潰す拷問、なんて。もし自分が男性だったら下半身の心配でもしたのだろうか、なんてことを琴子はちらりと思った。完全に現実逃避だ。自分にはそんなものないんだから、とでも思わなければ今にも発狂してしまいそうだったのである。思考だけ逃げたって、まともな未来が待っているわけでもないことくらいわかっているというのに。
ゆっくりとバッテン印に組まれた組み木が下ろされ、何か台座のようなものの上に横たえられることになる琴子。だが、当然両手両足の自由は奪われたまま。逃げようと暴れても、縄がきつく手首足首に食い込んでいくだけである。
「嫌、嫌……嫌!死にたくない、嫌……!本当に呪うって言ってるでしょ、聞こえてないわけっ……!?」
自分でも、段々何を言っているかわからなくなる。倒されたことで、琴子にはもうゴツゴツとした洞窟の天井しか見ることが叶わなくなっていた。自分の体を押さえつける幾つもの手の感触が伝わってくる。それなのに、そいつらの顔を見ることさえもはや叶わない。
潰されるって一体どうやるつもりなのか。あの金槌を使って、自分は殴られるというのか。がくがく震える琴子の、特に右手に多くの手が伸びた。補佐を務める神官達なのだろう。彼らは握り締めようとする琴子の右手の指を、複数人で強引に開かせようとする。そして掌を晒したところで、指をごりごりと開いた状態で台座に押し付けられた。
何をするつもりなのか。そう思った瞬間――掌の真ん中に、冷たい感覚が。
――ま、さか。
次の瞬間。琴子が慌てて向けた視界の向こう、一人が思い切り“それ”に向けて金槌を振り下ろしたのである。
ざく、とも。ごき、ともつかぬ音がして――激痛が、這い上がった。
「ぎ、ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああ!?」
釘。恐らくは、釘だ。それが、琴子の掌の中心に打ち付けられたのである。台座と固定するために。そして琴子が暴れるのも無視して、神官は何度も何度も金槌を振り下ろす。
ガン! ガン! ガン! ガン!
釘が打たれる。骨が削られる。血が噴き出す。掌の中心を、冷たい凶器が貫通し貫いていく。
「痛い!痛い痛い痛い痛い痛い!いや、いやああああああああ!」
悲鳴を上げながら、頭のどこか冷静な部分が告げる。こんな痛み、きっと序の口に決まっている、と。
実際その予感は正しかった。琴子の右の掌を台座に固定した連中は、そのまま次の儀式に以降したのである。
そもそも、何故台座に固定する必要があったかといえば単純明快。そうしなければこの後の本番が非常にやりにくいものになってしまうからである。この後の本番――つまり“潰”の儀式である。琴子の手を開いたままで固定することが、連中にとっては必要不可欠だったというわけだ。実際釘の中心に貫かれてしまったせいで、琴子はもう拳を握ることができなくなった。物理的に指が閉じないのもあるし、何より僅かでも動けば痛みが走るので指を動かすことができないのである。
そしてそんな琴子の泣き声など一切無視して、誰かの声が聴覚を震わせることになる。
「祭祀様。準備が整いました。これより順番に儀式を行いたいと思います」
――嫌、嫌……!もう十分痛いのに、痛くてたまんないのに……これ以上まだ、酷いことするっていうわけ……!?
しゃん、しゃん、と錫の音が断続的に響き始める。祝詞のようなものが響き、地面を踏みしめる砂の音が複数続く。助けて、と掠れた声で呟いた。けれどもう、琴子の声を聴いてくれようとする者は何処にもいないようだった。誰からも返事はない。ただ、痛みでガンガンする右手を差し出して、恐ろしい時間を震えて待つしかないのである。
一人が近づいてくる。琴子の前に立つ。何か、呪文のような言葉を呟くのが見えた。唇が動いたのはわかったが、何を言ったのかまでは理解することができなかった。理解するよりも前に、その男が金槌を大きく振り上げたからである。
「嫌っ……!」
また釘を打たれるのかと思った。そうでなかった。金槌が力強く打ち据えたのは――琴子の小指。
ごきり、と嫌な音が体内から響いた。
「ぎぃぃっ!!」
神経が集まる指先から、脳まで一気に駆け上がる新たな痛み。全身から汗を噴出させながら、琴子は見た。今ほど己の視力がいいことを恨んだことはない。
琴子の小指はみるみるうちに紫色に変わり、晴れ上がっていく。そして、明らかにおかしな方向に曲がっているではないか。
今の一撃で、骨を砕かれた。そしてわかってしまった。
潰す、というのは――琴子の指を、金槌で殴って潰すという意味だったのだと。
「や、いや……いや!もういや、いや、やめて!やめてやめてやめて!!」
泣き叫んでも、琴子の言葉が届く筈もない。彼らに情けも容赦もなかった。恐らく一列に並んでいるのであろう。二番目の男が再び金槌を振り上げ、ごぎゅり、と琴子の指に振り下ろす。それも、既に変形している琴子の小指を狙ってだ。
爪が割れて、血が噴出した。小指の第一関節も第二関節もぐにゃりと曲がって戻らなくなった。琴子の意思では既に動かせなくなっていた小指に、さらに三人目の一撃が来る。
力任せの一撃は、琴子の皮膚を打ち破り、肉を潰した。骨らしきものが飛び出した。痛みの上にさらなる激痛を上書きされ、琴子はひたすら泣き叫ぶ他ない。
