遠く、遠く。
美園の耳に、遠くから声が聞こえてきた。その声はずっと泣いている。真っ暗な闇の中、ひたすら泣き続ける声がする。
その声は――小さな、女の子。
『うう、ううう……』
幼い、幼い子供。聞いているだけで胸の痛くなる嗚咽に、思わず美園は心の中で語りかける。
どうしたの。何が何がそんなに悲しいの。貴女を悲しませているものは一体何?と。
『……見えないものが、見える。みんなには見えないから、それはおかしいなことと、皆が申す。ずっとそう、言われてきたのじゃ……』
少女はぐすぐすと鼻を鳴らしながら、必死で美園に訴え掛ける。
『それはだめだと。だめなことなんだと。御影は、普通ではないから、怖いものだと皆が恐れる。御影は、みんなを傷つけたりしたくはないのに、御影が近づくと皆が避けて通る。何か怖いことが起きると、御影の呪いだと云う者もいる始末じゃ……御影も、他の子と同じように外で遊びたい。鬼遊びをしたり、
子供らしくたどたどしいが、それでもしっかりとものを喋る子供。御影様だ、と理解すると同時に。当時どれほど厳しいしつけを受けて育ったのだろうと思わずにはいられない。十歳未満――否、もっと小さいかもしれない。そんな少女が、ここまでものを理解してきちんとした話し方ができるものなのかと。それとも、今の子供と違い、昔の子供はそれが当たり前であったのかと。
いずれにせよ、彼女が聡明であったのは間違いない。
それなのに、力があるというだけで幽閉され、差別を受けてきたとしたら。なんと理不尽で、不条理なことであるか。
『何故御影にこのような力があるか、御影が外へ行くことも叶わず皆に恐れられるのか、御影は何故産まれたのか。その答えはある日突然来た。御影は、この村の守り神になるために産まれた存在であるのだと。そのためにこのような力を持っているのだと。生まれながらの神であるからこそ、人と違うことは当然であったのだと。……御影は。初めて、自分が産まれてきた意味ができたと、それがとても……とても嬉しかったのじゃ。例え、死ぬことでしか、皆の役に立てないのだとしても。この村を、引いては世界全てを、この御影だけが守ることができる。なんと名誉あるお役目であることか。それだけで、それだけで救われたように思えてならなかったのじゃ……』
でも、と。少女はしゃくりあげながら、告げる。
『でも。……御影が想像していた以上に、死とは、恐ろしく、痛く、孤独なものであった。足の先から、じりじりと焼かれていくのが、これほど痛いとは思わなかった。御影は、このような責め苦が続くなら、はよう殺してくれと何度も懇願したが叶わなかった。しまいには猿轡をされて、舌を噛むことも出来なくなった。長く長く、苦しみ続けることでしか霊力を高めることはできないのだと。御影はそれが辛くて、辛くて、辛くて……何故御影だけが、と。思ってはならぬことを、思ってしまったのじゃ……』
ああ、そうか。そういうことだったのだ。
全てが一本の線で、繋がっていく。この村にとって最大の悲劇であったのは、この地で天災が続いたことではない。否、確かに災害が多く続いたのは不幸ではあったが、それに加えて“生贄にするにちょうどいい”嫌われ者の、異端児の娘がいたことが最初の悲劇であったに違いないのだと。
今の時代ならば、例え天災が続いたところで“人柱でなんとかしよう”なんて考え方にはまず行かないだろう。だが、江戸時代以前の、それも閉鎖的な村であったならどうだろうか。力を持つ者を贄に捧げれば、自分達はこの苦しみから開放されるかもしれない。しかも、ついでに皆が恐れる異端児の子供を排除することができるとすれば。――近代的理性を持たぬ者達が、その安易かつ残酷なやり方に縋ってしまうのも、全くわからない話ではないのではないか。
――地獄との堺というものが、本当にこの地にあったかどうかはわからない。ただ誰かが言い出した“此処はあの世との境界である”という言葉は次第に発祥不明で広まり、人々の共通認識となり、真実となった。この地で恐ろしい事が続くのは、この地が“忌むべき土地”であるからに違いない、と。恐ろしい天災を防ぐには、その堺を封じ、悪いものの流入を防ぐことにしかないのだと。
それが、真実だったか、虚構だったかはわからない。
いや、恐らくどちらであってもさほど問題がない。宗教と同じだ。“●●を殺さなければ悪魔が降臨する”と信じる者達が集まって、実際に誰かを殺したり不幸にしたとしたら。それが、彼らが信じた妄言が真実であった場合と何が違うだろうか。実際人が死んで災いは齎されている。それはつまり、人の心や信仰が、いるかどうかもわからない悪魔を具現化させてしまったということになるのではなかろうか。
そして御影は捧げられ――不遇に生きた少女は、それが己の産まれて来た意味と信じるしかなく。
さらに死ぬ時の苦痛があまりにも大きく、耐え難いものであったがために。その役目に縋らなければ、己が受けた苦しみは報われないと、そう考えるようになってしまったのである。彼女は理不尽に生贄を押し付けられて惨たらしく殺されたばかりか、そうやって殺された後も己の役目に縛られ、苦しめられ続けているのだ。
――だから、彼女は生贄を選び続けるんだ。それが……それが自分の役目だと信じてるから。信じるしか……思いの、持っていきようがないから。
