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第二話『先輩と後輩君・その2』

 午後の授業もあっという間に終わり、佐久真と約束した通り、私は自分の教室に待機していた。中等部の校舎と高等部の校舎は隣り合っていて、移動に五分もかからない場所にあるはずだが、ひとりぼっちでぼうっと外の景色を眺めること二十分、佐久真はまだ現れない。


 怖がって帰宅してしまったのだろうか。私がそうさせた張本人である以上、彼を咎める権利はない。だが、佐久真はその辺り律儀というか、無断で約束を反故にするような子ではないはずだ。


 気になって教室を出ようとしたその時、汗だくで扉を開ける人物とぶつかった。勢い余って私が倒れる形となり、その上に息も絶え絶えといった有り様の佐久真が覆いかぶさる。


「あら、後輩君かと思ったら狼さんだったわ」

「襲いませんよ。それに膝で正面をしっかりガードしているじゃないですか」

「そういえば子供の頃、お父さんにこうして『ぎっこんばったん』してあやしてもらっていたのを思い出したわ」


 佐久真の胸に足を密着させ、成長期といえどもまだまだ軽い彼の体を少し持ち上げ、すぐに下ろす。それをさながらシーソーのように繰り返し、恥ずかしさのあまり赤面する佐久真を見つめる。


「どうしてこんな目に」

「それで、どうして遅れたのかしら?」


 私の膝に揺られながら、佐久真は語る。


 保健体育の授業の一環として、体育館でバスケットボールに勤しんでいた佐久真だったが、授業の終わり間近という時に吊下式のゴールが突如壁から外れたそうだ。そして不幸にもゴールのすぐ近くでボールを取り合っていた生徒らが巻き込まれた。佐久真は怪我人を保健室に運び、治療の手伝いをしていたのだ。


「それは災難だったわね。後輩君は大丈夫?怪我はない?」

「ぼくは心が痛いです。いつ幽霊が襲ってくるかと気が気じゃなくて」

「ごめん、あれ嘘」


 佐久真は私の『ぎっこんばったん』から抜け出し、むすっとした表情で私をねめつける。起き上がった私の手を引っ張り、早く行きますよ、と拗ねながらも糸原の家を目指す。


「アポは取ってある。糸原ちゃんの家はミヤハラマートを過ぎてすぐ左手に曲がったところにあるそうよ」

「近くですね。歩いて十五分かからないかも」

「せっかくだからミヤハラマートに寄りましょう。お醤油とインスタントコーヒーを切らしていたからそれを買って、あと女子会に必須のお菓子を」

「ぼくは女子ではありません」

「女々しいこと言わないの。ほら、行くわよ」


 校門を出た私達は、学校からそう離れていない場所に店を構えるスーパーマーケット、ミヤハラマートを目指す。


 先行する佐久真に追従しながら、私は行く道の風景を眺める。なんてことはない、走り込みに精を出す部活動生に、恥ずかしそうに手を繋ぐ初々しいカップル、くだらない雑談に腹を抱えて笑う仲の良さそうな帰宅部の生徒達。校門をくぐり、急こう配の坂を下り、並木道を通る。ミヤハラマートが近づくにつれ、買い物袋を抱えた主婦の姿や、その隣で買い与えられたお菓子を胸に抱く子供を見かけるようになる。


 当たり前の、何気ない一場面。しかし私の視界には、そこに霊的な存在がプラスされる。今朝見かけた女の霊はまだ悲しみに暮れ、グレーチングの隙間から大量の目がこちらを伺い、二尾の黒猫が足元に寄って頬を擦りつける。慣れない者には地獄とも思える景観が私の日常に覆い被さり、この世とあの世が綯い交ぜになっている。


