「何やってんの?」
差し込まれた声に、絵美子はびくりとして再びナイフを構え直す。ああ、だめだ。タイミングが悪い。キキ、と化け物の笑う声がして唇を噛んだ。
「和徳、今はこっち来るな」
「え? 何?」
面食らうのも無理はない。ひとしきり趣味の話に花を咲かせて戻ってみたら、修羅場が待っていたのだ。
「祈!」
事態を把握したらしい吉継がキッチンへ駆け寄る。一番避けたい悪手だったが、私が下手に指図はできない。絵美子は自分と吉継が恋人だと思いこんでいるのだ。
「大丈夫だから、今は」
「この女が、私達の仲を邪魔してるんでしょ。こいつさえいなければ、結ばれるのよね?」
ナイフを私に向けたまま、絵美子は陶酔した表情を吉継へ向ける。吉継はすぐに、はっきりとした蔑みを浮かべた。吉継には自分の金目当てでおかしくなったように見えるのだろう。最も嫌うタイプの相手だ。
「祈の大切な友人だと思ったから、手厚くもてなしたのに」
「違うの、吉継。ここは私に」
「気安く名前を呼ばないで!」
遮るように叫んだ絵美子が、一歩踏み込む。すぐ傍まで迫ったナイフに、全身が震え始める。できれば悲鳴を上げて逃げ出したいが、興奮させてそれこそ刺されるのがオチだ。落ち着け、私も絵美子も無事でなければ意味がない。
「分かりました、ごめんなさい。気安く、彼の名前を呼ばれたくなかったんですね」
繰り返した私に、絵美子は頷く。話を聞いていると伝えるためには、繰り返して確かめるのが一番早い。
「絵美子さん、聞いてください。もし今私を刺してしまったら、あなたは捕まります。捕まってしまったら、当分彼と結ばれることはできません。結ばれるには、手順がありますね。あなたの望む状態を、教えてもらえますか」
「……結婚、結婚よ!」
「結婚ですね。それなら、私が生きて離婚届に判を押した方が、あなたが私を刺して刑務所へ入って出てくるより早くできますよ。どちらがいいですか」
今は事の真偽はどうでもいい。二つの道を提案した私に、絵美子は少し迷う表情を見せた。滴り落ちる血は、既に血溜まりとなって床を覆いつつある。全てが幻覚だと信じたいが、どうなのだろう。おくれぇ、とまた掠れた声がした。
「もし最初の方がいいと思うのならナイフを置いて、キッチンではなくリビングで話し合いましょう」
切り出した決定打に、絵美子は確かめるように吉継を見る。ただ吉継は、妻を殺そうとしている一番嫌いなタイプの女性に愛想笑いができるほど器用な男ではない。
「……あなた、私が死んだ方がいいと思ってるのね。こんな女より私の方が、ずっと愛してるのに!」
「だめです!」
自分へ向けてナイフを持ち替えようとした絵美子に、慌てて手を伸ばす。振り回された切っ先が宙に煌めき、化け物の笑い声がした。
「祈!」「杼機!」
「大丈夫!」
同時に響いた声に返し、押さえた手のひらを心臓より上に掲げる。痛みは感じないが、指の隙間から滴り落ちる血は本物だ。
絵美子はそれを見て我に返ったのか、短く悲鳴を上げてナイフを落とす。背後にいた矢上がすかさず絵美子を取り押さえるのを待って、ナイフを奥へと蹴った。
「救急車を呼ぶよ」
「だめ、止血して夜間救急に行く。タオルを持ってきて」
救急車を呼べば、状況的に警察を呼ばれる可能性もある。絵美子のせいではないのに、逮捕させるわけにはいかない。
走り去った吉継がタオルを持ってくるうちに、言っておかなければならないことがある。
「何やってんだよ、母さん!」
悲痛な声に視線をやると、和徳が羽交い締めにされた絵美子のポケットから腕時計を取り出していた。テーブルの上に置かれた腕時計は四つ、吉継のコレクションだ。遅かったのは、寝室へ忍び込んでいたからか。
「あの女が全部悪いの、私からあの人を盗ったの」
「いい加減にしてくれ、頼む、絵美子」