そして、村人達も。一度生贄を、それも齢六歳か七歳程度の少女を拷問して殺すという人道に悖る行為をしてしまった以上。それが今更“間違っていたかもしれない”なんて思うことは許されない。もしかしたら災いが去ったのは偶然だったかもしれない、もしかしたら今の技術で調べればその科学的根拠が出てくるかもしれない、もしオカルトな方面であってもよく調べて考えれば他に手段は見つかるのかもしれない――そんな考えは、過ぎることさえも許されないのである。
彼らは互いに、“村人が続行するから”“みかげさまが選ぶから”とどこかで責任転嫁をする形で、儀式を今に至るまで続けてくるしかなかったのである。自分達がやっていることは正しいに違いないと信じて。一人を殺したらもう、何人殺しても罪悪感が薄れるようになってしまった村人と。
「……ねえ」
泣いている少女に、訴え掛ける。この光景が見えるのは、声が聞こえるのは。他でもない、御影が美園にそれを伝えたがっているからに他ならない。
それは、何故か。
わかっているからだ、本当は――こんなことをいつまでも続けても、苦しみから開放されることなどないということを。誰も救われず、罪が重ねられるだけということを。
「私に、呼びかけてくれるのは、なんで?だって私も、生贄に選ばれてるんでしょ?もうすぐ、貴女の一部になるはずだって……貴女がそう選んだ筈でしょ?それとも……本当は、最初からそのつもりで、私を呼んだの?」
あの大型掲示板の書き込みが、“みかげさま”が生贄を呼ぶための手段であったことは既にわかっている。そのセンサーに引っかかる形で自分と琴子がこの村にやってきたわけだが、たまたま自分達だった、とは正直あまり思えないのが本心だった。
他にも理由があったかもしれない、何かに選ばれたのかもしれない――こんな言い方をすると、少々傲慢に聞こえるかもしれないけれど。
「私、コンプレックスしかない普通の人間だよ。お酒が強い……うん、多分強い……ていうか、もう、それくらいしか取り柄ないし。それ以外はほんと平凡で、何かを一生懸命頑張ったこともないような、そんな人間だし。勿論……霊能力とか、そういうものも、ないし。だから、貴女の役に立てるかなんて、正直自信はないし。何ができるかも、わからないんだけど……」
段々と声は尻すぼまりになって消えていく。この場所で、弱気になってはいけないのだろうということくらいわかっていた。今きっと、みかげさま、と自分の精神は繋がっている。気弱で役に立たないとみなされれば、きっとすぐ切り捨てられて処刑台送りにされるのだろう。実際に生贄に刑を執行するのが人間であるとしても、恐怖や苦痛を与えることには彼女らもきっと加担してきたはずなのだから。
そう、そのためなら何だってするのが彼女だ。だから祖母も死んだ。美園を外へ連れ出そうとしたために――生贄を連れ出して、“この世界を守る”というみかげさまの使徒としての役目に背こうとしたために。
彼女はずっと、そのたった一つの信念と、己の存在理由を守るためには何だってしてきたはずなのである。そうでなければ、今にも壊れてしまいそうな己に、きっと気づいていたから。だから。
――琴子を助けたい。囚われた人たちを助けたい。……この子を、助けてあげたい。でも、じゃあ私みたいな平凡な女子大生に、なんかできることがあるのかって言ったら……。
退屈で、平凡で、どこか漫然と生きてきた人生。何かに一生懸命になったことなんか、きっとなかった。記者になりたいという夢はあったけれど、だからそのために真摯に努力してきたかといえばそんなこともない。
そう、本当に努力していたのだとしたら。あの新倉焔の言葉に落ち込むことこそあれ、あれだけ腹が立つこともきっとなかったのだ。自分達が彼にムカついたのは、ちゃんと下調べをする気もなく、努力しようする気にもならず、適当なレポートだけ出して満足したつもりになっている自分達を見抜かれた気になったから。
一生懸命テーマに取り組む彼に、信念を持っている彼に――その“持っているかもしれない”霊能力以上に嫉妬があったから。
本当はきっと、最初から分かっていたのだ。自分達はダメ人間で、ダメ人間すぎて罰を受けたのかもしれないということは。面白半分で調べるべきでもないものに首をつっこんで、結果自分が生贄にされるなんて今時B級ホラー映画でもないだろうに。
『……本当はずっと……ずっと失望して、馬鹿にしていたのだ、御影は。人間など、自分のことだけ助かればどうでもいいと。赤の他人ならば、いくら犠牲にしても、酷い目に遭わせても両親の呵責など受けぬ……そういうイキモノに違いないと』
しかし、と御影は続ける。
『生贄を積み重ねるごとに、御影は……尊いものを、多々みるようになったのだ。おぬしらは、血の繋がらぬただの友人同士であるというのに、互いをきちんと大切に思っている。おぬしはきっと、御影が止めずとも友を見捨てることなどできなかったと思うのだ。おぬしの友人の琴子もそう。今でも……戦っている姿が、見える。人間はまだ、捨てたものではないかもしれぬ……。そして、おぬしらの前の代の姉妹も、その前の代の親子と恋人も……』
闇の中、美園は眼を開いた。暗闇に浮かぶ、一人の少女の姿が見える。赤い着物の少女は、真っ黒に焦げ付いた体で、痛々しげに微笑んでいた。
その焼けた唇が、ゆっくりと動いて言葉を紡ぐ。これこそが心からの願いと、そう告げるように。
『だから、頼む。どうか全ての悲しい事に……悪い夢に、終わりを』