「ふぁーあ……」
久しぶりにたっぷりの睡眠をとって、ミスズはベッドから身を起こした。
寝ぼけ眼で時計を確認すると、あれから8時間が経過しているようだ。彼女らしくもなく、十分な睡眠時間を確保できたらしい。そのせいか頭もしゃっきり、体調も快適だ。これなら調べものも捗りそうである。
「……あ゛あ゛あ゛あ゛」
そして当然のように、眠る前の醜態を思い返して頭を抱える。
いや、あの時はあの時で必死だったのだが、こうしてちゃんと睡眠をとった後だといかに頭が回っていなかったかがよーくわかる。アストラジウスの言うとおりである。
新婚ほやほやで旦那様に醜態を見せてしまった事に慚愧の念を抱えつつも、だからこそいつまでも寝てはいられない、とミスズはベッドから飛び降りた。
そのままリビングに向かおうとして、直前で思いとどまって踵を返す。テーブルに投げ出されている鏡で軽く自分の有様を確認して、彼女は顔を青くした。
まずはシャワーである。宇宙船ならともかく、ステーションの居住区ならそこまで制限は厳しくない。念入りに顔を洗い、パサパサな髪のトリートメントを施して、ドライヤーで髪を乾かしつつ押し入れの奥から私服を引っ張り出す。一年に一度レベルとはいえ友人と顔を合わせる時がある、その時用に確保していたお洒落着を引っ張り出し、サイズを確認。数年前の服がまだ切れることに安堵しつつ袖を通す。
最後にわざとらしくない程度に薄く化粧をし、彼女はリビングに出陣した。
「お、おはようございまーす……」
『うむ。おはよう』
リビングはかつての汚部屋の面影一つなく、綺麗に清掃されていた。床はピカピカに磨き上げられ、薄汚れていた壁紙は張り替えたかのように綺麗になっている。部屋の片隅に積み上げられている資料の山がかつての名残だ。
その部屋の中央で、家の主のようにアストラジウスが寛いでいる。彼の着いたテーブルの上では、一杯のカフェイン飲料がかすかに湯気を燻ぶらせていた。
『そろそろ起きてくる頃だろうと思ってな、用意しておいた。どうぞ』
「あ、ありがとうございます……」
勿論嘘だ。寝室の方でバタバタする気配を感じて急いで用意したものである。それをアストラジウスはおくびにも出さずにカップを差し出し、ミスズはそれをおずおずと受け取ると自らも席についた。
「……ん。美味しい……」
『それはよかった。味見はしたが、私の時代とは趣味嗜好も違うだろうからな、上手に淹れられたか心配だった』
「いえいえ、そんな事はありませんよー。良い感じです」
この家にあるのはインスタントなカフェイン飲料が関の山だが、あれはあれで美味しく作るのはコツがいる。決められた分量できちんと作らないと、どうにも微妙な味になるのだ。その点、彼の淹れた飲料は薄くもなく濃くもなく、ちょうどよい。
「……うん? 味見?」
『ああ、そうだ。一応、この体でも多少は飲み食いが出来るからな。あくまで多少、味見程度だが』
「すすすすいません! 私てっきりその体は飲食できないと思い込んでて……!」
爆弾発言に顔を真っ青にするミスズ。
機械の体であるアストラジウスは飲食はできないだろう。そんな思い込みで、彼女はこれまで何日も、彼の食事を用意しないどころか目の前でもしゃもしゃ貪り食べていた。
いくらなんでもデリカシーが無さ過ぎた。もしかすると、これみよがしに目の前で食事を楽しまれて不愉快になっていたのかもしれない。
いや、しかし仮に彼が食事をするという事を知っていても、皇子様の満足できるような料理を用意できたかどうか。これまで食べていたのも、クラッカーやビスケットに、栄養補助のサプリメントという味気ないものばかりだ。というか、ミスズの財政状況ではそういうものしか用意できない。
『ああいや、気にすることはない。食べる事が出来る、というだけで、食べなければならない、という訳ではない。食事は人間性を維持する為に必要なのである機能なだけで、むしろたくさん食べると問題になる。特に気にしてはいないよ』
「で、でも……」
『ふむ。それならば、こんどここに書いてある……パパドゥ? という食べ物をご馳走してくれたまえ。今でも盛んに食べられているのだろう?』
言ってアストラジウスが差し出して来たノートの切れ端に、ミスズは目を丸くした。
それは確か、彼女が学生時代に筆記した資料である。
「あ……えと……。資料をご覧になっていたのですか? あ、でもそれ私の手書きで……やだ、恥ずかしい……」
『なかなか興味深かった。読んでみると面白いものだな』
「あ、ありがとうございます……?」
ちなみにパパドゥというのは、澱粉を含む小さな粒状の実を多数磨り潰して粉にし、水を加えて練ったものをシート状に成型し、油蜜でカリッと揚げたものだ。アレンジでシートに果物を詰めたり、あるいは肉を詰めて油蜜ではなく植物油で揚げるなどのバリエーションがある。間食から主食まで幅広い目的で食べられているが、ちょっとカロリーが高いのが難点である。
案外、庶民的な物に興味のある皇子様であった。
なお、実は当時ちょっと食べてみたかったのでノートに書き記していたというのは今後墓まで秘密にしよう、とミスズはこっそり決心した。
『資料についてはすまないが、こちらで纏めさせてもらった。一応、類似するもので纏めておいたのだが……もしかして迷惑だったか?』
「あ、はい。構いませんよ。むしろ整理してもらって申し訳ないです」
『それならよかった。いや何、素人からすると一見散らかっているだけでも当の本人には非常に意味のある配置だったりする事はあるものなのでな、一応な』
「……その。何ていうか、ズボラな人間に対する理解度、妙に高くないです?」
皇子様というのだから、整理整頓や部屋の綺麗さには拘りがあるものだと思っていたが、どうにも一緒に生活を始めてからその辺りで揉めた事のないミスズは首を傾げた。むしろ、その逆、生活能力の低いミスズをアストラジウスが介護しているといってもいい。その認識とスキルをどこで学んだのだろうか。
その疑問に、アストラジウスはああ、と何でもないかのように答えた。
『私の主治医は優秀な男だったのだが、生活能力が絶無でな。私の治療室も気を抜くとグチャグチャになっていたものだ。その度に、彼の妻が整理整頓と叱責をしていたので、まあ見ててなんとなくな。持つべきは理解のある配偶者だと、しみじみと思ったものだよ』
「その……すいません……」
『はは。持ちつ持たれつ、だよ。私など妻の家に転がり込んだヒモ同然だからな。社会的にはこっちの方が不味いだろう?』
などと言いながら片目の光を消して見せるのは、あれはウィンクのつもりだろうか。ミスズは縮こまりつつも、皇子様がヒモという言い回しをするのに果てしなく違和感を覚えた。彼の話にしばしば出てくる主治医、優秀なのはとても伝わるが同時にとても教育に悪い人材だったのではないかと彼女は口に出さずに思った。
「はあ……。いえ、ううん。私は私の役目をちゃんと果たします。家にある資料では不足しているようなので、知り合いのツテで別の資料を……」
『いや、待ってくれ。思うのだが、現状の宇宙図を参考にした調査は一旦取りやめにしよう。君があれだけ調べて何も繋がりが見つからなかったのなら、恐らく望みは薄い』
「でも……」
『調査をやめようという訳ではない。すこし視点を変えてみようという提案だ』
言ってアストラジウスは左手を掲げると、何やら合図を出した。すると一匹の昆虫型ロボットがやってきて、彼に数枚の資料を手渡す。