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第41話

 事故でも起こしているのではと気を配りつつ帰宅したが、それらしい騒ぎは見当たらなかった。いやな予感はするが、今は追い掛けない方がいい気がする。

――本性を現せ、お前が悪魔なんだろう!

 三次元だの八次元だの商売のために利用しているのかと思っていたが、完全にそういうわけではなかったのかもしれない。あれは、冗談には見えなかった。

「一つ聞きたいんだけど、今年初物の鹿肉あったでしょ? あれをあげたのは、うちの実家だけ?」

「いや、先生にもあげたよ」

 念の為に確かめてみた可能性がヒットして、顔を上げる。吉継は私の足湯に湯を継ぎ足しながら、不思議そうな顔をした。

 じゃあ、あの時は寺本と幻覚を共有していたのか。でも幻覚の共有なんて、できるのだろうか。集団ヒステリーだとしても、何が見えているのかを話したことはない。

「どうしたの?」

 温まった足でバケツの湯を掻きつつ、窺う青白い顔を見つめる。続く訃報に、吉継も疲弊している。その上、心酔していた相手に騙されていたと知ったのだ。でも洗脳から抜け出した今なら、私の話も通じるだろう。

「今はまだ、確かめてる途中なんだけど」

 額に滲んだ汗を拭い、和徳の推理を話すことにした。

「おかしくなった人達に共通する事柄が、一つだけあってね。全員、吉継が今年初めて射止めた鹿肉を食べてるの」

 切り出した私に、吉継は目を見開く。軽く頭を横に振ったあと、ダイニングの椅子を引き出して、少し離れて座った。

「矢上さんの息子さんが、トキソプラズマのせいじゃないかって。科学的にはまだ実証されていない説だけど、トキソプラズマ感染で性格が変わる説があるらしくて」

「ありえないよ。感染防止のために、冷凍庫はマイナス六十度まで設定できるものを選んだんだし、肉にだってちゃんと火を通してる」

 吉継は細い眉間に皺を刻み、説を否定する。痩せた指を落ち着きなくさすりあわせたあと、膝の上で組んだ。

「それは分かってる。でも何かの偶然が重なってしまった可能性も、否定はできないでしょ? 可能性の一つとして、調べる価値はあると思ったの。だからひとまず私はトキソプラズマの検査を受けて肉も検査を頼んだよ。今は両方とも結果待ち」

「そんなこと、僕に黙って勝手に」

「吉継は先生の言うことしか信じようとしなかったから、言っても」

「また僕のせいにするつもりなの?」

 遮って返されたのは、予想外の感情論だった。そんな話はしていないが、吉継には責めるように聞こえたのかもしれない。特に、吉継はまだあの一件を引きずっている。話さない方が良かったのか。

「僕には幻覚も何もないし、どこもおかしくなってない。僕が一番食べてるのに」

「それは過去にもう感染して、慢性感染になってるからじゃないかな。今回は再感染で、目立った症状が出てないだけかも」

 答えたあと、間違いに気づく。必要な台詞は多分、可能性の示唆ではなかった。

「それで、今すぐ先生にトキソプラズマ症の可能性を話して、病院を受診するように言ってくれないかな。ひどい幻覚があるって言えば、何かしらの対処をしてもらえると思うから。今ならまだ間に合うはず」

 たとえ夫を洗脳した相手でも、このあと明将の制裁が待っているとしても、何もせずに見捨てるのは性に合わない。でも私が連絡したところで、受け入れられないだろう。吉継の話なら聞き入れるかもしれない。

「祈はほんと、家でも仕事してるよね。職場にいるみたいだ」

 吉継は腰を上げ、しくじった私を残して自室へ消えた。

 胸に滲む痛みに溜め息をつき、バケツから足を引き抜く。寺本の洗脳が解けたところで、夫婦の問題まで解決したわけではない。温まった足をバスタオルで拭い、腰を上げた。

 バケツの湯をバスタブに流し、しくじったやりとりを反芻する。でもあそこで、何を言うのが正解だったのだろう。職場にいるみたい、か。

 拒絶するように閉められた部屋のドアを横目に、自室へ向かう。全てを放棄してベッドに寝転がりたかったが、まだすべきことが残っている。

 部屋へ入り、携帯を取り出す。生き延びたことを報告するために、明将を呼び出した。

「地獄帰りか」

「おかげさまで。ちょっと冷たい思いをしただけで済みました」

「返り討ちで半殺し?」

 私をなんだと思っているのか、さすがにそこまで暴力的ではない。

「してませんよ。胸倉掴まれて滝壺に沈められそうになったので、掴み返しただけです」

「普通の奥さんは、そこで掴み返さないんだよなあ」

 笑う明将に苦笑する。でもあそこでやり返さなかったら、やられっぱなしで沈んでいたかもしれない。殴られたら殴り返すくらいの覚悟はあった。

「吉継さんの洗脳も解けたので私達はもう引きます、が」

 吉継が勧めたところで、寺本が素直に病院を受診する可能性はどれくらいか。突っぱねて自滅する最期は十分考えられる。明将はいけ好かない相手だが、手を汚さなくて済むならその方がいいだろう。黙っているのは、やっぱり性に合わない。一息ついて、胸を整える。

