私が産声を上げた時、その誕生をいの一番に祝福してくれるはずの母は一切の言葉を口にしなかった。生まれた我が子に目を向けることも、抱き締めることもなく、生気の抜けた瞳で分娩室の天井を見上げていた。
魂は既に肉体を離れ、死体という抜け殻が子を産んだ。詩的に言えば
壮絶なる誕生とは裏腹に、壬生坂 晴という少女は何の障害も後遺症もなく、健康に、すくすくと育った。活発な性格も相まって、伴侶を喪った父は悲しみに囚われることなく、やんちゃ娘の子育てに邁進できたという。父子家庭が我が子にとって悪影響とならないよう、せめて普通の子供に、極一般的な人間に成長するよう祈りながら。そんな父の思いは、今のところ順調に叶っている。
ただ、一つだけ。
他の子にはない、摩訶不思議な力を除いて。
「先輩」
私が振り向くより先に、声の主は隣に並び立つ。まだ小学生のあどけなさが残る顔立ちに、背中にまで伸びた黒髪はゴムで一本にまとめてある。一見すると女の子にも見えなくないこの少年は、
「おはよう、後輩君」
「おはようございます。今朝は冷えますね」
季節は夏を過ぎ、秋もいよいよ出番を譲ろうとしている今日、皮膚をくすぐる寒風にも負けず私達は学校に向かう。彼は中等部、私は高等部と向かう校舎は異なるが、同じ敷地にあるのでこうして共に登校している。
ふと、佐久真は思い出したように私の方を向き、
「そういえば先輩、例の『依頼』どうします?」
「そうねえ、十中八九こちら側の話でしょうから、今のところ受けようとは思っている」
「昨日はだいぶ渋っていたのに」
「依頼はあくまで人探し。やっこさんを真正面から相手にしなくていいならおそらく大丈夫、という結論に至ったの」
そうですか、と呟く佐久真。
「何かあった時はぼくも微力ながらお手伝いしますけど、あまり期待しないで下さいね。先輩の手に余るようなやつに、ぼくが敵うはずもありませんし――先輩、あれ」
歩みを止めた彼が指差す先には、花束。歩道の隅に積み上げられた献花は死者を弔うためのものだ。交通事故が起きた現場ではよく見られる光景だが、雨や風で供え物が散らばり、住民の迷惑になるという声も上がっている。
献花は事故現場で亡くなった死者を弔う儀式であり、そして二度と事故が起きないようにと注意を呼びかけ、生者が改めて交通安全を旨とするための行為でもある。だが、その意味合いは圧倒的に前者の方が重要だ。現世の引力に縛られた故人を解放するための、いわば民間的な儀式。
そう、幽霊は実在する。そして私には幽霊が見える。
佐久真の指は正確には花ではなく、そのすぐそばに跪く女性を差していた。透明感のある皮膚に、靄がかった服。栗色の髪の毛は血に(おそらくは自分の血液に)まみれ、真っ赤な雫が毛先から滴っている。
膝を折り、俯いているせいで顔は視認できない。時折すすり泣く声が聞こえるばかりで、その女性が何者であるかは分からない。
「後輩君、よく見えたわね」
「いえ、ぶっちゃけると見えていません。灰色っぽい塊がぼんやりと映るだけで、人かどうかも区別つきません」
「人よ、それも女性。事故で亡くなった方でしょうね」
「泣いていますね」
「声は聞こえるんだ。まあ、放っておいていいと思うわ。死が受け入れられないだけで、いずれはここを去ることになる。花が添えてあるだけでもだいぶ違うものよ。菊の花が、あの女性をきちんと然るべき場所に導いてくれる」
生者は葬式で涙を流す。思いの内をぶちまけ、死者との因縁を断ち切る。それは何も生者だけの義務ではない、死者もそうなのだ。彼らは自己の死滅に絶望し、しかし悲嘆することに疲れるといつかは前を向く。人間はそうやって進化してきた、死んだからといってその道理から外れるいわれはない。
私達は亡霊を横切り、学校を目指す。じゅうぶんに離れたところで、佐久真が囁く。まるで霊に聞かれたくないとでもいうように。
「どうして人は死ぬと霊になるんでしょうね。この世に未練があるのは分かりますが、その」
