移り変わりと共に世に流れ、時たまこのような形で巡り合う。男にしか効かない理由はそこにあったのだ。


「もしこのお札があと百枚あったとして、誰かがお札に囲まれて生活した場合、どうなるの?」


 枝峰は顎を指で撫でつつ、思案する。そしておもむろに目を瞑り、


「天国に昇る興奮が持続し、それでいて脳はより冴えわたるだろう。幸福に満たされている人間は、次に他者の幸福に目を向けるようになる。他人を慈しむ心は永久に保たれ、人の域を超えた頭脳は民衆を安寧に導く答えを弾き出そうとする。壬生坂女史、私達はそのような存在を何と呼ぶ?」


 答えはすぐに出た。しかしそれでは、糸原の家に悪霊がいた事実の説明がつかない。頭の中で渦巻く怒声――。あれでは、人間を神に変えるための舞台を悪霊が守っていたことになる。ちぐはぐだ。


 糸原の兄は神になろうとしたのか、それとも仕立て上げられたのか。あの悪霊は糸原の兄にとってどういう存在なのだろう。敵?味方?分からない。謎は深みを増していく。


「菅原道真、知っているだろう。あれも言ってしまえば悪霊の類だ。神様扱いされて彼の怒りは静まったとされているが、それは神と悪霊を同一視しているとも取れる。神も所詮は亡霊に過ぎない」

「坊主がとんでもないことを言っているわ」

「坊主も人だ。腹は空くし眠くもなる。愚かなハゲ坊主が吐く悪口の一つや二つ、大目に見てくれるだろう。神様は信者には寛大と相場が決まっている」

「他者の恩情につけ込む悪い人間は地獄に堕ちるわよ」

「それは良い。蜘蛛の糸を伝って天国に到達できるのだから」


 枝峰は菓子の袋を開け、砂糖のたっぷりかかった豆を指で摘まむ。口に含む直前、突如手が止まる。


「あと三日」


 何が、と尋ねる私を無視し、彼は豆を食べる。一粒ずつちびちびと豆を食する枝峰は結局、一袋食べ終わるまで答えてくれなかった。


「北だ。神になりかけている者が、そこにいる」


 砂糖で汚れた指を舐め、茶を啜ってようやく彼は口を開いた。


「なりかけている?」

「呪符の力だけでは神に至らない。外界との接触を経ち、一切の飲食を禁じること数十年、肉は縮むが皮は張り、空腹と喉の渇きは黙祷によって満たされる。その道程は木乃伊の如く、先に待つは神の座――今はその準備に手間取っているようだ。三日とは、その者が神に至るための手順が整うまでの期限。それを過ぎれば私にも手が出せない。数十年の瞑想の後、ここより天国は現出し、世界は人神によって導かれるだろう」

「神になった人間が人を導くなんて、随分と壮大な話ね」

「故に止めねばならんよ。先にも言ったように、神の皮を剥げばそこには人がいる。完璧な思考と慈愛を持った人間とて、個性を消すことは不可能。一個人の好きなように世界は作り変えられる。その果てに待つのは善がり狂った辺獄だ」


 神も人、とはとてもお坊さんの言葉に思えないが、枝峰はそういう人間だ。


 信心なんてこれっぽっちもないくせに仏を崇め、幽霊の存在を否定するくせに降霊術、口寄せといった業に精通している。だからこそ私は彼の許を訪れ、しかし問題を彼に丸投げしようとはしない。糸原の一件は私が望んで首を突っ込んだことだ、遂行する責任は私にこそある。