「先輩の心臓はポリアリレートか何かで出来ているんですか?正直、ぼくはいつまで経っても幽霊に慣れません」

「どうして怖がる必要があるのか、それこそ私には分からないわ」

「だって、普通は見えないんですよ。見えないものが見える、これはどう考えたっておかしいです。人の形をしている霊ならまだしも、その」

「ああ、たまにとんでもないのがいるわね。B級ホラー映画に出てくる怪物みたいなの。ああいう類の悪霊は私だって怖いわ。でもそんなのはほんの一握り、大抵の霊は死んだだけの人間。私達との違いは生きているか死んでいるか。生前の記憶の断片が幽霊となってもそれは同じ。まあ、人間以外の霊はよく分からないわ。例えば今私の足元にいる――」

「だからそうやって受け入れているのが不思議なんですってば!ああ、やめて、こっちに来ないで」


 猫に人間の言葉が通じるはずはなく、黒猫は佐久真の靴に体を擦りつけ始める。霊をはっきりと視認できない彼のために、足元にいるのがただの猫だと伝える。


「猫ですか。それなら別に」

「尻尾が二本生えているだけ、黒いだけのただの猫よ」

「それ絶対危ないやつですよね。幽霊というよりは妖怪ですよね」

「さあ、訊いてみたら?」

「止めておきます。本当に答えを返されても困りますので」


 目の前のそれが人語を扱う化け猫かどうかは分からない。確かめてみようかと思ったその時、猫はふらりと私達から離れ、近くの公園へと消えた。その公園の向かい側に道路を挟み、目指していたミヤハラマートが建っている。


 ミヤハラマートは決して大きくないスーパーマーケットであるが、店の前には焼き鳥やフライドポテトなどを扱う屋台が並び、珍妙なアクセサリーを売る露店もある。その隣にはガシャポンの台がずらりと並び、百円玉を握りしめた子供達が群がっている。


「後輩君も一緒に行く?醤油とコーヒーとお菓子を買ってすぐ出るけれど」

「ぼくは外で待っています。この調子だと、店の中に幽霊がいるかもしれないので」


 確かにね、と私は笑い、後輩君を置いて店の中に入る。


 買い物かごを手に、食品売り場を見聞しつつ調味料コーナーを探す。醤油を見つけた後、インスタントコーヒーの高騰ぶりに思わず顔をしかめながらも買い物かごに放り込み、菓子コーナーに向かう。


 何を買っていこうか、と悩みながら多種多様な菓子の並んだ棚を巡る。ビスケット、飴玉、チョコレートの三つを選んだところで、隣に子供が立っていることに気づいた。


 それは小さな男の子だった。背丈は私の腰の高さほど、黄色いクマの絵柄がプリントされたシャツを着ている。指をくわえながら私に近寄り、丸いくりくりとした瞳で私を見上げている。


 そして困ったことに、その男の子は体が透けていた。


 ――佐久真の予感は当たっていた。少年の霊はそう珍しくないし、気が向けば私の方から話しかけていたかもしれない。だが、出会うタイミングが悪かった。


 私は身を翻そうとするがしかし、男の子は私の上着の裾を掴んで放さない。はたから見れば服だけが見えない何かに引っ張られているように映るだろう。俗にポルターガイストと呼ばれる現象だ。


「お姉ちゃん、待って」


 出来ることなら待ってあげたいが、もし彼の呼びかけに応じた場合、私は店の中で独り言を呟く危ない女子高生に仕立て上げられてしまう。幽霊は本来見えないもの、だからこそ私は佐久真とよく行動を共にしているのだ。事情を知る人間が近くにいれば、私が霊と会話をしてもその人間と話しているように誤魔化せる。それがこの状況では不可能なのだ。


