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第32話

 今日は金曜日だから学校はあるはずだが、サボりか。矢上は知らない気がする。

 和徳は礼を言って差し出したコーヒーを受け取り、一口飲んだ。今日も前回と似たような黒っぽい服装だったが、首元にヘッドフォンはない。母親の状況と火事のいざこざで、疲れているのだろう。顔色はあまり良くなかった。

「すみません。待ちきれなくて、こんな時に来てしまって。怪我の具合、どうですか」

「大丈夫だよ。きれいな切り傷だからすぐに塞がって、来週には抜糸できるみたい」

 そうですか、と答えたあと、和徳は少し迷うような表情を浮かべる。矢上には話していないらしい、単身での訪問だ。

「前回も話したけど、これは私が勝手に作った傷だから。お母さんを責めるつもりはないよ」

「ありがとうございます。でも、そうではなくて……加害者の立場で、すごく失礼なことを言うんですけど」

 和徳は向かいのソファで口ごもったあと、気持ちを落ち着けるようにコーヒーを口へ運ぶ。私も、自分のマグカップを傾けた。きっと、思うところがあるのだろう。私にできるのは最後まで逃げずに話に付き合うことくらいだ。

 あのCDになんの効果もないと分かった以上、寺本の言い分を全て信じることはできない。でも今、残る可能性は寺本が語った呪いしかないのだ。私に憑いているあの化け物達が、何らかの理由で私の縁を辿り周りを無作為に呪っているとしか思えない。朝岡達が死んだのも、絵美子にあんな行動を取らせたのも、私の家族を四人奪ったのも。

 松前に頼んだ件は別として、不本意だが寺本の暴力的な儀式を受けるしかないのだろう。頼れるのは、寺本しかいない。神主は祓えなかったし、通夜を頼んだ菩提寺の住職も知ったような口で慰めるだけだった。

――悪いものなど、何も憑いておられませんよ。気高く美しい魂です。

 憔悴した私に掛けられた声は穏やかだったが、残酷でもあった。

「母には、確かに気性の荒いところがあります。でも、こんなことをする人ではないんです。言い訳っぽいけど、本当なんです。事件の前から、急におかしくなってたっていうか」

 まっすぐそこへ切り込んできた和徳に、コーヒーが紋を打つ。

「それは、矢上さんにも聞いてたよ。近所がごたついてて、少し苛ついてるみたいだって」

「そうです。でもそれも、今考えてみるとちょっとおかしいところがあって」

 言い逃れをするわけではないが、ここで全てを打ち明けても救われるとは思えない。たとえ呪いが事実だったとしても、証明できないのだ。私が原因だとしても、責任の取り方が分からない。

「放火した家のおばさんにもされた家のおばさんにも、俺と同じくらいの子供がいます。小さい頃から家族ぐるみで家を行き来してる、仲のいい人達だったんです。事件の前にその二人が取っ組み合いのけんかをしたらしいんですけど、とてもそんなする人達じゃなかった。放火を含めてどうしてなのか、どっちの家の友達も本当にわけが分からなくて呆然としてて。ただどっちのおばさんも、けんかする少し前からやっぱり様子がおかしかったって」

 「おかしくなっていた」のは、絵美子だけではなかったのか。呪いならなんでもありだと投げ出していたが、もしかしたら何かの法則があるのかもしれない。

「聞いた話をまとめてみると、けんかしたのが先週の水曜日で火曜日にはもうおかしかったって。うちも確かにそれくらいだったんです。いつもは弁当箱出し忘れてたら『出せよ』って言われるくらいなのに、その日は包丁持って部屋に乗り込んできて『誰が作ってやってると思ってんだ』ってキレて。目が血走ってて、俺を見てるのに見てないみたいな感じでした」

「けんかした二人は?」

「ちょっとややこしいんで、AさんBさんってします。Aさんはクラブチームのコーチにすごい馴れ馴れしく迫って、慌てて引き剥がしたって言ってました。酒飲んで迎えに来たのかと思ったって。Bさんは同居してるばあさんにすごい剣幕で怒鳴り散らすとか家族に物投げるとか、血の気が多い感じだったみたいで。この二人、けんかしたあと放火騒ぎを起こしてるんです。Bさんが、Aさんの家に放火しようとしたんですよ。放火は未遂だったから大事にしないようにって近所で話し合って示談にしたのに、放火されかけたAさんが警察にチクってしまって。それで『なんで言ったんだ』って周りに責められたAさんが、Bさんの家に放火してBさんや家族を殺して自殺って流れです」