「丸腰で行くわけにもいかないし、とりあえず霊符をいただけるかしら」


 枝峰は既にお札を用意していた。自身の座布団の下に手を突っ込み、そこから物々しい雰囲気漂うお札を三枚取り出すと、私の目の前に広げて見せる。


「鎮亡者、解精邪厄、還呪詛。とりあえず三枚だ。以前渡した札とは違い、効果は持っているだけで持続する。居場所さえ突き止めてしまえば、後はどうとでもなる」

「ありがとう、これはほんのお礼だけれど」


 私が差し出した小箱に対し、枝峰は首を横に振る。受け取るつもりはない、という意思表示だろうか。


「信心はとうに捨てたが、矜持は大切にしている。これは本来、『こちら側』の人間の仕事だ。金を受け取る道理はない」

「そう、残念ね。おすすめのチョコチップクッキーなのに」


 言うが早いか、枝峰の手ががっちりと小箱を、菓子の外装を掴む。互いにクッキーの箱を握って引っ張り合うという奇妙な状態に至るが、最終的に力ずくでひったくられてしまった。


「受け取る道理はない、って言ったばかりじゃない。この糖尿坊主!」

「美味しいから大丈夫だ」


 枝峰は取り合いで歪んだお菓子の外装を指で押し整え、膝の上に置く。机上の湯飲みに目をやり、湯気の上らない緑茶を眺める。物思いに耽る虚ろな瞳は、己の思考を私に読み取らせまいとしている。


 何を考えているのかよく分からない、甘いものが好きなスーツ姿のお坊さん。変人と言えばそれまでだが、少なくとも、心霊現象に関しては彼の方が一枚も二枚も上手だ。ゴーストヘルパーとてまだまだ若輩者、徳を積んだその道のスペシャリストには及ばない。


「今日はこの辺でお暇させてもらうわ。三日以内に人を探さないといけないから、ね」


 私は立ち上がり、枝峰を見下ろす。彼は茶の表面に起こる波紋に目を向けたまま、


「神様探しは任せるが、深入りは禁物だ。ここより先は私が――」


 私は彼の言葉を遮り、笑う。


「私もあなたと同じ、ゴーストヘルパーとしての矜持がある。私に出来ることは、私の手で片をつけるわ――との約束だもの」


⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯


 糸原の兄、糸原 光希みつきの捜索は難航を極めた。それもそのはず、警察が以前より捜査活動を進めていたにも関わらず一切の手がかりを掴めなかったのだ。素人の私一人で進展するような事件ではなかった。


 しかし私には私なりの情報網がある。霊を視認し、対話を可能とするこの力は通常の人間には不可能なネットワークの構築を可能としていた。死してなお教師であろうとする三久保に始まり、好意的な霊は少なくない。彼らは壁をすり抜け、宙に浮き、心を読み取る。そうした特異な能力は大抵いたずらや復讐に使われてしまうのだが、有効に活用すれば捜査の役に立つ。


 事実、光希は見つかった。


 知り合いの霊を総動員した捜査が続くこと、三日。以前三久保が口にしていた『予感』を他の霊達も感じており、それはある場所に近ければ近いほど強くなっていた。三十猛寺より北に七キロメートルほど進むと、人気のない土地にぽつんと建つ小屋がある。目と鼻の先には山が聳え立ち、そこもまた霊山として有名なスポットだ。人が住まなくなって十年、小屋にいた最後の住人は近隣の墓地に眠っていた。長い間無人となった小屋は建てつけが悪くなり、最早人の住める環境ではなくなっていた。


「箪笥の前で床を踏み締めると、ぎしぎしと一際音を立てる板がある。それをひっくり返せば地下壕へ続く通路が現れるはずだ」


 小屋の持ち主であった佐嶋さじま 棟吉むねきちは自身の墓に背中を預け、そう言った。かつて塹壕として使用された場所に小屋を建て、収納スペースとして活用していたのだとか。そこには年代物のワインや焼酎など、秘蔵の酒を隠していたはずだが、何者かによって残らず掘り出され、中身は庭にぶちまけてあったと彼は憤る。