 男の子はしばらくの間、裾を掴んで放さなかった。お姉ちゃん、お姉ちゃんと呼びかけ続けるが、反応がないと見るや膝を抱え、その場に座り込んでしまった。


「ママ、どこにいるの」


 男の子はすすり泣く。店の中で迷子になった子供のように、母親を呼び続ける。


「――ゴーストヘルパーも楽じゃないわね」


 私は携帯電話を取り出し、アドレス帳から佐久真の電話番号を探す。電話をかけてすぐ、もごもごと口の中が詰まったような声が聞こえた。


「もひもひ」

「何を食べているのか知らないけれど、今すぐ店に入って私のところに来なさい」

「待っへふらはい、ひま肉まん食べへまふ」

「そう、さっきの黒猫があなたを呪おうとしているから助けてあげたくて電話したのに、残念ね。その肉まんが最期の食事になるわ、しっかり噛みしめなさい」


 通話が切れて十秒と経たない内に、佐久真が現れた。口を膨らませ、鼻で必死に呼吸をしながら駆けつけた彼の姿に男の子はぎょっと驚き、とっさに立ち上がった。幽霊を恐れる佐久真が幽霊を怯えさせるとは、とんだ冗句だ。


「後輩君は素直ね。ちなみに今の話は嘘よ」

「目の前の幽霊は本物ですよね。だから店に入るのは嫌だって言ったんです。ただでさえ噂になって――あ」


 佐久真はとっさに口を手で覆うが、もう遅い。


「後輩君はこの子がいるって知っていたのね」


 まだ涙の止まらない男の子を抱きかかえ、佐久真に詰め寄る。お姉ちゃん、と不安そうに呟く彼を安心させるため、柔らかな背中を優しく撫でる。


 佐久真は観念したのか、大きなため息をつく。


「結構有名な話です。ミヤハラマートには子供の幽霊が住み着いていて、夕方になるとその子供の泣き声が聞こえる、っていう。子供は母親にくっついて買い物に来たけれど、そのまま置いて行かれたか、捨てられたか、とにかく放置された子供の怨念が現出するという噂です。むしろ先輩が知らなかったことに驚きです。ぼくはてっきりその噂話を知っていて誘ったのだとばかり」

「噂はいつ頃から広がったの?」

「はっきりとした日時は分かりませんが、ミヤハラマートが建ってすぐ広まったと言われています。つまりはぼくらが生まれる前、二十年くらい前かと」

「この店で子供が死んだというニュースは」

「確認されていません。だからこそ不気味なんです。死んでいない幽霊なんて――」

「生き霊ね」


 死んでいない、文字通り生きている霊。矛盾して聞こえるかもしれないが、幽霊が思いの断片であるという私の仮説に基づいて考えれば、十分ありえる可能性だ。


 この男の子はかつてミヤハラマートで迷子になったのだろう。それからどうなったのかは分からない。母親が迎えに来たのか、自力で見つけたのか、他の客や店員がサービスカウンターまで連れて行き、迷子がいるとアナウンスしてくれたのか。スーパーマーケットで人が死ぬような悲劇は早々起こりえない。それに子供が亡くなったという情報はなく、つまりこの男の子は今もどこかで生きているはずだ。二十年も昔のこととなれば、今は立派な社会人となって過去の出来事など忘れてしまっているかも分からない。


 母親と離れ離れになったという、幼い子供にありがちな体験。その時の不安、悲しみだけが幽霊となり、二十年の時を経てなお置き去りにされている。母親はおろか自分にさえ置いて行かれた、さしずめ迷子の幽霊と言ったところか。


「迷子の幽霊ですか。これからどうします?」

「君、名前は?」


 男の子にそう尋ねると、恥ずかしそうに顔を私の胸に埋める。


りょう

「諒君か。お母さんがどこにいるか、分かるかな?」


 諒は首を横に振る。


 それもそうだ、見つからないから二十年も泣き続けたのだ。ひとりぼっちで、いつしかスーパーマーケットの怪談として語られるようになっても、誰も助けてくれなかった。


「ひとまず店の外に出てみましょう。後輩君、精算お願い」


 佐久真に買い物かごを持たせ、私は諒を抱きながらレジに向かう。両腕が塞がっているため、代金は一旦彼に立て替えてもらう。どうしてぼくが、と愚痴りながら買い物袋に商品を詰めていく佐久真の髪を、諒がいじって遊んでいる。その顔はほんのりと赤みを帯びているが、先程のように泣いてはいない。笑って佐久真の髪をくるくると捩っている。