 責められた腹いせに放火、は確かに普通ではない。そのあとの焼身自殺もだ。

 でも絵美子や彼女達に私の呪いが降り掛かったのなら、なぜ矢上は逃れたのか。顔も見たことのない彼女達より、よほど近い。朝岡達はみな男性だから、性別で振り分けたわけでもないだろう。

「それで何か変わったことがなかったかって母の行動を辿った時、思い出したんです」

 切り出した和徳は、真剣な視線で私を見据える。頷く私に、傍らのデイパックからファイルを取り出す。中から数枚の紙を引き抜いて、私の前に並べた。

「母達は月曜日の昼に集まって、杼機さんにもらった鹿と兎の肉を食べていました。で、これです。ジビエ料理の注意点」

 並べられた数枚の資料は、ネット記事をプリントアウトしたものだった。ただ、読まなくても大丈夫だ。

「私は幼い頃から獣肉を食べて生きてきたから、注意点はよく知ってる。E型ウイルスやトキソプラズマの感染、食中毒を防ぐためによく火を通して食べてって、差し上げた肉にもメモをつけておいたくらい」

「そうですか。じゃあ、『トキソプラズマ感染が人の性格を変える可能性がある』って話は、知ってますか」

 それは、初耳だ。

 トキソプラズマは寄生虫の一種で、人間だけでなく多くの哺乳類や鳥類に感染する。日本では豚の感染例が多いが、鹿や猪、鴨でも十分考えられる。人への感染は、感染した動物の肉を加熱不十分なまま食べたり猫の糞に触れたりすることで起きる。健常者が感染しても多くは目立った症状なしに慢性感染へと移行するが、免疫力が低下している人が感染すると重篤な症状を引き起こすことがある。確か、妊娠中も注意が必要だったはずだ。

 ただ、別に珍しい感染症ではない。日本はもちろん、世界中に蔓延している感染症だ。もし感染した人間の性格が変わってこんな事件や事故を起こしていたら、とんでもない騒ぎになっているだろう。

「これ、読んでみてください」

 和徳は並べたうちの一枚を手に取り、差し出す。頷いて手にとった。

 『トキソプラズマは自身の生存と繁殖のために、宿主の性格を変えて行動を変化させている』、か。

 大前提として、トキソプラズマの有性生殖はネコ科動物の腸管上皮内でしか成立しない。そのため、トキソプラズマの繁殖サイクルにはネコ科への感染が必須とされている。説曰く、トキソプラズマは猫の捕食対象であるネズミに感染して脳を操り、不安や恐怖を感じにくくさせているらしい。猫への警戒心を薄め、猫に「食べられやすくしている」のだ。

 要は、それと同じ働きが感染した人間の体でも起きているが「今は紐付けられていないだけ」ということか。

 俄には信じられないし、オカルトや都市伝説の類にも思える。でも、科学的な実証を目指して大学などで研究が続けられている説らしい。今後更に実証が進めばトキソプラズマ症の治療が見直され、国内でも積極的な治療が行われるようになるかもしれない。

「こんなの、よく知ってたね」

「俺、生物が好きで。こういう記事、よく読んでるんです」

 私はほとんど読まない系統の記事だ。トキソプラズマ症は知っていても、基本的な知識しかなかった。

「俺は、母達が加熱の重要性をちゃんと理解せず、中途半端な焼き具合で食べたせいでトキソプラズマに感染したんじゃないかと思ってます。乱暴なのは分かってるけど、それくらいしか可能性がなくて」

 俯く和徳を前に、過去に記憶を馳せる。

 セミナーメンバーがバーベキューをしたのは、十一月末だ。そのあと岸川、惣田、朝岡の順にBRPの関与を疑うほどのおかしな行動を見せて、死に至った。中でも朝岡は、二回獣肉を食べている。絵美子と共通しているのは、鹿肉か。

 ただ吉継も、冷凍と加熱の重要性はよく分かっているはずだ。トキソプラズマの不活化には肉を中心部をマイナス十二度になるまで凍らせるか、中心部が六十七度以上になるまで加熱する必要がある。