「いいいいいいいいい!痛いいいいいいいいいいいいいいいいいい!!」
気付くと、下半身からぶしゅ、と何かが噴き出す感覚がある。血の臭いに混じるきついアンモニア臭。漏らしたのだ、と分かったが羞恥を感じる余裕などなかった。何故なら悲鳴を上げ、のたうち回る暇さえも殆ど与えられないのである。彼らは代わる代わる琴子の傍に立ち、金槌を振り下ろし続けるのだから。
琴子の小指は完全に変形し、それどころか骨が飛び出して肉が潰れ、血まみれの皮だけとなって垂れ下がっている。もはやほとんどちぎれているも同然の状態だ。そしてその小指を庇おうと手を動かしたせいで、薬指と中指も何度か打撃を受けていた。まだ折れていないかもしれないが、ずきずきと痛みが頭蓋を苛んで離れない。
「小指はもうそろそろよろしいでしょう。では次、薬指を中心に“潰す”ということで」
誰かの無情な声が響く。琴子はだらだらと眼から涙を、口からは泡を吹きながら虚ろに天井を見上げる他ない。もうこんなに痛いのに。死にたくなるほど痛くてたまらないのに。まさか全ての指を潰すまで終わらないというのか。いや――果たして右手だけで終わるというのか。
――やめて。あたしの手、動かなくなっちゃう……スマホも握れなくなっちゃう、何にもできなくなっちゃう……お願いやめて、やめてよお……。
後遺症どころか。このままひたすら痛めつけられて、殺されるのは目に見えている。
ならばいっそ、自ら死ぬ勇気を持つべきなのだろうか。舌を噛めば死ねると聞いたことがある。なら自分も、そうすれば死ぬことができるだろうか。
――それしか……もう、それしか……!
しかし、現実は無情だった。舌を噛もうと歯で挟んだ時点で、本能的な恐怖で完全に固まってしまう。噛めば死ねると言われても、一体どうやれば噛み切れるのかなんて知っている筈もない。どれくらいの力を、どのようにして込めるかなど、当たり前だが誰にも教わったことなどないのだから。
拷問されるくらいなら舌を噛んで死んだ方がいい――よく聞く話ではある。しかし、土壇場でそれが実行出来る者はさほど多くないのだと、琴子は今身をもって痛感していた。
そして迷っているうちに、次の一撃は来るのである。
「ふぎゅっ……!」
舌を噛んだ。だが、恐怖と痛みから反射的に噛んだ程度の力で噛み見切れるほど、人間の舌はやわなものではない。むしろ舌にまで酷い痛みが走り、さらに薬指を砕かれる痛みが重なって余計な地獄を見ただけに終わった。
琴子はあくまで、普通の女子大生に過ぎない。しかも自殺など今まで考えたことのない、明るく割と健康的に、自由奔放に生きてきた幸せな人間の一人だ。勿論落ち込んだことなど人生で数えきれずあるし、悩みと呼ばれるものも少なくなかったわけではあるけれど――死ぬ方法なんて考えたこともあるわけないし、リストカットのような自傷行為など誰かがやっていると聞いただけで“痛そう、絶対無理!”と断言し首を振ってきたほどである。
痛みを受けて命を断つ方法など研究しているはずもなく、慣れているわけもない。だからわからないのだ。舌を噛めば死ねると言われても、じゃあどうすればいいのかなど。既に痺れるように痛む舌にこれ以上の一撃を加えるには、どれほどの勇気を振り絞ればいいのかなど。
――もう、嫌……やだよお……美園ぉ……!
ぐちゃり、という音がした。気づけば薬指もミンチにされていたらしい。もうそちらを確認する度胸もなかった。事実なのは痛みながらも動くのがもう、右手は親指と人差指、中指だけになってしまったということだけである。
――美園、美園……助けてぇ……!
友人に助けを求めながらも、不思議と彼女を恨む気持ちにはなれなかった。彼女が誘ったせいでこの村に来て、今こんな目に遭っている。それは事実だ。けれど、彼女が村の現状を知っていたとは思えないし、そもそも彼女もどこかで同じような目に遭っている可能性は極めて高い。何より、面白そうだと思って誘いに乗ったのは琴子自身だ。いくらなんでも、友人に責任転嫁などできるはずもない――まだそれだけの理性は、琴子にも残っていたのである。
助けて欲しい、と願いながらも。彼女もきっと無事ではないだろうという絶望感。同時に――無事であって欲しいと願うだけの人の心もまだ、琴子は正しく持ち続けていた。例え恐怖と狂気の中、今にも切れそうなほど細い細い理性の糸であったとしてもだ。
――部長。新倉部長。……あたし達が危ないってこと、気づいたんですか?だから、あんな書き込みしたんですか。だったら……。
「ひぎいっ!」
喉が掠れて鈍い痛みを覚えるようになっても、悲鳴は反射的に迸る。きっと右手はもう、修復不可能なほどの有様になっていることだろう。何処がどう痛いのかもわからないほど、痛い。もう制御がきかなくなった下半身は、どろどろといろんなものを漏らして凄まじい有様になっている。舌を噛もうと思っても、段々顎の力さえうまく入らなくなってくる始末だ。
もうダメなのだろう、と。心の何処かで察しつつあった。
――だったら。助けに来てください。もう、馬鹿にしたり……否定したりなんかしない、ちゃんと話を聴いたりもするから、だから。
恐ろしい宴はまだ、終わる気配など微塵も――ない。