「少し明るくなりましたね、その子」

「一所に留まり続けるのは霊にとって悪影響なのよ。暗い部屋の中に引きこもる感じでますます陰鬱な雰囲気が醸成され、負の連鎖が繋がる。二十年も続けていれば、普通は悪霊になっていてもおかしくなかった」

「ぎりぎりセーフだった、ということですか」


 その通り、と私は頷く。諒は私と佐久真の顔を交互に見やり、話の内容を理解しようとしている。まさか自分が悪霊になるかどうか議論しているとは思わないだろう。


「何にせよ、あの店に留まる理由がない。リフレッシュするにせよ、母親を探すにせよ、まずは自分を縛りつけるこの場所から逃げるしかない。動くことが大事なの」


 店を出たところで、足に妙な圧迫感を覚える。視線を下ろした先にはまたもや子供、それも諒と同じくらいの歳ごろの女の子だ。更には彼と同じクマのキャラクターがプリントされたシャツを着て、少し前の諒のように目元を真っ赤にして涙を流している。


「パパがいないの」


 女の子は鼻水を啜りながら、懸命に声を絞り出す。


 幽霊ではない、生身の人間。そしてまさかの迷子。ひとまず店の前のベンチに誘導し、諒もそこに座らせる。自分と同じ境遇の女の子に出会ったためか、諒は彼女に興味津々といった様子だ。隣に座り、女の子の目を覗き込む。女の子も彼の存在に気づいているようで、諒の顔を見つめ返す。子供は大人には見えないものを見ると言うが、それも霊感の一種なのだろう。


「大丈夫?」


 諒の言葉に、女の子は答えた。


「うん。あなたも迷子?」


 諒は明らかに戸惑い、私の顔を何度も確認する。慌てた素振りを見せたかと思えば、急に胸を張って背筋を伸ばす。


「違うよ、ぼくは迷子じゃないよ」


 ベンチの端に座っていた佐久真が「んふっ」と気持ち悪い声を上げる。女の子の前で見栄を張る気持ちは彼が一番分かりそうなものだが、他人事のように笑いを堪えている。


 女の子の手を取り、諒は立ち上がる。


「パパを探そう」


 母を探して泣いていた男の子から一転、今の諒はとてもたくましく見えた。まるで妹の危機を救おうとする兄のような――いや、これは。


「パパ!」


 ベンチから立ち上がってすぐ、駐車場からこちらに駆け寄る男性の姿が見えた。さくら、と女の子の名前を呼び、覚束ない足取りで駆け寄る娘をぎゅっと抱きしめる。諒は彼らから一歩離れた場所で、親子の再会を潤んだ瞳で見つめていた。


 つう、と一筋の涙が彼の頬を伝う。諒が泣いていることに気づいた女の子が駆け寄ろうとするが、彼は首を振る。半透明の体は段々と色彩を失い、私達の世界から飛び立とうとしている。


 男性は娘の手を握りながら、目前の霊に向き合っていた。彼には諒が見えているのだ。諒もまた、視線を女の子から男性に移す。涙は既に引き、そこにはとびきりの笑顔があった。


 諒は男性に言う。もうその手を放してはいけないよ、と。


 男性は頷く。ひとりぼっちの辛さは俺が一番よく分かっているからな、と。


「お姉ちゃん、お兄ちゃん。ありがとう」


 声だけが木霊する。諒の姿は既になく、そのシルエットは風に溶ける。微風が男性の髪を撫でる――最期のいたずらとばかりに、その髪をくるくると捩って。


⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯


 糸原の家の前まで来たのはいいが、佐久真がいつまで経っても泣き止まず、玄関の前で立ち往生していた。


「もう、涙もろいのは良いけれど、このままだと私が後輩君を泣かせたみたいじゃない」


 すみません、と頭を下げながらも彼の瞳は涙の流出を止めようとしない。


「先輩、ぼく、少しだけど霊感あって良かったって、初めて、思いました」

「はいはい、無理して話さなくていいから、少し落ち着きなさい。感動的といえばそうだけれど、運が味方していなければ諒君を救うことは出来なかった。偶然が重なって起きた奇跡の再会、でもそれは私の力じゃない。ゴーストヘルパー失格ね」