「俺はもう死んじまっているから飲めねえ。どの道忘れ去られる運命にあった俺の宝だが、代わりに誰かが楽しく飲んでくれるってんなら、何も言うつもりはなかった。だが、俺の酒は残らず全部地面が吸っていやがった。割れた瓶の破片が小屋の近くに散らばっているのを見た時、俺がどんな気持ちになったか、お前に分かるか?見る度に俺をわくわくさせたラベルが、泥で汚れちまっていた。云千万とする名酒がその泥になったんだ――お前さんがどんな目的であの小屋に行くのかは知らねえが、出来ればそこに居座っている野郎を懲らしめてほしい。でもなければ、俺は成仏できねえよ」

「小屋の中に誰がいるか、確認しなかったの?」

「出来るなら最初からそうしてらあ。だが、どういうわけか近づけねえ。あの小屋に近づくと、何故か体が震えちまう。怖くもあり、同時にぞっとするほど安らかな気持ちになる。仏様と閻魔様が一緒に目の前に現れたような、そんな悍ましさだ。あの中に入れば、間違いなく俺は俺じゃなくなる。そう言い切れるほどに恐ろしい」


 佐嶋の体がぶるりと震える。霊をここまで怯えさせる存在とは、やはり神なのだろうか。それとも、糸原に憑りついたあの悪霊か。あるいは――そのどちらとも異なる何か、か。


 佐嶋の墓を離れ、私は駆け足で例の小屋に向かう。小屋の前に着くと、入り口の前で待機していた先客を見止める。『彼』もこちらの到着に気づいたようで、今にも泣き出しそうな顔で言う。


「先輩、今回ばかりは危険すぎますって。警察に連絡して、後は彼らに任せましょう」

「こんな辺鄙な土地のぼろ小屋で、糸原ちゃんのお兄さんが神様になろうとしている、なんて訴えたところで警察が取り合ってくれるわけがない。それに警官が束になってかかっても勝てない悪霊だっている。糸原ちゃんの家にいたあの悪霊は、おそらくここにいる。そのためのお札も持ってきているから大丈夫よ」


 佐久真は信用ならないとばかりに首を振る。お札の影響で錯乱、もとい冷静になり過ぎていた彼を引きずり出すのは、私としても不本意ではあった。しかし、いざという時には彼の助けが必要になる。恨まれるのは覚悟の上だ。


「ぼくが死んだら一生先輩を呪い続けますからね。今までの行いを反省するまで、先輩に憑りついてやりますから」

「あら、それってプロポーズ?」


 そんなわけないでしょう、と声を荒げる佐久真。顔は茹蛸のように真っ赤で、目は瞼の下で景気よく泳いでいる。これくらい挙動不審で可愛げのあった方が、やはり後輩君らしい。彼に神様の座なんて似合わない。


 もっとも、今回はこちらも呪符を用意しているため、佐久真が私の許を離れない限り彼もその加護を享けられる。お札の臭いを嗅いでおかしくなるような事態には決してならない、と事前に説明したのだが、私はよほど信用されていないのか、佐久真の鼻には鼻栓が取りつけてある。それも百円均一ショップで売っている安っぽいものではなく、有名なメーカーが手掛けたモデルだという。


「準備は万全、気合いは満タン。目的は糸原のお兄さんの救出、その後は臨機応変に対処しましょう」

「要するに、いつも通りですね」


 私が先陣を切り、佐久真がぴったりと後ろに張りつく。小屋の扉を目前に、深呼吸をする。後方の佐久真に視線を向け、きゅっときつく結ばれた彼の口元を見て、力が抜ける。そう、緊張するのは後輩君の役目。先輩は彼をからかい、堂々と問題を解決するゴーストヘルパーだ。


 扉の取っ手を捻り、私達は神の待つ祭壇へと足を踏み入れた。


⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯


 黒ずんだ壁、それに腐った床を照らす囲炉裏の炎。ゆらゆらと揺れ動く火は鉄瓶を温め、ちりちりと心地よい音を奏でる。部屋の隅に置かれた箪笥を見やると、その前にぽっかりと空いた穴がある。床板は無造作に捨てられ、一匹の白アリが蠢いている。人の気配は感じられないが、ここに誰かがいるのはまず間違いない。


