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第19話

 昨日休んだことを理由に、今朝はいつもより早く家を出た。まだ職員の少ない課へ入り、気遣う言葉に礼を返しつつ席に着く。早速確かめたメールボックスには、予想どおり松前からの一通が届いていた。協力を申し出る力強い言葉に感謝し、現状と問題点を箇条書きで連ねる。最後に、次からの連絡先として携帯のメールアドレスとメッセージアプリのIDを添えて返信した。

 あとは、日曜日の儀式をどう潰すかだ。「行きたくない」が通じない以上、吉継達が断念せざるを得ない理由を作らなくてはならない。

 あのCDの望ましい鑑定結果があれば一番だろうが、鑑定会社数軒に見積り依頼をメールで送ったばかりだ。さすがに日曜日には間に合わない。

 ほかに考えられる手で平和なものは、断れない相手に呼び出してもらう、くらいか。実家なら間違いないが、私が選びたくない。

――どうしても無理なら、戻ってきなさい。うちのことなんて気にしなくていいから。

 施術中に見た幻覚に怯えて思わず電話してしまった私の状況を、母は恐ろしい精度で射抜いた。どうにかごまかしたが、なぜ何も話していないのにバレてしまうのか。今会えば、打ち明けざるを得ない状況に追い込まれる可能性が高い。幸せを装うのもつらいが、今の状況は情けなくて申し訳なくて親にはとても言えない。

 となると、融通が利く相手は一人だけだ。できれば死ぬまで頼りたくなかったが、背に腹は代えられない。昼にでも連絡するか。

「おう、出てきたな。大丈夫かよ」

「はい、おかげさまで。ご迷惑お掛けしました」

 いつもの時間に現れた矢上は、私の机に栄養ドリンクを置く。高そうな、箱入りのやつだ。

 昨日、帰宅後に以前予約した精神科へ電話して急患に切り替えてもらえないか相談した。平日だったせいかすぐに受け入れられ、吉継には「気晴らしをしてくる」と嘘をついて受診した。情報の秘匿を約束する医師に、サブリミナルCDとこれまで襲われた幻覚について全て話した。幼い頃に山で迷った件と併せて自分が考えている可能性について話すと、医師は興味深そうに聞いていた。ただ結局、これといった病名を与えられることはなかった。診察前に受けた心理テストの結果は全く問題なく、抑うつや社会不安の傾向もないらしい。ついでに相談する形になった暗所恐怖症は、むしろ「十分に克服できている」と判断された。処方された薬も不安を感じた時用の抗不安薬一種のみ、「CDは捨てなさいね」で終わりだった。

 あの小さな粒より、こっちの方がよっぽど効きそうだ。

「これから忙しくなるからな。景気づけだ」

「ありがとうございます、いただきます」

 私を疎み排斥しようとする人もいるが、こうして支えてくれる人もいる。「杼機の嫁」としてではなく、私の仕事を正しく評価してくれる人達だ。

 事実を告げられない申し訳なさはあるが、巻き込みたくはない。手に取った箱を開け、早速栄養ドリンクを取り出す。

「これ、矢上さんのお気に入りですか」

「おう。俺は十二月と三月をこれで乗り切ってるわ」

 矢上は椅子に座り、年季の入ったランチジャーを机の上に置いた。今日の昼食は、喫茶店からサンドウィッチでも頼むか。あまり食欲がない。

 漢方薬のような香りを漂わせる瓶を傾け、一気に飲み干す。甘めだが、後口には漢方の風味が残った。効きそうな味だ。

「あ、あと嫁が近所の連中と一緒に肉食って旨かったってよ。御礼言っといてくれって」

「良かった。じゃあ金曜日は近所の方の分も用意しておきますね」

「そこまで気を使わなくていいぞ」

 苦笑する矢上に頭を横に振りつつ、空いた瓶に封をする。全く以て気遣いではない。

「いえ、むしろもらっていただきたいんですよ。あの人、三ヶ月で一年分以上の獣を仕留めてくるので。今日も猟に行くって言ってたから、また在庫が増えます」

「すげえな、銃だろ」

「鹿や鴨は銃ですけど、食べる猪は罠で捕れたやつですよ。猪は出会ってしまったら殺るか殺られるかなので、銃じゃきれいに殺すのは無理なんです」

 内蔵を撃ってしまったら、臭みでもう食用には向かない。でも猪の場合はそんなことは考えていられないのだと祖父が話していた。

「お前が『殺るか殺られるか』って言うと、ぞくぞくするな。変な扉が開きそうでやばい」

「閉じといてください」

 今度は私が苦笑して、瓶を空き箱へ戻す。ひとまずバッグへ突っ込み、昨日の引き継ぎから取り掛かった。



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