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<第三十話・父>

「父さん!」


 息子の美樹に声をかけられた時、勝木正孝は“ああやっぱり来たか”、と思った。畑仕事を中断し、自宅の神棚の前に座っていた時である。いつもそうだった。新しく生け贄を捧げた時には祈ることにしているのである。みかげさま、を祀る神棚に。どうか、新たなみかげさまとなる者の魂が少しでも強靭に保ち、同じだけ安らかであってくれるように。

 そんなことをしても自己満足なだけよ、と妻にははっきり言われたこともある。息子にも同様に詰りを受けた。言われなくても分かっている。彼らを殺すのは自分達の都合。彼らは誰一人死にたくはなかったし、ましてや拷問されて殺されるなんて真っ平ごめんであったはず。それを無理矢理浚って地獄に突き落としたのは、どんな理由であれ事実なのだ。祈るだけ傲慢、無意味と言われればそれまでだろう。

 わかっている。

 それでも祈るのはあくまで――自分が心の安寧を得るための、自己満足に過ぎないということは。


――けれど、それが人間だろう。そうしなければ生きていけないから、こんなことになってるんだろう?


 何も正孝とて――何もかもを、割り切っているわけではないのだ。


「何で、むざむざ美園ちゃんを生け贄に差し出したんですか」


 振り向かずに祈り続ける正孝に、背中から鋭い声をあげる美樹。見なくてもどんな顔をしているかなどわかりきっている。きっと青筋を立て、怒りにわなわなと拳を震わせていることだろう。

 昔からそういう子だったな、と正孝は思う。勝木の家の待望の男子であったが、昔は体が弱くてしょっちゅう熱を出し、親に心配ばかりかける子供だった。そのくせ、曲がったことは許せず、自分よりずっと体が大きな男子たちに突っ込んでいって擦り傷を負うことも少なくないときている。喧嘩など、まるで強くもなかったくせに。

 彼は幼い頃からの正義感を今でも持ち続けていて、それが全身を絶え間ない怒りで満たし、震わせるのだろう。本当に息子らしい。だが。

 彼がここで殴りかかってこないのは、もうあの頃と同じ子供ではないからだということもわかっている。彼は大人になった。大人になり、理というものを理解した。そして、それを守らなければこの地で生き抜いていけないことも、少なからず分かっているはずなのである。それがどれほど承服しがたい、納得できないものであったとしても、だ。


「母さんが亡くなった」

「そうだな」

「消防で火を消した後、母さんの遺体を回収することもしないで“結界”を張ってお清めしている。それだけ見れば、もう何が起きたかなんて俺でもわかる。いつもと同じだ。その後美園ちゃんが連れていかれたと知ったら尚更だ。母さんは命懸けで美園ちゃんを逃がそうとして祟りに遭った、そうでしょう!?」

「わかってるなら何も言うな、美樹」

「言うに決まってるでしょう!父さんは母さんの死を無駄にした!!なんで美園ちゃんを生け贄に差し出すのを躊躇しなかった?そんなところで祈ってもなんの意味もないって知ってるくせに!!」


 血を吐くような息子の叫びに――正孝は大きく息をついて、ゆっくりと振り返った。

 大人には、なった。けれど、いい年のくせにまだまだ青いといったらない。どうやら、言いたくもなかったこともはっきりと告げなければどうにもならないらしい。


「……正孝」


 想像した通り、怒りに燃えて眉を吊り上げる息子の顔を見上げながら、正孝は。


「それを、お前が言えた義理か」

「!」

「琴子ちゃんを連れていく仕事はしたくせに、それが美園になったら拒むのか。よその子は良くて、自分の姪だから駄目?そんな理屈がまかりどおると本気で思っているのか。どんな子にだって親がいて、家族がいて、もしかしたら恋人だっているのかもしれないのに、だぞ」


 厳しいことを言っているのはわかっている。だが、自分も家長としてここは退くわけにはいかなかった。

 正孝とて、何度も葛藤し、通ってきた道なのである。本当にこんなことが必要か。こんなことをしなければならないのか。隣町から村に遊びに来て仲良くなった子、観光客の友人、遠い親戚――正孝にとって失いたくない人たちもまた、歴代の生け贄に存在している。何故彼らがいなくなったのか、みかげさまとはなんなのか。教えてもらえたのは、正孝が成人し、勝木の跡取りとして正式に“儀礼”を受けた時になってからのことだった。

 この村は正しく歪んでいる。許されないことをしている。しかし、とっくの昔に後戻りする術は失われていると、そう悟るしかなかったのである。


「真知子は、馬鹿な真似をした。……琴子ちゃんを見捨てたのはあいつも同じだ、美園だけ助けて逃がそうとしたのはそういうことだ、違うか?……そうやって生け贄や生け贄候補を逃がそうとして怒りを買った者は、過去にいくらでもいたというのにな」


 初代のみかげさまが焼死だったからか、“裏切り者”は同じように焼かれて死ぬことが多い。ゆえに、すぐにわかるのだ――村の出口で不自然に焼け死んだ者がいれば、その者は村を裏切ろうとしたのだ、と。

 祟りで殺された村人は暫く葬式も出しては貰えない。丁寧に清めて祓って、みかげさまの許しを得なければならないからだ。故に、誰が死んだのかも何故死んだのかもすぐに村中に知れ渡ってしまうのである。

 よりにもよって、由緒ある勝木の家の嫁が裏切りを働こうとした。

 村人たちに――特に御三家の者たちに一体どれほど非難を浴びることになるか、わかったものではない。自分達の一家は生涯背教者同然の扱いを受ける。村八分も覚悟しなければならない。真知子は、それがわからなかったのだろうか?