 先輩、と佐久真が呼ぶ。振り向くと、彼の真っ青な顔が見えた。囲炉裏の火が顔の陰影をより鮮明に浮かび上がらせている。幽霊さながらの表情で、彼は私の手を握る。


「最大限は豆腐と同じ糠味噌に埋めておけば帰れませんよね?」


 佐久真は意味の分からないことを呟く。同意を求めるように、私の手を更に強く握る。怯えているのは分かるが、そこまで追い詰められてしまったのだろうか。


「後輩君、落ち着いて。深呼吸しましょう、ね?」


 今度は佐久真の方が怪訝な表情を浮かべる。今しがた私がそうであったように、こいつは一体何を言っているんだと混乱している。


「先輩、別にぼくはプラスチック段ボールを練りたいわけでは――もちろん、可能であれば今すぐにでも三本の綿棒と踊りたいですけど、先輩は面談会で走るんですよね?だったら判子を砕いて菜箸に流すわけにはいきません」


 佐久真は至極真面目に、普段の彼と変わらない様子で支離滅裂な言葉を発する。いつ私が面談会で走る手筈になったのか、そもそも面談会とは何なのか、皆目見当もつかない。どうやって綿棒と踊るのか、逆に聞いてみたいくらいだ。


「後輩君、今から私が言う言葉を復唱しなさい」

「ええ、こんな時に映画館でオシロスコープに乗ります」

「あいうえお」

「何です?」

「かきくけこ」

「――たちつてと?」

「駄目みたいね」


 会話を諦め、私は箪笥前の穴へと近づく。中は暗闇、灯りのない黒一色の世界が続いている。右手を突き入れ、穴の中を探る。土の感触、そしてひんやりと冷たい鉄の棒。指を滑らせていく内に、それが地下に続く梯子であると分かった。


 佐久真に視線を送り、私が先に行くと伝える。彼は唾をごくりと飲み込み、穴の奥へと進んでいく私を見送る。一歩、また一歩と慎重に梯子を下り、遂には全身が穴の中に納まってしまった。自身のカン、カンと梯子を下りる音に、佐久真の足音が重なる。


 穴に侵入して三分は経っただろうか、梯子はようやく終わりを見せた。足裏全体に伝わる感触は、土のそれとは異なる。梯子から少し離れ、持参したハンディライトを点ける。


「これは――」


 佐久真も追いつき、隣に並んで目を丸くする。わたしだってそうだ、目の前に広がる異様な光景に目を奪われていた。


 しめ縄、カズラ、神酒、燭台、鈴。それらしい道具が広い空間を装飾し、儀式の場に相応しい雰囲気を醸している。梯子を下りた先に待ち構えていた空間、そこは今まさしく神が生まれようとしている場であった。


「ようこそ」


 ぞくり、と首筋に走る悪寒。低く、微弱で、しかし耳元で囁いているかのような明瞭さを携え、目前の女性は呟いた。どこから現れたのか問い質すより先に、電灯の光が真っ黒な空間を暴き出す。


 アスファルトの壁と床、それに目前の怪しげなセット。私達の侵入を阻むかの如く佇む女性――そして、半透明の彼女の体から透けて見える、座禅を組んだまま動かない男性。彼を中心に仏具は配置され、彼自身はそこで手を合わせたまま動こうとしない。


 潤いが失われ、干乾びた腕には肉も残っていない。服ははだけ、細身の体にサイズがまるで合っていない。痩せこけた顔は目を閉じたまま、ひたすら瞑想に耽っている。


「糸原 光希、ね」


 佐久真が嘔吐く。ミイラ同然の姿に成り果てた糸原のお兄さんを見て、言いようのない嫌悪感が込み上げてきたのだろう。気持ちは分からないでもないが、今の私にとって、彼の様態よりも目の前の女性の方が遥かに重要であった。