「先輩が店の中から連れ出していなければ、諒君は自分に会うことも出来なかったんですよ。先輩はすごいと思います。まさに霊の救い人ゴーストヘルパーです」


 私は、佐久真の言葉を肯定も否定もしなかった。


 霊を救うこと、導くこと。それがゴーストヘルパーを名乗る私の使命。今回はうまくいった。でも、救えないことの方が圧倒的に多いのだ。常識の通用しない亡霊、悪霊を前に、生身の私はあまりに無防備だ。


 手の届く場所にいたのに、救えなかった人もいる。


 瞼に指を当てる。濡れてはいないし、涙を溜めているわけでもない。私は泣かない。泣いてはいけない。


「後輩君、涙は引いたかしら。そろそろ行くわよ」


 インターホンのボタンを押し、糸原が出てくるのを待つ。耳に心地良いメロディが家の中に響くが、人が迎える気配はない。出かけている、とは考えにくい。遊びに行く約束はきちんと取りつけた。


 試しにドアノブを捻ってみると、呆気なく扉は開いた。糸原ちゃん、遊びに来たわよ、と声を張り上げ、隙間から家の中を覗く。


 糸原はいた。まっすぐ伸びる廊下に佇み、その体は左右に揺れている。俯いているせいで表情は確認できないが、見るからに普通ではない。豆電球の微弱な灯りが薄暗い空間を照らしているが、輪郭がぼやけ、影が強調され、かえって不気味に感じられる。


「先輩、鼻が」


 佐久真は鼻を押さえながら、家の中で待ち受ける糸原の姿を視認する。


「鼻がどうしたの?」

「外にいても分かる、あのお札の臭いです。鼻がひん曲がりそうな刺激臭がします」


 お札の臭い。様子のおかしい糸原。このまま引き下がった方が得策だろうが、ゴーストヘルパーとしてそうはいかない。


「後輩君、今から突っ込むわよ」

「感動の余韻に浸る時間もありませんね」


 まず私が踏み込み、恐る恐る佐久真が続く。お邪魔します、と断りを入れるが、糸原は何のアクションも起こさない。ゆらりゆらりと揺れる彼女は幽霊を真似ているように見える。


 佐久真が咳き込む。彼だけが感知できる臭いは依然として私には届いてこない。どこから臭ってくるのかと尋ねたところ、ちょうど糸原が立ちはだかる廊下の先、奥の扉から漂ってくると答えた。


「はっきりと分かります。あの扉の向こう側にお札がある」


 佐久真が一歩踏み出した瞬間、糸原が声を荒げる。


「来るな!」


 普段の物腰柔らかい彼女からは想像もつかない叫び声。それに顔は通常の人間の顔面を大きく逸脱し、百面相の如くばらばらに配置されている。右目と鼻の孔が水平に、左目と耳と口が垂直に並んでいる。グロテスクな顔を直視していられなかったのか、佐久真は臭いも相まって更に激しく咳き込んだ。


「ばっちり憑りつかれているわね。それも糸原ちゃんの意識が完全に乗っ取られている」

「だからあんな気持ち悪い顔に」

「私がああなったら、後輩君、どうする?」

「冗談でもぞっとするからやめて下さい」


 糸原の肉体を奪って私達の侵入を阻もうとする亡霊の存在が、かえって糸原の兄が失踪した理由に霊が絡んでいる根拠となった。あのお札も霊的な意味合いを含む代物で、男だけが嗅ぐことを許される臭いにも何かしらの理由がある。


「私が糸原ちゃんを引きつける。その隙に後輩君はあの扉を開けて中を確認して」

「だから臭いがきつくて」

「じゃあ私の代わりに幽霊の相手をする?」


 無理です、ときっぱり断られる。私は彼の素直さに微笑み、糸原に向かって走り出した。靴は靴下と一緒に脱ぎ捨て、滑らないよう気をつけながら彼女と取っ組み合う。両手を絡ませ、糸原を亡霊ごと廊下の隅に追いやろうとするが、相手も力を込めて抵抗する。不気味な顔を近づけ、黄色い唾液を振りかけてくる。こなくそっ、と叫んで意気込み、更に攻寄る彼女の額に頭突きをお見舞いする。