「長年の伝統と規則によって、この村の安寧は保たれてきた。それはまごうことなき事実だ。勝木の家の家長である俺がそれを破るなどできるはずがない。ましてや、逆らって俺とお前の両方が死ねばこの家はどうなる?お前はまだ結婚していないし跡継ぎの子供はいない、血筋が完全に耐えてしまうことになる。そうなったらもう、誰が勝木の家の役目を果たし、村を守っていくというんだ?」

「……父さんが言いたいことはわかっています。俺だって共犯だ、自分だけ悪くないなんて言うつもりはない。琴子ちゃんを差し出しておいて美園ちゃんだけ、なんて虫が良すぎるのはわかってます、でも……!」

「でも?」

「俺が何で嫁を貰わなかったか、お父さん気づいてないんですか」

「!」


 まさか、と目を見開く正孝。くしゃり、と顔を歪めて――まるで糸が切れたように、美樹はその場に崩れ落ちた。今まで堪えていたものが、もはや耐えきれなくなってしまったと言わんばかりに。


「そんなことで滅んでしまうなら……こんな儀式なんかやめてしまえばいい、それだけでしょう!この令和の日本で、一体どこに、こんな馬鹿げた因習を守って……それを守ると言う名目で罪を隠し、重ね続ける愚かな村があるっていうんですか……!」


 だん!と思いきり畳に叩きつけられる拳。振動で神棚が小さくカタカタと音を立てた。まるで、みかげさま、の怒りを体現するかのように。


「みかげさまのこえがするんです」


 ざわり、と。嫌に生温い風が、部屋の中を吹き抜けた。


「俺達はおしまいですよ。俺には聞こえる。俺達はみんな因果応報で……欺き続けた報いを受けるんだ」


 何だと、と正孝が言いかけるのと。

 外で甲高い悲鳴が聞こえたのは、同時だった。




 ***




「うおおおおおおおおお!」


 美園にとって、優位な点がないわけではなかった。

 一つ目は、神官の男が合図をするよりも前に美園が攻撃を仕掛けたこと。

 二つ目は覚悟の差。怪我を承知で形振り構わず、いわばやけっぱちで突っ込んだ美園に(まさか女子大生の女が拳一つで殴りかかってくるとは思っていなかったのだろう)彼らはやや気圧され、反応が遅れた。ましてやこちらは相手を“自分達を生け贄に捧げるクズども、ぶっ飛ばしてよし!”という認識であったのに対し、向こうにとって美園は“自分達の手で”殺してはならない大事な生け贄である。あくまで儀式に則って、地下に閉じ込めて飢えさせなければいけない相手。死ねといってもつまりそういうことである。

 それらを踏まえるなら――大して武道の経験もない美園の拳が神官筆頭の男の顔面に食い込むのは、ある意味必然的な流れであったのかもしれなかった。もんどりを打って倒れる男。その手から錫杖がぽろりと零れ落ちた。美園は素早くそれを拾い上げると、がむしゃらに振り回して攻撃し始める。


「どけっ!どけぇぇえ!ぶん殴られたくなかったらどけっ!」


 後先もなにもあったものではなかった。振り回した錫が神官達の頭に、肩に当たり、甲高い音を立てる。当たりどころが悪ければ殺してしまうかもしれない、なんてことさえ考える余裕はない。ただ必死で、琴子を救うことだけしか頭にはなかったのである。

 暴れる美園を押さえ付けようと、いくつも背後から腕が伸びてくる。美園はそんな連中の足を踏みつけ、腕を長く伸ばした爪で引っ掻き、肘鉄を食らわしてどうにか逃れた。火事場の馬鹿力で、やけっぱちになって暴れた時間はきっとさほど長いものではなかっただろう。いずれこの多勢に無勢の状態では捕まってしまうのがオチである。そんなことは美園にもわかりかっていたことだ。

 それでも立ち向かったのは。そうしなければならないとわかっていたから。

 負け戦でも戦わなければならない時は、女にだってあるということ。何かを守るために一生懸命になるとはどういうことなのかを、美園は今身をもって実感していたのである。

 そしてそんな、僅か数分程度であろう美園の抵抗は――間違いなく、この絶望的な状況には光明を齎したのだ。


「堂島!木田!目をつぶって伏せろっ!!」


 突然降ってわいた、どこか聞き覚えのある声。理解するより先に体を屈めた美園の耳に聞こえてきたのは――いくつもの男達の、情けない叫び声だったのである。



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