「なる、って表現そのものが間違っているんじゃないかしら。幽霊はただの断片、強烈な記憶の一部。肉体は焼かれ、骨は埋められ、魂は天国みたいな場所に向かったとしても、それでも思い出の一部分だけがこの世界に止まり、歪な形をもって私達の目に見えている。生き霊がまさにそれ。当の本人はぴんぴんしているのに、鮮烈な思考の残滓が霊に姿を変える」
「つまり、幽霊は亡くなった本人じゃないってことですか?言うなれば、残留思念みたいな」
そんな感じ、とお茶を濁す。今まで話したことは生まれた時から霊視の力に魅入られ、余多の霊と触れ合ってきた私個人の感想に過ぎず、本当のところは幽霊に聞いてみても分からない。彼らは自分について知らないし、それは私の霊視にしてもそうだ。
知り合いのお坊さん曰く、私に備わる力は霊感の類とは少々異なるらしい。本来、幽霊が見える人間は死に『近い』のだという。精神状態が不安定で、それこそ目に映るゴーストをストレスからくる幻覚か何かと勘違いしてしまうような、そんな人間。過去のトラウマや障害から立ち直れない、生きながら幽霊になりかけている存在。
「先輩は何が違うんです?」
「私の場合、短時間ながら死んだお母さんのお腹の中にいたことで、死という概念に対して敏感になったみたい。三途の川までお母さんについていったご褒美、ってところかしら」
佐久真はわざとらしく身震いする。
「四六時中幽霊がはっきりと見える世界に生きるなんて、ぼくには耐えられませんね」
「ぼやけて見えるあなたの方が苦労しているように思えるけれど。ほら、後ろ」
何気なく背後を確認した佐久真は、そこに佇む幽霊を見た。彼の瞳には己の身長を遥かに超える不気味なモザイクが飛び込んできたのだろう、わっと悲鳴を上げて私に抱きつく。小さな彼の体に真正面から抱き締められながら、
「あまり脅かさないであげて、ね」
振り向くと、案の定そこには見慣れた男性の姿があった。亡霊とは思えない生気に満ちた姿は、それでも目を凝らすと僅かに透けている。二メートルを超える筋骨隆々の肉体に、真っ赤なジャージ。スポーツ刈りの頭、日焼けした顔には満面の笑みが浮かんでいる。
「何だ、朝から逢引か?」
死者とは思えない暑苦しさを発する男、
「三久保先生」
「分かった、分かった」
三久保は手を放し、降参とばかりに両手を挙げる。
半年前に起きた連続通り魔事件。その犯人から生徒を救うべく、刃物相手に拳で相対し、激闘の末に刺し違えた(殴り違えたとも言えるか)山仲学園体育教師、それが彼だ。幽霊は思いの断片に過ぎないという私の推測は、死してなお生前のまま生徒を気遣う彼の出現により修正の余地が生まれつつある。
あまりに生きていた頃と変わりなく、かと言って本人は死んだことを平然と受け入れていて、それなのに成仏することなく現世にあぐらをかいている。三久保が言うには、彼が最期に担当した生徒諸君の卒業を見送るまで消えるつもりはないらしい。つまりは私とその同級生が卒業するその日まで、彼はこうして登下校路で子供達の安全を見守り、自分を視認できる生徒を見つけてはちょっかいをかけている。
「それじゃあ、私達はこの辺で。行きましょうか、後輩君」
そわそわと落ち着きのない佐久真の手を握る。
「おう、またな――そうだ、壬生坂。近頃この周辺の霊共が騒いでいる。動揺しているというか、何かに怯えているようにも見えてな。好からぬことが起きる予兆じゃないかと俺は踏んでいる。お前にとってはお節介かもしれんが、気をつけろよ」
私は深々と頭を下げ、今度こそ学校に向かう。三久保の心配はおそらく、今私達が直面している問題にも関わっているだろう。彼の言う通り、注意するに越したことはない。
こういう事態に切り札として役立つのが佐久真だというのに、当の本人は遠く離れた三久保の姿を探し、また突然現れはしないかと怯えていた。
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遡ること、十六時間前。
空き教室の一つを陣取り、私はある生徒からの相談を受けていた。
「お兄さんを探して欲しい?」
依頼主は同級生の
「警察が捜査に当たっているけれど、手がかりは一切なし。近所の人は、捜索が打ち切られるのも時間の問題じゃないかって言ってた」
