「大丈夫ですか」
跳ね起きた私に、寺本はわざとらしく驚いたような声を出す。噴き出す汗を拭い、荒い息を吐く。震える手で、ブレスレットのうるさい腕を掴んだ。
「何をしたんですか、私に。私の家族に!」
凄む私に、寺本は驚いて目を見開く。
「今、あの化け物が炎の中で私の家族を啄む姿が見えました。あれが事実になるとか、まさか言いませんよね?」
「それは、まだなんとも」
「事実になるのかと聞いてるんです!」
遮って叩きつけた声が、辺りに響き渡った。寺本は苦笑しつつ、私の手を解く。細い顎に蓄えた髭を指の背で撫でつつ、唸るような声を漏らした。
「やっぱり、通常の施術では難しいですね」
「どうすればいいんですか」
久しぶりに口を挟んだ吉継が、不安げに尋ねる。私もこれまでになく狼狽えていたが、青ざめた吉継の表情に冷静さを取り戻した。落ち着け、あれも幻覚だ。汗の滲む顔をまだ震える手でさすりあげ、深呼吸を繰り返す。
「物理的に身を清めて居心地の悪い環境を作り出して、叩き出すしかありません」
「分かりました、どうすれば」
「ちょっと待って」
なんの疑いもなく受け入れようとする吉継に、慌てて口を挟む。それは、盛り塩などではないだろう。「叩き出す」はおそらく比喩ではない。
「すみません、先程は取り乱しました。ただ、そういう暴力的な儀式は不要です」
「わがまま言ってる場合じゃないよ。神社でお祓いしてもらっても効かなかったんだ、もう先生に祓ってもらうしかない」
「これ以上の犠牲を出さないためには、必要なことです。肉体は多少苦痛を感じますが、魂は必ず救われますから」
見据える寺本の目は、今日も変わらず澱んで心地悪い。でもそれは、私が憑かれているからなのか。無邪気に信奉する吉継には、あの目が輝いて見えるのだろうか。
「サブリミナル音源を起因とする幻覚に対する現実的な対処として、精神科を受診する予定です。そちらの物理的な対処は、せめてそのあとにしてもらえませんか」
「だめですよ、精神科なんて。行けば病名を与えられて、病棟に閉じ込められるだけです。薬漬けにされて、魂が汚れてしまう」
初めて眉を顰めて反駁した寺本に、思わず項垂れる。そんなことを本気で言っているのか。医療従事者のくせに、偏見が凄まじい。
「投薬は症状を緩和し治療するために必要な手段です。それに、私のように病識があって社会生活を送れる患者を強制入院させるとは思えません」
「薬に汚染されて魂の力が弱まれば、あなたは完全に魔物に飲まれてしまいます。私はあなたを救いたいんです、信じてください」
「先生は本気で祈を心配してくださってるんだよ。先生の言うことを聞いてよ」
切実な表情で訴える寺本に、吉継は迷うことなく追随した。
どうして、と尋ねるまでもないし反省もある。私だけが夢を諦めるのを反対したあの時から、吉継の気持ちは離れ始めた。一番理解して支えて欲しい相手が反対したのだから、当然だろう。言葉巧みな寺本なら、吉継の心の隙に滑り込むのは簡単だったはずだ。私が満たせなくなった器を、吉継は自ら寺本に預けてしまった。
一息ついて、施術台から下りる。
「あなたのためにも、もう犠牲者を出さないためにも早くした方がいい」
「今週末はどうでしょうか」
「そうですね、日曜にしましょう。院ではできませんので、また場所をご連絡します」
「ありがとうございます」
本人不在で進む話を背後に流しつつ、アンプへ向かう。傍らに並べられているのは、例のCDだ。『ドリームキャッチャー』と名付けられた不穏な一枚を手に取り、ブックレットの抽象的なデザインを眺める。裏面の下の方には、予想どおり権利関係と製造元の情報が細かな字で印刷されていた。
家にあったCDは早々にどこかへ隠されてしまったが、これでようやく情報を掴めた。
「CDを一枚、いただきますね。代金は義兄が振り込む金額に含まれていますので」
「敵を増やせば、孤独になるだけですよ」
振り向いて確かめた先で、寺本はバスタオルを畳みつつ苦笑する。
「三人、亡くなっていますから。救えなかった無念に比べれば、孤独なんて痛みのうちに入りません。施術、ありがとうございました。先に外、出てるよ」
吉継に言い残し、コートを掴んで部屋を出る。あの幻覚も気になるが、今はできることをするしかない。
最初とは違う受付の男性に頭を下げ、ブーツのファスナーも中途半端なままドアを押す。寒風に身を竦ませながら壁際へ避け、まずはちゃんとブーツを履いた。
携帯とCDを取り出し、製造元のホームページを検索する。しかし一瞬で見つかったリンク先は、反応が遅い。ようやく切り替わったと思ったページには『404 Not Found』が表示されていた。ホームページが削除されているらしい。
慌てて調べた違うサイトで住所と電話番号を見つけるが、かけた番号は機械的な女性の声が既に使用されていないことを告げた。倒産したのかもしれない。寺本はそれを知っていたから余裕綽々だった、と考えるのはさすがに当てこすりが過ぎるか。
残された道は、CDの鑑定か。とりあえずサブリミナル音源に危険な文言が混じっていないかだけでも調べたい。検索窓に打ち込み掛けた時、ドアが開く。しかし慌てて携帯をポケットへ突っ込み迎えたそれは、吉継ではなかった。