「科学でまだ実証されてないもののオカルトよりは信憑性の高い話があるんですけど、聞きます?」

「俺がそれを聞くメリットは」

「寺本の件で、手を汚さなくても済むかもしれません」

 そこは有耶無耶にしておきたかったが、仕方ない。白状した私に、明将は意味ありげな間を置いた。

「分かった。ひとまず聞いておこう」

 受け入れた明将に、和徳の推理と現在の状況について一通り説明する。明将は時折質問を挟みつつも、これまでになく真面目に聞き遂げて溜め息をついた。

「つまり祈は、トキソプラズマ症による暴走であれば、俺が手を出すまでもなく寺本が自滅すると考えているわけか」

「はい。ただ検査結果が出ていないので断定はできませんし、寺本に関しては病院へ相談するよう吉継さんに連絡を頼んでもいます。だからそうでなくなる可能性は高いんですけど」

 中途半端な提案なのは分かっている。もし寺本が病院へ行って処置を受け元に戻ったら、結局手は汚さなければならなくなるのだ。

「敵を許すか」

「そんな立派なものじゃありません。寝覚めが悪くなることはしたくない、自己満足ですよ」

「祈らしいね。ただ、その提案はありがたいけど、俺は乗らないことにするよ」

 珍しく丁寧に返された辞退の言葉に、視線を上げる。レースカーテン越しの柔らかい冬の日差しが、窓際のサボテンを照らしていた。嫁ぐ前に株分けして来たクジャクサボテンと月下美人だ。クジャクサボテンは昼に咲き誇り、月下美人は夜にそっと花開く。幼い頃はこんな花が似合う女性になりたいと思っていたが、残念ながら無理だった。

「俺は、寺本に罰が当たればなんでもいいと思ってるわけじゃない。杼機を騙したことを後悔してもらわないと、意味がないんでね」

 そこまでして、と返しかけた口を噤む。杼機はそこまでしてでも保つべき家なのだろう。

 杼機が潰れたら、少なくとも沢瀉町の医療と介護、保育は壊滅する。中山間地域の田舎町ながら適切なサービスを提供できているのは、杼機が収める税金と寄付があるからだ。市内へ出てきて、介護職員や保育士の給与水準の低さと離職率の高さに驚いた。沢瀉町では高給で離職率の低い職業だから、常に供給過多の状況が続いている。生活保護を受けている世帯の割合も、県内で一番低い。数少ない、富める田舎だ。でも新聞もテレビも、取材に来ることはない。みな、あの豊かさが町おこしや改革によるものではないと知っているからだ。

 一方で、町では年に数人、ニュースにもならない行方不明者や他殺体が出る。全てが杼機によるものなのかは知らないが、町民はみな「杼機の罰が当たったんだろう」と暗黙の了解で受け流していた。それが沢瀉町の「日常」だ。あの町は、良くも悪くもぬるま湯に浸かっている。

「分かりました。そこは矜持の問題でしょうし、私にも守りたいものはあるので」

 私が今ここで楯突けば、皺寄せは間違いなく譲へ向かう。それだけは避けなければならない。ふと胸を突く感情を抑え込み、息を吐いた。

「理解が速くて助かるよ。ま、トキソプラズマの検査結果が分かったら連絡して。祈がおかしくなってる理由は知っときたいから」

 理由に苦笑した時、電話の向こうで子供の声がした。

「じゃあ、切るよ」

「はい。すみません、お休み中に」

 答えて通話を終える。携帯を置き、椅子に腰を下ろした。

 明将のところは二人、四歳と二歳の娘がいる。明将の血を引いたとは思えないほど愛らしい。それでも杼機の家に必要なのは、跡継ぎになる直系男子だ。義姉は三人目を妊娠中だが、産まれるまで産ませ続けるのだろうか。既に義姉の実家が肩身を狭くしているような噂も聞いている。羨望の裏にあるのは、強烈な嫉妬だ。家族を喪った我が家を、陰で笑っていた奴らがいるのも知っている。

 一度、全て燃えてしまえばいいのに。

 叶ってはならない願いを眠らせて、腰を上げた。



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