「薄情なご近所さんね。でも失踪なんて、そもそも私が出しゃばるような案件じゃない。そのお兄さんが亡くなっているというのなら話は別だけれど――ごめんなさい。冗談でも口にするべきではなかったわね」
糸原は首を横に振る。
「そんな可能性は考えたくない。けれど、お兄ちゃんが生きているのかどうか、何も分からないまま放置するのはもっとイヤ。例えそうだったとしても私は真実が知りたい」
「分かったわ、一応そっちの線でも調べておく。でもそれだけじゃないでしょう。この私、『ゴーストヘルパー』壬生坂を頼った理由は」
ゴーストヘルパー。幼い頃から霊が見え、更にはそれを隠すことなく公表していた私につけられたニックネームだ。幽霊が見えると豪語する人間などはいじめの対象になるのが道理だがしかし、気がつけば私はそんな肩書を与えられ、時には怖い話を聞かせろとせがまれ、時にはお守りとして心霊スポット巡りに付き合わされ、何だかんだ受け入れられていた。要は誰も真剣に信じてはおらず、壬生坂はそういうキャラなのだと納得しているのだ。
それでも、たまに糸原のような人間がやってくる。私の霊視を本物であると信じて疑わない人間が、その能力を必要とする人間が。
「これ、見て」
糸原はバッグに手を伸ばし、皺のついた紙を取り出した。茶色に汚れた長方形の用紙には、かろうじて文字と分かる線が書き殴られている。その紙を受け取って眺めてみたり、日光にかざしてみてもそこに意味を見出すことは出来ない。
「お札かしらね」
「それだけ?」
「今のところ分かるのは、これがただの落書きじゃないってことだけ。預かってもいいかしら、もう少し調べてみれば色々分かると思うから」
彼女の了解を得た後、私はその札をクリアファイルに挟んでバッグに仕舞う。再び彼女に向き直り、
「ちなみに、今のお札はどこで手に入れたの」
「お兄ちゃんの部屋。それも一枚じゃなくて、床に何枚も散らばってた」
「具体的には」
「多分、百枚ぐらい」
床を覆う百枚の札。如何にもオカルティックな光景だが、むしろこのケースは比較的安全であると言える。呪符の類だろうが何だろうが、何枚もべたべたと貼らなければならないようなものは、一枚一枚の効力が微々たるものだと主張しているも同然だ。にわか知識で作ったお札はそうやって数で補うしかない、それはつまり強力なお札を製作する技術を持っていないということになる。
このお札の製作者が彼女の兄か、はたまた別人かは分からない。兄が失踪した理由も、お札の目的も、まだ何も分かってはいない。だがこのお札に並々ならぬ悍ましさを感じた彼女は、こうして私の許を訪れたのだ。ゴーストヘルパーならば何か分かるかもしれない、と。
次の日、私は正式に彼女の依頼を引き受ける旨を伝えた。
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「何だか嫌な匂いがします」
午前の授業を終えた私は、昼食の菓子パンをくわえながら例のお札を眺めていた。すると佐久真が弁当箱を片手に、中等部の校舎からやってきた。前方の空いた席に座るよう促すと、彼は机の上に置かれたお札を睨みながら、言った。
「そう?美味しいわよ、たこ焼きパン」
「ソースの匂いじゃなくて、その札の匂いですよ」
試しに鼻を近づけてみるが、特にこれといって目立った香りはしない。佐久真の鼻の近くまで持ち上げると、みるみるうちに彼の顔が歪んでいく。
「梅干しみたいな顔になってるわ」
「後輩に嫌がらせするのがそんなに楽しいですか――あ、何だか気持ち悪くなってきた。おえっ、うえ。やめて、目の前でひらひらさせないで」
むせる佐久真の背中を撫でながら、お札を再び自分の鼻の前にもっていく。それでも彼が涙目になってしまう程の激臭は感じられない。
「呪い、かしら。後輩君だけが妙な匂いを嗅ぎ取っているってことは」
咳が止まらない佐久真には取っておいた缶コーラを渡し、私は近くにいた同級生の面々にお札を見せていく。また壬生坂が妙なものを持ってきたぞと近づいてきた男子生徒の一人は突如悶絶し、後に続いて寄ってきたもう一人は鼻を押さえようとしたが間に合わず、悶える男子生徒と頭をぶつけてしゃがみ込んだ。
