時間外の来院に関わらず、院長は変わらぬ笑みで私達を迎えてくれた。受付に必要最小限の灯りを点け、診察室へ私達を招き入れる。
「それで、どうしたの?」
尋ねた院長に、吉継は不安そうな表情で隣の私を見た。
「精神的に不安定になってしまって。声を荒げたり、自分でも少し制御できない感じがあるので、やっぱりトキソプラズマじゃないかと思って」
宥めるように吉継の腕をさすりつつ、代わって症状を説明した。院長は頷き、吉継の様子を窺う。
「どんな感じかな。イライラして暴れたくなる? 怖くて暴れたくなる?」
「……怖くて。僕も、死ぬんじゃないかって」
「そうか、それは怖いね。血液検査と点滴をしたら少し落ち着けるんじゃないかと思うけど、どうかな。血液検査は、祈ちゃんがしたのと同じのだよ」
穏やかな声の提案に、吉継は子供のように頷く。聴診器を手にした院長に、のろのろとコートを脱いだ。
「最近は、どんな仕事をしてるの?」
「投資を、しています」
「投資か。頭のいい人の仕事だねえ。吉継くんは、昔から賢い子だった」
呼吸の合間に会話をしつつ、院長は一通りの問診を終える。
「でも、僕は政治には向かないから」
ニットの裾を戻しつつ零した吉継に、驚いて視線を上げた。初めて聞く台詞だ。
「覇気がないし人の上に立つ器じゃないって、父さんに」
「そっか。私は吉継くんみたいな優しい政治家がいてもいいと思うけどね。人の痛みが分かる細やかな政治をしてくれそうだから。でも、優しすぎて周りに潰されちゃうのかもしれないね」
丁寧に答えながらも、手は迷いのない動きで採血の支度を整える。相変わらず、九十間近とは思えない手さばきだ。
「お父さんは、政治の世界に引き入れてしまったら吉継くんの良さが消えてしまうと思ったんだろう」
「そんな、優しい人じゃないです」
まあ確かに「そんな優しい人」ではない。どちらかと言わなくても明将と似ている。豪放磊落を装っているが、実は計算高く冷酷な策士だ。あれが来期から県知事になるのかと思うと、正直落ち着かない。県民には好かれるかもしれないが、超過労働で職員の離職率が跳ね上がるだろう。
「あんな人が知事になったら、みんな騙されるよ」
だめだよ、と慌ててニットの袖を引く。誰もが知っていても、暗黙の了解として口にしてはならない予定だ。しかし院長は私を宥めるように軽く手を振って、笑った。
「うちの家に、昔チロって犬がいてねえ。お父さんが小学生の頃に『飼ってくれないか』って連れてきた子犬だったんだよ」
院長は老眼鏡を押し上げ、採血にかかる。初耳のエピソードに、吉継もじっと院長を見据えていた。
「泣きながら、『うちでは飼えないから飼ってもらえませんか。先生の家は医者でお金持ちだから大丈夫だと思う』ってね。自分が飼えないから、飼ってくれる家を探してうちまで来たんだろう。『お金持ちだから泥棒に狙われるかもしれないけど、犬がいたら番犬になる』って売り込んだんだよ。犬もかわいかったけど、その必死さに心を動かされて飼うことにしたんだ。それからも時々チロに会いに来てね。お小遣いをペットフード代にしてくれって持ってきたりして。優しい子だったよ」
思いがけない心温まる話を聞いているうちに、採血が終わっていた。院長はそのまま針に点滴のチューブを繋ぎ、診察台に吉継を寝かせる。
「ただ、優しいだけでは杼機の家は継げないからね。沢瀉町が豊かなのは、杼機のおかげだ。私のような住民には、計り知れない苦労を背負っているはずだよ」
それは多分、間違いないのだ。与えるだけでは、甘やかすだけでは治められない。乗り越えてはならない一線を保持して、杼機は君臨していなければならない。
「政治に触れなくて済むというのは、考え方によっては幸せなことかもしれない。長男に産まれたら、その日から町のために生きる運命を背負わされてしまうわけだから」
吉継は、輸液の調整をする院長の意見に少し間を置いて頷く。
「兄が僕を嫌ってる理由は、分かります。僕はいつでも自由に、自分の好きなことができたから。でも僕は、両親を独り占めしてる兄が羨ましかった。何をしても、見てもらえて」
「そうだね。それは、寂しかったよね」
認められた痛みに、目を閉じてまた頷く。しばらくすると、穏やかな寝息が響き始めた。