 佐久真はその隙を見逃さず、一進一退の攻防を繰り広げる私達を横切り、扉を目指す。すると亡霊の力が急に強まり、私ごと佐久真に突進を仕掛けた。


「後輩君、ごめん!」


 押された威力を利用し、私は佐久真とぶつかる前に彼を思い切り扉の方向へと蹴飛ばした。尻に命中した蹴りは彼の体をふわりと持ち上げ、扉の目前まで運んだ。

 糸原に憑いた亡霊が金切り声を上げる。


「男!男は駄目!近寄らないで!」

「成る程、女の悪霊さんね」


 私がにやりと笑うと、糸原の顔は醜さを増す。それは明らかに憤怒によるもの、亡霊を前にして恐れもなく立ち向かう目前の生意気な小娘に向けた怒りだ。


 私は挑発するように額をぐりぐりと擦りつけ、


「男の人に見られるとまずいものでも隠しているのかしら」

「黙れ、お前黙れ!」

「私はもう少しお喋りしていたいのだけれど、そこまで言うなら仕方ないわね。その体を傷つけるわけにもいかないし」


 私は右手に握りこんでいたお札を――糸原から受け取ったものとは異なる、除霊を目的とした呪符を彼女の腹部に押しつける。


 体という器を満たす魂は本来、他者の体に注がれることはない。体と魂が対となって初めて『自分』は『自分』でいられる。このお札はそんな世の理から外れた魂を、即ち他人の体に憑依した霊を弾き出す呪符なのだ。


 お札を叩きつけた勢いで糸原の体からずるりと這い出た紫色のぷるぷるとした塊に、私はたまらず舌打ちする。既に人間としての原型を留めていない、典型的な悪霊。ウミウシにも近い体形の悪霊は素早い動きでのたうち、その場で痙攣したかと思えば玄関へと飛んでいき、扉をすり抜けた。


 除霊はこれにて完了。糸原の顔は元に戻り、床に伏したまま寝息を立てている。ひとまず彼女は放置しておくとして、私は佐久真を追って廊下の奥に進む。


「後輩君、どう?何か面白いものはあった?」


 扉は半開きになっており、中を覗くと、直立不動のまま部屋の中心を陣取る佐久真と目が合った。まさか今度は彼が悪霊に憑かれたのかと身構えるが、


「先輩、これ」


 佐久真は普段と何も変わらない様子で、それどころか普段以上に落ち着いた態度で、足元に散らばる大量のお札を指差す。


「臭いは大丈夫なの?」

「ええ、慣れたらどうってことはありません。それどころか頭が冴えて、とても穏やかな気持ちです」


 そう言って佐久真は鼻呼吸を繰り返す。あれだけ嫌だ、臭いと駄々を捏ねていたのが嘘のようだ。迷いは全て吹っ切れたと言わんばかりの、自信と希望に満ちた瞳。まっすぐ背筋を伸ばし、快活な口調で話す彼に、私はデジャヴを感じていた。


 それはまだ確信に至っていない。部屋を手早く散策し、お札以外に物的証拠が残っていないことを確認すると、今日は家に帰って休むよう佐久真に伝える。どうして、と尋ねる彼に余計なことは言わず、強引に帰宅させる。


 邪険に扱われても不貞腐れず、言われるがまま糸原の家を後にする佐久真の背中を見送り、私は糸原を介抱する。間もなく目覚め、状況が分からず困惑する彼女に、訪問した時には既に倒れていた、疲労が溜まっていたのだろうと適当に嘘を吐いた。二人で再度部屋を捜索するが一時間程で切り上げ、私は彼女の家を出た。


 もちろん、このまま自宅に戻るつもりはない。


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