次に女子生徒に嗅がせてみてが、何の反応も得られなかった。男子の奇行の理由も分からず、ただの悪ふざけかと笑っている。
男と女。性の違いがこのお札の匂いを感じるか否かのスイッチになっている。
「男性に対する怨念がこもった呪符なのかもしれませんね」
佐久真は普段の調子を取り戻しており、コーラと一緒に弁当を味わっていた。私もお札をクリアファイルに戻し、食べかけのパンに齧りつく。
「男女関係のいざこざから、男を恨んだ女性の恨みが憑りついているとか」
「でも、変な匂いを嗅がせて終わりっていうのもおかしな話だと思わない?災厄をもたらしたり、呪い殺したりする方が、イタズラみたいなまどろっこしい手段で復讐するより余程幽霊らしいわ」
確かに、と佐久真は頷く。
男だけをターゲットに匂いを撒き散らすお札。これはひょっとすると呪符ではなく、単に奇々怪々な香料、例えば男だけが感じ取れるホルモン的な何かを抽出した香水だとか、そういう類のものを添付したただの紙なのではないだろうか。ご丁寧に読み取りにくい文字を書いている辺り、ジョークグッズとしては上出来だ。
しかし、お札の真偽がどうであれ、そんなものがどうして糸原の兄の部屋にあったのだろう。それも百枚近くあると彼女は言っていたが、そんなものに囲まれて何の得があるのだろう。一人で刺激臭我慢大会でもしたかったのだろうか。
「糸原先輩にお願いして、お兄さんの部屋を調べさせてもらうというのはどうでしょう。そのお札一枚だけでは読み取れることがあまりに少ないですし、何か他の手がかりが掴めるかもしれませんよ」
佐久真の提案に、私は黙考する。
失踪の手がかりがそう簡単に見つかるような場所にあるとは思えない。まして失踪した人間の部屋となれば、家族や警察が既に調べつくしているはずだ。もっとも、これが霊的な存在による事件であるならば、霊感を備えた人間にしか分からない痕跡が残されているかもしれない。
全ては推測に過ぎない。確かめてみるのが一番早いか。
「今日の放課後、糸原ちゃんの家に遊びに行くわよ。後輩君をお土産にね」
「ぼくは行きませんよ。糸原先輩の話によると、お兄さんの部屋には先程のお札があと百枚はあるんでしょう?臭いのはこりごりです」
「そう、残念ね」
肩を竦めてみせると、佐久真は訝しげに私の顔を覗き込む。どうしてそんなに素直なのか、一体何を企んでいるのか、とでも言いたげな目つきで、自分でも気づかない内に微笑んでいた私を睨みつける。
「どうしたの?心変わりしてついてくる気になった?」
「――いつもの先輩なら、ぼくが怖がる姿見たさに無理矢理連れていくのに。先週の廃墟巡りは縄で縛られて連行されましたし、先々週の心霊スポット探検は泣くまで帰してくれませんでした」
「そうね、この間はごめんなさい。その反省も込めて、今回は私一人で行くことにするわ。例え今朝から後輩君をつけ回している幽霊がいて、隙あらば後輩君を襲おうとしているけれど私がいるから手を出せず、血走った目で今も後輩君を観察しているとしても、今日はあなたを引き止めたりしない。安心して帰宅してちょうだい」
「あ、何だか糸原先輩の家に行きたくなってきました」
「いいのよ、無理しないで。また明日、無事に会えるといいわね」
「先輩と一緒にいたいなあ、今日は片時も離れたくないなあ」
「もう、仕方ないわね。それじゃあ、放課後にこの教室で待ち合わせましょう」
佐久真は空の弁当箱を巾着袋に収め、周囲に隈なく目を光らせながら教室を後にする。彼をつけ回す幽霊、もとい私の嘘に怯え、警戒しているのだ。
「お馬鹿さんね、後輩君。あなたを狙う幽霊なんて、この世界のどこにもいるはずがない。今までも、そしてこれからも、あなただけは絶対に襲われない。あなたの『それ』はそういうもの――いわば
私の呟きが、佐久真に届くことはなかった。
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