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第35話

 結果は約一週間後、陽性ならいつ頃感染したのかも分かるらしい。自分の方は、ひとまず目処が立った。

 『何が必要だ』

 『鹿肉をトキソプラズマ検査してくれる場所を紹介してください』

 『理由は』

 『我が家の事件を引き起こした原因について、確かめておきたいことがあります。警察を通すと杼機にバレます』

 『了解。10分待て』

 『ありがとうございます。よろしくお願いします』

 持つべきものは信頼できる上司だ。おそらく融通をつけてくれる先は県の家畜衛生保健所か、大学の農学部だろう。どちらにしても、個人が突然持ち込んで受け入れてくれるような場ではない。あの頃、雪崩のような「やり直し」にめげず食らいついておいて良かった。

 携帯を手に挟んで笹井を拝んだあと、鹿肉の残りを確かめに冷凍庫へ向かう。今年の初物となった鹿は、十一月二十二日に仕留めたものだ。全てはこの。

「いのぉりぃぃ……」

 久しぶりの声にびくりとして、おそるおそる振り向く。そこにいたのは、あの黒い化け物達だった。今日は私と同じほどの背丈まで伸びているが、一体だけではない。重なり合って、十体近くいる。相変わらずくるくるとよく回る顔には、目を背けたくなるものが張りつけられていた。寺本の施術で襲われた幻覚と同じ、引き剥がされた顔の皮だ。頭が動く度に歪む皮は、笑っているようにも苦しんでいるようにも見える。両親と祖母、朝岡、岸川、惣田……分からない顔は、水薙町の放火で亡くなった女性達か。

 もしトキソプラズマではなく呪いだとしたら、なんの呪いなのか。化け物達があの時の奴らだとして、何を呪っているのか。

 後ずさる私に呼応するように、黒々とした足が近づく。

「どうしてなの、どうして私に憑いてるの。何を呪ってるの?」

 これまでの経験で話ができないのは分かっているが、このまま殺されるのはやり切れない。殺されるのならせめて、何か一つだけでも明らかにしてからだ。

「おくれぇぇぇ」「おくれぇぇぇ」

 重なり合う声は私の名前とそれだけだ。だめだ、やはり通じない。理性がないのかもしれない。私の本能が生み出している幻覚なら、さもありなんだが。

 一様に手を伸ばしにじり寄ってくる群れに、あとずさる。ちらりと作業台を眺めるが、きれいに片付けていて投げつけられるようなものはなかった。それに、投げつけたところで向こうの数が多すぎる。反撃されたら、終わりだ。

 もう一歩下がろうとした足が、冷凍庫を見つける。ふと脳裏をよぎった考えに、振り向かないまま冷凍庫を開けた。

 鹿肉を食べたせいでおかしくなっているのなら、何か反応するだろうか。

 とりあえず掴んで持ち上げた鹿肉に、化け物は一斉に翼を広げてけたたましい鳴き声を響かせる。ギィィィィ、と劈くような声が辺りに満ちた。

 怖い。

 これまでにない反応に恐怖を感じた瞬間、体が固まり足が竦んでしまった。ああ、だめだ。恐怖を認めてしまった。噴き出す冷や汗に、体中が震え始める。がちがちと音を鳴らす歯を食い縛ることもできず、呻くような声を漏らす。視界が曇り、涙が溢れる。

 逃げなければ、離れなければいけないのに動けない。肉を投げればいいのに、肉を掴んだ手は震えてまるで言うことを聞かなかった。

 動け……動け!

 かつかつと爪音を立てて迫る群れに、ようやくぎこちなく腕が動く。しかし肉を放り投げるより早く、フクロウのような大きさになった一体が腕にとまった。以前は肩だったが、今日は腕に爪が食い込んでいく。母の顔を貼りつけた化け物は覆い被さるように体を折り曲げて、私の間近で頭を回した。

「どうして、お母さんを」

「おかぁさん」

 はっきり返された声に、戦慄が走る。あの時の、化け物か。見上げた私に化け物はにたりと笑い、手を伸ばす。いのりぃ、と掠れた声が私を呼んだ。私に取り憑いていたのは、こいつなのか。

 近づく手から逃れ、持ち直した肉を群れに向かって投げる。途端、化け物達は勢いよく肉へと向かった。腕に乗っていた化け物も、すぐに群れの方へと飛び込んでいく。真っ黒な、塊だ。

 不意に鳴り響いた携帯の音に、意識が揺れる。気づくと、携帯を手に突っ立っていた。冷凍庫はまだ向こうにある。当然化け物も、投げた鹿肉もない。また幻覚、か。

 涙の跡もない顔をさすりつつ、思い出して着信に応える。相手は笹井だった。

 通話しつつ確かめた時計は二時十五分。まだ十分は経っていないが、確実に時間は流れている。呪いか、トキソプラズマか。検査をすれば明らかになる。

 あの鹿肉を食べて異常が起きていないのは、もう吉継だけだ。私がこれほど幻覚に襲われているのに何もないのは、吉継は既にトキソプラズマに感染しているからではないだろうか。それも、やがて明らかになるだろう。



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