泣きそうな声で宥める矢上に、唇を噛む。しかし二人に挟まれる形でまだ、化け物はそこにいた。「なぜ」は、あとで考えればいい話だ。
「これは私が自分で怪我したことにします。肉を捌いている最中に切ったとでもごまかしますから、そちらも口外はしないでください」
「でも」
「いいんです。それより、絵美子さんの方が心配です。落ち着かれるまで、絶対に目を離さないでください。こうなった反動が、必ずあるはずですから」
朝岡がどんな心境で自死を選んだのかは分からない。でももし幻覚が解けて全てを自覚したのなら、凄まじい絶望に襲われたはずだ。
再び姿を現した吉継からタオルを受け取り、巻きつけて強く手で押さえる。
「吉継、病院に行く準備をして、譲に連絡して矢上さん達を送るように言って」
アドレナリンが噴出しているのか、体中が熱くこめかみを汗が伝う。恐れや不安はなく、いつも以上に頭が回転していた。今すべきことが、雪崩のように頭の中に流れ込んでくる。
「タクシーだと話が漏れますし、何かあった時に迷惑が掛かりますので弟に送らせます。身内の方が楽ですし、あの子は口が堅いので」
指示に頷き、携帯を手に再びリビングを出た吉継に一息つく。ふと気づくと、あの化け物が消えていた。ただ絵美子の胸には、はっきりそれと分かる痕が残されている。
自覚してしまったのだろうか。さっきまで興奮状態だった絵美子が、今は青ざめて俯き震えていた。このあとが問題だ。
不意に響き始めた音に視線をやると、テーブルで矢上の携帯が揺れていた。
「父さん、じいさん」
「立て込んでるからあとでかけ直すって」
うん、と答えて和徳は携帯に応える。カズだけど、うん、え? と続いた言葉に視線をやる。和徳は不安そうな表情で矢上を見た。
「うちの町区で火事だって。じいさんがお前らは大丈夫かって」
「市内に出てるから大丈夫だって言ってくれ。これから帰る」
大人しくなった絵美子の拘束を緩めながら、矢上は渋い表情で返す。
「いやな予感が当たったかもしれねえな」
低い声で漏らしたあと、溜め息をついた。不幸は重なる、のだろうか。タイミングが良すぎる気もする。
――先生は、祈から呪いが伝播してるって言ってた。元凶は、祈だって。
まさか本当に、呪いなのか。
「祈、行こう。譲くんもOKだって」
戻ってきた吉継の声に、意識を現実へ据え直す。今はこっちだ。
「人に見られない方がいいので、矢上さん達は先に下りてください。玄関前で待っていたら弟が迎えに来ると思います。私達は裏から出ますから」
「分かった」
矢上は頷いたあと、杼機、と短く私を呼んだ。
「また改めて話をさせてもらうけど、本当に申し訳なかった。それと、ありがとう」
深々と頭を下げた矢上に続いて、和徳も頭を下げる。
「気にしないでください。私は丈夫にできてるので。それより、絵美子さんのフォローをお願いします。絶対に目を離さないように」
虚ろな目でぶつぶつと呟く絵美子に湧くのは不安だ。しっかりと頷いた矢上達がリビングを出て行くのを見送り、長い息を吐く。
「ごめんね、こんなにもてなしてくれたのに」
「そんなの気にしてる場合? 切られたんだよ」
眉を顰める吉継に苦笑する。それでも、あの化け物が見えたことは言うべきではない。言えば間違いなく呪いの仕業にされてしまう。でも、そんなはずはない。あれはBRPの仕業だったはず。
「祈は許すんだろうけど、僕は許さないからね」
「それでいいよ。私も逆だったら、許せないから」
自分にできないことをしろと言うつもりはない。行こうか、と促した私を引き止めて吉継は抱え上げる。
「たまには夫らしいこともさせて」
一瞬戸惑ったあと、頷く。このまま外へ出るのは恥ずかしいが、今は甘えておくべきだろう。私に欠けているのは「かわいさ」だ。
「ありがとう。重くない?」
「大丈夫。猪の半分くらいでしょ」
猪と比較されても嬉しくないが、我が家らしい。小さく笑い、コートの肩に頭を預けた。