 吉継はそのために冷凍庫をマイナス六十度設定ができるものを購入したし、加熱不十分なものを彼らに食べさせるほど不注意ではない。何かの偶然が重なってしまったのか。

 矢上に肉を渡したのは十二月四日の金曜日。月曜日の昼に三人が食べて、火曜日の夜にはおかしな様子が見えていた。それと。

――そうだ。うちもこの前吉継くんにもらった鹿肉があるから、それいただくわ。じゃあね。

 あれは、惣田が来なかったセミナーの日だから、十二月六日か。

「ちょっと待っててね、確かめたいことがあるの」

 すぐに腰を上げ、携帯を手に寝室へ向かう。呼び出した譲は、すぐに応えた。

「どうしたの?」

「ちょっと思い出して欲しいんだけど。十二月六日日曜日のお昼ごはん、鹿肉じゃなかった?」

「え、昼ごはん?」

 面食らった様子の譲は、小さく唸った。母は面倒くさがりで、下処理をあまり丁寧にしなかった。都会の出であまりピンとこないのか、寄生虫やウイルス対策を軽んじているところもあった。多分、絵美子達と同レベルだったはずだ。

「分からない。俺、土日はほぼ友達と遊びに出てるから食わないし」

 食べていない。一歩近づいた仮説に、唾を飲む。

「おじいちゃんは、食べてた?」

「いや、食べてないんじゃない? 日曜の昼なら猟で握り飯じゃん」

 ああ、そうか。祖父はシーズンになると日曜日に猟へ出掛けて、昼は家で食べない。食べたのは両親と、祖母。

 繋がった。

「昼ごはんが、どうしたの?」

「ごめん、今はまだ言えない。きちんと説明できるようになったら、改めて話をするから。ありがとう」

「いいけど、頼むからもう大人しくしててよ。明将さん、姉ちゃんのこと『整田の暴れ馬』って言ってたよ。毒を食わせてでも大人しくさせろって」

 予想できなかった反応ではない。祖父母と両親が死んだ今、大人しい譲と大人しくない私の差が際立つようになった。町の恙ない運営に、私は明らかに邪魔な存在だ。

「いよいよ殺して厄介払いしたいわけね」

「いや、『どうせ腹が痛くなるだけだろ』って言ってた」

 あいつ、と思わず漏れた悪態に、譲は久しぶりに笑った。

「あの人、姉ちゃんのことすげえ認めてるよ。だから今回のことも、こんなに助けてくれたんだと思う。普通なら吉継くんに離婚させて、家ごと切り捨ててる」

「まあね」

 と答えたものの、譲の考えはお人好しすぎる。実際のところは恩を売っておきたいだけだろう。最終的に私に飲ませたいのは多分、自分が町長になった時の秘書だ。不義理はしたくないが、なりたくはない。どうしたものか。まあ、それは全て片付いてからだ。

「ごめん、ばたばたしてるとこ。ありがとう」

 礼を言い、通話を終えた。

 これで、トキソプラズマ症の可能性は少なからず高まった。でも私の幻覚も、トキソプラズマのせいなのか。岸川の死について話し合ったあの通話は、スマートスピーカーから聞こえたあの音声は。朝岡と絵美子の胸を貫いたあの手、化け物は。トキソプラズマは、超感覚まで操るのだろうか。

 確かめたクローゼットの扉は、大きく開け放たれていた。化け物が全て出払ったあとなのかもしれない。犠牲者は、もう出ないのか。

 リビングへ戻り、待っていた和徳の向かいに再び座る。

「実は、矢上さんに差し上げた鹿肉と同じものを、夫が私の実家へお裾分けしてたの。母は十二月六日日曜日の昼に、その鹿肉を使った料理を作った。食べたのは両親と祖母で、そのあとから普段なら考えられない諍いを起こすようになってた。そして、十一日の夜に事件が起きたの。祖父は三人の変化に耐え難いものを見て撃ち殺したあと、自殺した。私が怪我をして、和徳くん達の町で火事が起きた頃にね」

 和徳は奇妙な偶然で結びついた二つの事件に目を見開いたあと、俯いた。

「じゃあ、どうすればいいんですか。どうすれば母を」

「落ち着いて。とりあえず、同じ鹿肉を食べた私の血液検査をしてもらってトキソプラズマに感染しているか調べるの。一緒に、食べた鹿肉も調べる。一つ一つ、可能性を確かめていくの」

「俺、母にトキソプラズマの検査ができないか、病院に聞いてみます」

 デイパックを手に、ごちそうさまでした、と和徳は腰を上げる。逸る気持ちを抑えられないのだろう。ただ、まだ事実は何も明らかになっていない。

「友達には、ちゃんと結果が出るまでは秘密にね。ただでさえ、つらい時だから」

「はい。あ、そうだ。連絡先、教えてください」

 思い出したように取り出された携帯に、私も応えて取り出す。更新された最年少の連絡先を確かめて、若い背中を見送った。



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