そして、航行する事およそ一週間。
<銀河の荒波号>は、目的のヴォイド・ポイントに到達した。
前述の通り、ヴォイド・ポイントの宙域は赤い色をしている。だがそれは、遠方から確認する事はできない。どれだけ高精度の天望鏡を用いた所で、赤い宇宙を観測する事はできない。だがある程度近づくと宇宙の一角に赤い染みのようなモノが見え、さらに近づくとそれは突如として視界を埋め尽くすほどに広がる。
今まさに目の前に広がっているのがその光景だ。
漆黒の宇宙にあって、波濤のように渦巻く赤い宙。それがヴォイド・ポイントなのである。
『これは……圧巻だな……』
操縦席で現物を目の当たりにしたアストラジウスが、圧倒されたように呟く。知らず、その指は硬く握りしめられていた。
『素晴らしい……。赤い宇宙の、何と美しい事か……』
「一説によれば、この色は宇宙の始まりの色なのだそうです。ヴォイド・ポイントは空間が歪んでいるので、光よりも早く広がっていくはずの宇宙が、ここでは関係が逆転して光に満たされているのだとか」
『理論上でのみ語られる原始宇宙というものか。真実はどうあれ、これを見てはそれもあり得るのかもしれない、と思わされてしまうな』
「ふふ、全くです」
呑気に観光気分で語り合いながらも、ミスズは慣れた手つきでコンソールを操作し各種準備を続けている。モニターに何かが表示され、船はそちらに向けて進路を変更する。
『これは?』
「ビーコンですね。これを基準に、ヴォイド・ポイント突入後は完全自動操縦になります。何せ空間が歪んでいるので、人間の感覚は当てになりません。コースを外れるとどこに飛ばされるかわかりませんので」
『……よくもまあ、そんな空間でルートを確保したものだな』
「まあ色々やったみたいですけど、一番大きいのは命知らずが多かった事ですかね。各航路には発見者の名前がついてます。今から使うのは、フォン・ライアン第36航路というそうです」
キャノピーが物理的に遮蔽される。歪曲空間を目視した所で搭乗員には百害あって一利なしだ。余計な事をせずに、機材を信じて大人しくしておく。これが、宇宙の要衝を通り抜ける際の共通事項でもある。小さな石ころの上で生きていく事に最適化された人類の感覚は、思った以上に宇宙では当てにならないものなのだ
「あとは、自動操縦任せですね」
『ふむ。……歪曲空間を通る際に、こう、何かあったりしないのか?』
「何か、って何です?」
『こう、艦の通路がいつもよりも長くなったり、時間の流れがおかしくなったり、人が増えたり減ったり、色彩がおかしくなったり……』
創作でよくワープに伴って描写される超常現象の例をつらつらと述べるアストラジウス。大真面目にそんな事を言うものだから、悪いと思いつつもプッ、とミスズは思わず噴き出した。
「無いです無いです。そんな事あったら怖くて誰もヴォイド・ポイントを利用……いや、利用はするかなあ。うん、関係ないか……。まあとにかく、おかしな事が起きたりはしないです。逆に言うと何か起きたらヤバイのですぐ教えてくださいね。特に旦那様の場合、肉体に悪影響がある可能性があるので。気のせいかとかで済ませないでくださいね??」
『う、うむ……』
そうか、無いのか、とちょっとがっかりするアストラジウスに、この人って時々妙に子供っぽいよねー、と慈愛に満ちた視線を向けるミスズ。
「よし。じゃあ、これから突入しますので。いきますよ」
『よろしく頼む』
操縦桿がひとりでに前に倒れ、船が加速する。遮蔽されたモニターに、自動操縦プログラムの処理過程が表示される。刻々と変化する数字の羅列を眺めながら、アストラジウスは自らの胸元に手を当てた。
自己診断プログラムを起動させ、肉体に何か異常が起きていないかを確認する。今の所、影響は見られないようだ。
不安ではあるが、この肉体は生身の人間のそれに比べれば構造的に安定している。生身の人間が影響を受けないのだから、そう心配はいらないと思われるのだが……。