今日は私と同じ背ほどに伸びた化け物が、頭を左右にくるくると回しつつ私を見つめる。大丈夫、幻覚だ。これもさっき受けた施術のせいだろう。
唾を飲み、震える息を吐く。私しか見えていない、誰にも見えていない化け物だ。しばらく待てば、これも消えるはずだ。
いのりぃ、といつもの掠れた声がくちばしの奥から漏れる。肘の辺りまで黒い羽根に覆われた手が、すう、と私へ向けられた。
「おくれぇ……やま…へ……かえ……」
これまでにない長さに、思わず丸い目を見据えてしまう。化け物は目を細めてにたりと笑った次の瞬間、大きく口を開いた。黒いくちばしの奥には黒い舌が、その奥には暗がりが拡がっている。嗅ぎ取れる血生臭さに息を詰めた。
これは、幻覚のはずだ。幻覚に喰われるなんて、あるわけがない。そんなわけが。
突如鳴り響き始めた音に、目の前を暗く塞いでいた闇が霧散する。晴れた視界の先では、一定間隔でブザーを鳴らし続ける車と、右往左往している女性がいた。あの、前回受付にいた女性だ。
「大丈夫ですか」
「なんか、急に鳴りだしちゃって、どうしたらいいんですか」
焦る女性は半泣きで、私に尋ねる。クリーム色の軽自動車には若葉マークが貼られていた。初心者か。
「大丈夫ですよ。ドアから一旦手を離して、キーでロックを外してみてください」
あ、と気づいた女性はドアハンドルから手を離す。握り締めていたキーを押すと、防犯ブザーはすぐに止まった。
「良かった、止まった! ありがとうございます。初めてだったので、パニクっちゃって」
「最初はびっくりしますよね。防犯ブザーなので、ドアをロックしたあとに衝撃を与えたりすると作動しちゃうんです」
私も似たようなことをして鳴らしてしまったことがある。大慌てで対処したあとは、どっと疲れた。
「なんか変なことしちゃったんでしょうね。すみません、助かりました」
汗を拭いつつ、女性が苦笑する。そうなのだろうか。前回の電話といい今回のブザーといい、救いのタイミングが良すぎる気がする。まるで何かが……でも、これは幻覚のはずだ。あの、と聞こえた声に気づいて視線を上げた。
「杼機さんの奥様、ですよね」
「はい、そうです。いつも主人がお世話になっております」
「いえ、こちらこそお世話になってます。すみません、突然なんですが聞いていただきたいことがあって」
院の方を一瞥したあと、女性は意を決したように口を開く。顔立ちにはどことなくあどけなさを感じるが、意志の強そうな目をしていた。
「先生に見えないものが見えるかどうかは分からないんですけど、杼機さんの信頼を利用してお金を巻き上げてるのは確かです。私『あの人はいくらでも出すよ』って言ってるのを、聞いたことがあって」
思わぬところから得られた予想外の証言に、胸がどくりと鳴る。やはり、私は間違っていなかった。見えているわけがない。あれは幻覚で、寺本はよく仕上がった詐欺師だ。前回会った時も、それを伝えたくて私を窺っていたのだろう。勝手な想像で失礼をしてしまった。
「教えてくれてありがとうございます。やっぱり、そういうことだったんですね。でもこれを話して、あなたは大丈夫ですか。もちろん名前は出しませんけど」
「いいんです。人を騙したお金を臨時ボーナスでもらっても、私は、嬉しくないので」
眉を顰め視線を落とした女性に納得して頷く。口止め料をばらまいたところで、買えない心はあるのだ。スカウトできるものなら即引き抜いて一緒に働きたい人材だが、彼女には彼女の役目がある。
そういうことなら、いろいろと聞かせて欲しい。しかし持ち出すより早く、玄関ドアの向こうに吉継の姿が見えた。急いでバッグの中を探り、名刺入れを取り出す。
「ごめんなさい、今は全てを話せないのでここにメールを」
差し出した一枚を女性は受け取り、県庁、と呟いた。
「はい、総務課です」
「働いてるんですか」
その返答は、「県庁で」という意味ではない。これまで何度となく与えられてきた反応だ。でも彼女の驚きは、いやな感じはしなかった。
「ええ、ばりばりの共働きですよ」
笑った私に、彼女も遅れて笑う。私だったら働かないわ、そこまでしてお金が欲しいの、とやっかみ半分の嫌味をぶつけられるのには慣れている。「金のためだけに働いているのではない」と言えば「良い御身分で」と返されるのが常だ。
「あ、私は
名字を聞き遂げた時、背後に影が近づく。吉継は松前と穏やかな挨拶を交わして、私を見た。
「どうしたの?」
「車の防犯ブザーが鳴って慌ててたから、手伝ってたの」
「おかげさまで助かりました。ありがとうございました」
松前は頭を下げ、玄関へと向かう。帰ろうか、と促す吉継に頷いてあとに続いた。
「日曜日の午前中に、お祓いしてもらうからね」
車に乗り込みながら、吉継は物の序でのように話す。もちろん従うつもりはないが、向こうだってそれくらい分かっているだろう。二人がかりで簀巻きにして連れて行くつもりかもしれない。
今日が火曜日だから、あと五日か。短すぎる期限で何ができるか分からないが、迷っている暇はない。ひとまず、急患扱いで精神科の受診だ。黙ったまま助手席へ乗り込み、松前の消えた玄関を見つめた。