 女性は制服を身に纏い、心底嬉しそうな笑顔を光希に捧げる。


「言葉を失った私達は、心で繋がることにした」


 女性は光希の許に近づく。歩くのではなく、水平に移動して彼に寄り添う。ほとんど映っていない透明な足は歩行の役に立たないということか。悪霊であるはずの彼女が、神様になりかけている光希の体を抱き締めているという異常。


「愛する人を護るため、私は彼に集る羽虫を潰した。私達は愛し合っていたけれど、そこに割って入ろうとする邪魔者がいた。私はそれを、始末した」

「どうやって」


 女性は、否、悪霊は語る。


「包丁をお腹に深く、深く突き刺した。すると彼女は血を吐いて倒れた。助けて、助けてって泣きわめくものだから、次は喉を裂いた。肉の中に混じったこりっとした感触と、血が噴き出す音は今でも鮮明に思い出せる。それから目を潰して、ついでの顔面をズタズタに切り裂いた。鼻は真っ二つに、唇には切れ込みを入れるように何度も刃を通して、頬は抉って喉の奥に突っ込んだ」


 背後から液体の滴る音が聞こえる。それも純粋な水音ではなく、粘ついた流動体が零れる音。そして佐久真の嗚咽。背中を擦ってあげたいところだが、今この女性から目を離すわけにはいかない。


「でもそれは失敗だった。私はやりすぎた。あの羽虫はしつこくこの世界に留まり、私を悩ませた。朝も昼も、そして夜も、虫らしくぶんぶんと周囲をうろついて恨み言を吐き続けた」


 女性は己の体を見つめる。身につけている制服もまた、体と同じく透けている。服とてあくまで霊体、一時のイメージが作り出した産物に過ぎない。


「結果的に、私は死んだ。魂は霊体となって現世に残ったけれど、体の方はぴたりと心臓が止まっていた。心不全ってことになったけれど、そうじゃない。呪い殺されたんだ」


 女性は光希の膝に頭を載せ、猫なで声で甘える。彼が瞑想から目覚める気配はない。


「私には分かっていた。次の標的は互いに愛した人、全ての発端。私も女だから分かる、女はあっけなく男を殺せる。そういう風に作られている。でも、私は何としても彼を護らなければならなかった。悪霊の手が届かない場所に、私にも近づけない安全地帯へ彼を送り出す必要があった。さもなくば、たちまち私の愛する人は殺されていただろうから」


 私は黙って彼女の言葉に耳を傾ける。聞きたいことは山ほどあったが、今は彼女の語るに任せることにした。


「私は、死人の分際でちょこまかと這い回る悪霊にとどめを刺すことにした。もし神に変わる儀式が失敗しても、彼を守護できるよう動かなければならなかった。幸いにも、私には二つの幸運が舞い込んできた。一つは私の体がまだ腐っていなかったこと。自分の体に憑りつく、というのもおかしな話だけれど、これは上手くいった。もう一つは、霊を相手に出来るゴーストヘルパーが私の身近にいたこと」


 女性は寝ころんだまま、私を指差す。


「火葬場から抜け出した私は何食わぬ顔で学校に通い、まだ生きていると思わせた上であなたに悪霊退治を依頼した。儀式の邪魔をされる恐れはあったけれど、その前に必ずあの悪霊が姿を現すとも思った。事実、私の体を一時的に乗っ取って害虫はあなたに挑みかかった。そこで消滅させてくれればよかったのに、あなたはそうしなかった。結局、害虫は潰し損ねたままここまで来てしまった、と」


 女性はゆっくりと腰を上げ、こちらに歩み寄る。鼻と鼻がくっつく距離まで肉薄したかと思えば、そっと背後の佐久真を押し退け、更に後ろの梯子へ手を伸ばす。


 思い切り梯子を引っ張ると、アスファルト同士が擦れ合う不快な音が響き、その奥に眠る一人の人物が電灯に照らされる。それは今梯子に手をかけた女性と同じ顔、同じ服装――。


 糸原 友花、その人であった。


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