「僕のせいじゃないって言ってるのに、なんで僕のせいにするの」
「大丈夫だよ、そんな話は」
焦点の合わない視線に焦る。本当に、「次は吉継」なのか。まっすぐに刑事達を目指す吉継を慌てて引き止めた。
「僕のせいじゃない、全部祈がやったんだ。祈の呪いが全員殺したんだ! 僕じゃない!」
「分かったから、落ち着いて。刑事さん達は話を聞きに来ただけだよ、大丈夫。誰も吉継のせいだなんて思ってないから」
興奮した様子で市谷に伸ばそうとした手を掴む。このままでは、朝岡と同じ公務執行妨害コースだ。
「すみません。寺本さんが亡くなったことが引き金で、不安が爆発してしまって」
「悪魔だ、先生も悪魔だって言ってた! こいつを捕まえて、死刑にしてください! 警察なんでしょ!」
手を出さないよう押さえ込もうとするが、吉継は錯乱した様子で私を振り払おうとする。
「ちょっと、任せてもらっていいですかね」
気づくとすぐ傍に来ていた新山が、慣れた手つきで私から吉継を引き受けた。殴らないことを祈りつつ、不安な足を退く。
「あなたのせいではないんですね。あなたのせいではない。あなたがしたんじゃないんですね。分かりました。突然来たら、びっくりされますよね。すみません。ちょっと、深呼吸してみましょうか」
新山は吉継とともに背中を向け、宥めるようにさすりながら落ち着いた声を掛ける。男性なのが良かったのか、吉継はしゅんとした様子で大人しくなった。
「あの人、落ち着かせるのうまいんです」
「そうですね。ありがとうございます、助かりました」
私にはもうどうにもできなかったレベルの荒れ具合だ。
「場所を変えてもいいですが」
「いえ。ここでお願いします」
場所を移したいのは山々だが、吉継から目を離すのは避けたい。疑いたくはないものの、素直に信用もできない。
「実は、トキソプラズマ感染を疑っているんです」
切り出した私に、市谷は面食らったような顔をする。
「ええと、トキソ……」
「トキソプラズマ。寄生虫の一種です」
縁遠そうな市谷は頷いて、メモに何かを書きつける。まずは、トキソプラズマに関する基本的な講義から始めることにした。
トキソプラズマは寄生虫の一種で、人間を含めた哺乳類などを宿主にし、有性生殖はネコ科の腸管上皮内でのみ行われる。トキソプラズマ症は日本だけでなく世界中に広く蔓延しているもので、健常者への感染は多くの場合は無症状だと言われていた、のだが。
「それで、科学的にはまだ実証されていないものの実験されているのが、『トキソプラズマに感染すると性格が変わる』説なんです」
「性格が、変わるんですか」
「まだ研究中なんですけどね」
すっかり生徒のようになった市谷に、苦笑しつつ返す。再び、ここ数日の間に調べ上げた資料の内容をかいつまんで講義する。市谷は書き終えたメモの内容を確かめるようにめくりつつ、なるほど、と溜め息をついた。
「かいつまんだ説明なので、詳細はネットで調べてみてください。遥かにちゃんとしたものが載ってますから」
「いえ、分かりやすかったです。じゃあ、協力を仰ぎたいというのは」
「寺本さんのトキソプラズマ検査をしていただけないかと思って。もちろん、私や肉の検査結果次第では無駄になるんですが」
「実証されていないとはいえ、調べる価値はありそうですね。まあここで『できる』とはお答えできないので、一旦持ち帰ります」
それで、と続けた市谷に、胸元に収まったエンジのネクタイから視線を上げる。
「先程、ご主人が『全員殺した』と言われたのが気になってまして」
やはり、見逃してくれなかったか。無念の溜め息をついた私を、市谷は鋭い視線で窺う。
「これ以上は、私からはお話できないんです。お察しいただけるとありがたいんですが」
控えめに言葉を濁した私に少し間を置いて、ああ、と短く返した。認知症の祖父が起こしたことになっているあの事件は、まだ捜査が続いている。最終的には書類送検でも、規定にある捜査はしなければならないのだろう。私もあれから何度か警察と話をした。警察は結局、「力づくで猟銃を取り上げようとした家族達に反発して撃ち殺した」と見ているらしい。二人もおそらく、知ってここにいるはずだ。
「故意ではなくトキソプラズマ感染が引き起こしたかもしれない事件があったと、胸の内に留めていただければ。私が今これを検証しているのは、決して公にはできなくても、彼らの名誉回復のためなんです。助けられなかった自戒も込めて」
まだ決まったわけではないが、状況から考えてほかにありえない。もっと早く、気づけていれば。
「ほかに、何かお聞きになりたいことはありますか」
流れた沈黙を打ち消すように尋ねると市谷は、はい、と頷く。
「あなたは先程『幻覚がある』と言われましたが、性格が変わったとは感じられてますか」
「いえ、そちらはないですね。もしかしたらもう幼い頃に感染……」
――昔は、あの時山で迷うまでは、祈は優しかったよ。
「心当たりが?」
「すみません。山の中で育ったものですから、今回は再感染かもしれないと」
あの時を境に性格が変わったのは、恐怖のせいだけではなかったのかもしれない。転がり落ちた時に、土壌から感染した可能性はある。
「ちなみに、ご主人はどうですかね」
抑えた声で尋ねた市谷に、不安が湧いた。ただ寺本の訃報で不安定になっているだけだと信じたいが、分からない。感情に振り回されて判断を誤るのだけは避けたい。
「変わっていないとは、言い切れません。でも、さっきからなんです。心配なので、このあと急患で掛かりつけ医に連れて行こうと思います」
「そうですね。私達はこれで失礼しますので、連れて行ってあげてください」
新山さん、と呼ぶ声に、向こうで手が挙がる。向こうは向こうで何かぼそぼそと話し続けていたが、終わったのだろう。新山は吉継の背をさすったあと、廊下を戻ってくる。
「すみません、助かりました」
「いや、大丈夫ですよ。でも病院に行かれた方が、ご本人も安心できるんじゃないですかね」
靴を履きながら、新山も受診を勧めた。やはり、一般人の不安定とは質が違うのだろうか。認めてしまえば折れそうで、握り締めた手に力を込める。
「そうですね。そうします」
掠れた声で答え、自分を納得させるように頷く。大丈夫、今ならまだ、間に合うはずだ。
「検査結果が分かったら、こちらに連絡を」
差し出された市谷の名刺を受け取り、頭を下げる。礼儀正しく出て行った二人を見送って、すぐに吉継の元へ走った。
「これから、病院に行こう。診てもらって薬もらった方が、落ち着くでしょ」
新山のおかげで少し落ち着いたらしい吉継は、虚ろな目を揺らしつつもはっきり頷く。両手を伸ばし、白い頬を包んだ。
「大丈夫。私が、絶対に守るから」
吉継は目を閉じて頷き、長い息を吐く。怖いことは考えない。今はできることをするだけだ。温かくなった頬を撫で、準備へ向かった。