そもそも、人体というのは非常に脆く、繊細で、外部からの影響を受けやすい。普段意識しないが、人体構造というのは常に破損しながらも再生し続ける事によって成り立っている。その過程で些細な事でミスやトラブルが生じ、それを免疫機構などによって排斥し、あるいは黙認する事で、人の体は稼働しているのだ。その負債がやがて処理しきれない程増えてくると、癌や更年期障害といった病気、老化、といったものとして現れる。
ましてや宇宙、さらには歪んだ空間であるなら猶更の事。どれだけ技術が発達しても宇宙に満ちる放射線による悪影響は完全には遮断できない。ネティール文明においても、それそのものは完全に防ぐことはできず、あくまでリカバリーの方を重点していた。
そういった点を考慮すれば、あくまで人格の維持、あるいは遺伝子情報の保護を目的としたこの肉体は、本当に細胞分裂を行っている訳ではなく、あくまでシュミレーションによって作り出された疑似的な信号が発せられているに過ぎない。無意識化で行われる肉体の代謝、そのシュミレーション結果は、やはり無意識に処理される。
そういった点を考えれば、むしろ生身の人間の方が問題であるはずなのだが。
アストラジウスはミスズに目を向ける。
彼とて無為に時間を過ごしている訳ではなく、問題ない範囲で情報収集に努めた。その中に、平均寿命の話があった。
惑星上で暮らす人間の平均寿命はおよそ100年。ネティール王朝の存在した頃は平均130年だった事を考えると大幅に短命であるといっても過言ではない。それもただ寿命の長さが違うというだけでなく、いわゆる健康的に過ごせる期間、健康寿命でいえばさらに短くなるようだ。今の宇宙では、酸化防止などの耐老化処置は一般的ではないらしい。
これが、宇宙に住む、あるいは宇宙産業に従事する者となると、さらに大幅に減り、60年前後になるのだという。宇宙に満ちる放射線の影響というのは、それだけ大きいのだ。
『…………』
「? どうかしましたか、旦那様。何か異常が?」
『いや、それはない。……ところで、どれぐらいの時間がかかるのかな?』
「そんなに長くはかからないですよ。長いのは一月ぐらいかかるそうですが、この航路は20分ぐらいで通り抜けられるはずです」
『10万光年を20分か……とんでもない話だな。他の場所もそれぐらいの効率なのか?』
「場所によってバラバラですね。同じ目的地でも、違う航路もありますし、その場合はやっぱり所要時間も違います。それにいつも同じ時間という訳でも無くて、多少前後します。一か月は無くても、数日ぐらいはずれたりする事もあるとは話に聞きました、実体験はないですけど」
『ふうむ……』
「それより、本当に体に異常はありませんか? いま、半ばを過ぎたぐらいみたいなんですけど、おかしなところありません?」
『大丈夫だ、そう過剰に心配する事はない』
「用心しておくに越したことはないと思うんですけどもねー」
ピピッ、と計器のアラームが鳴る。遮蔽キャノピーに投影されていた自動操縦のプラグラムの流れが止まる。ゴンゴンゴン、と音を立ててシャッターが上がっていき、その向こうに宇宙空間が見えた。
漆黒の闇に煌めく無数の星々の輝き。見慣れた、通常の宇宙空間だ。アストラジウスは反射的に背後へと振り返った。勿論、彼の背後には扉があるだけで、遠く後方に見えるはずの赤い宇宙の輝きは見えない。
「よし、通常空間への復帰完了。すぐにフィリティウムが見えるはずです」
『そうなのか?』
言われてアストラジウスは、キャノピー越しに宇宙を見渡したが、それらしき星は見えない。何光年先かもしれない、星々の無数の輝きが見えるのみだ。
その様子を横目で見て、ミスズは悪戯っぽく口元を緩ませると操縦桿を傾けた。船体がバレルロールするように確度を変え、さっきまで足元にあったモノが頭上に来る。
『おぉ……』
「これなら見えるでしょう?」
キャノピー越しに、ぼんやりと発光する球状の物体が視界の上半分を埋め尽くす。地表の赤と、渦巻く大気の白がマーブル模様を描く、赤い惑星。
今回の旅の目的地である星が、その雄々しい姿を見せつけるように輝いていた。