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第12話

 吉継は夕食前に帰ってきて、言葉少なに私の用意した兎肉のクリームシチューを食べて自室へ消えた。話し合いたかったが、合わせようとしない視線に踏み込むのはためらわれて、黙って見送った。悔いがあるなら寺本ではなく私に話して欲しいのに、もうそんな願いも通じないような気がした。

 吉継が寺本を見限ればやり直せるかもしれないが、何年先になるのか分からない。それならもう終えてしまった方が、お互いに楽になるのではないだろうか。結婚二年で浮かんだ「離婚」の選択肢に、やりきれなさが募る。でも離れるなら、子供のいない今の方がいい。傷が、小さいうちに。


「ねえ、惣田さんから連絡きてないよね」

 部屋から姿を表した吉継が、少し不安げに尋ねる。

 吉継の投資セミナーは毎回、日曜朝十時から始まる。大抵は一つ講義をして寺本のところへ行き、戻ってきて昼食を挟んでもう一つ講義をする形だ。

 全て無料での提供だが、二つ条件がある。一つは「利益が出たら少しでもいいから社会へ還元すること」。もう一つは「無断欠席をしないこと」。守れなければ即脱落となるものの、吉継らしい緩い条件は難しくないはずだった。

「来てないよ。連絡してみた?」

「うん。メッセージも既読にならないし、通話は留守電になるし。何かあったんじゃないかと思って」

 惣田が岸川の訃報を知っているかどうかは分からないが、不穏なタイミングではある。惣田は、無断欠席をするようなタイプではない。三人の中で一番可能性がありそうなのは、亡くなったのに申し訳ないが岸川だった。

 あとの二人は完全なる体育会系で、その辺りはかなりきっちりしている。サボるとしても、理由をつけて詫びの電話を入れるくらいのマナーは弁えているはずだ。

「家に連絡があったら、すぐ教えて。出掛けてくるから」

 伏せられた出先に、思わず苦笑する。昨日の今日で、寺本のところだとは言いづらいのだろう。BRPのついでに、惣田が来ない理由も見てもらえばいい。

「分かった。お昼ごはんの準備しとくね」

 浮かんだ皮肉を押し込めて、笑みで返す。客のいる状況で無駄に緊張感を高めるのはよろしくない。

 一度自室に引っ込んだ吉継が、朝岡と共に現れる。岸川の訃報を知らなかった朝岡は、吉継の報告に絶句していた。

「すみません。ちょっと、いってきます」

「いってらっしゃい」

 吉継に続いて挨拶をした朝岡を見送る。まだ少し、顔色が悪かった。惣田が来ないことも、少なからず影響しているのかもしれない。朝岡なら、ちゃんと話せばBRPの怪しさを分かってくれそうな気はする。

 朝岡は、正確に言えば私の後輩だ。高校時代、剣道部で二年間ともに竹刀を振った。心身を鍛えるために道場へ入れられた私とは違い、朝岡は自ら選んだ道だった。

――俺、警察官になりたいんです。

 照れたように白い歯を見せて笑う朝岡に、似合うねえ、と言ったのを覚えている。朝岡は頭が良く考え方もまともで、正義感もあった。きっといい警察官になるだろうと思っていた。

 でも、叶わなかった。

 高三で受けて落ち、大学四年で受けてまた落ちたらしい。朝岡のことだから、勉強不足とは考えられない。おそらく身辺調査で引っ掛かったのだろう。自分のせいではない不合格だ。

 投資セミナーに申し込んだ理由は「篤志家になりたい」だった。利益が出ればそれだけ社会へ貢献できるからと話すのを聞いて、朝岡らしいと思ったのを覚えている。でもあの頃の朝岡なら、BRPなんて胡散臭いものにこんな簡単に乗せられただろうか。

 暗がりにしか転がらない思考を切り上げ、猪肉を漬けていた水を流す。臭みをきっちり抜いて食べるためには、猪肉にもそれなりの処理は必要だ。解凍を終えた塊を薄切りにしたあと塩水に漬けてまず三時間、真水で血が抜けきるまで水を換えつつ三時間漬ける。おそらくこの一回でもう大丈夫だろう。鹿肉の処理も昼前には終わるから、今日は猪鹿鍋にする予定だ。

 惣田が、無事に来ればいいが。

 ちらつくいやな予感を振り切って、猪肉を水に沈める。

「冬の歌をかけて」

 いつものようにスマートスピーカーに命じると、ノイズのような雑音が聞こえた。水を止め、リビングを窺う。うまく聞き取れなかったのだろうか。

「冬の歌を流して」

 もう一度はっきりと伝えても、雑音は途切れない。壊してしまったのか。手を洗って拭い、リビングへ向かう。人の声が聞こえた気がして、駆け寄った。

「……へ逃げたんです。『俺は金メダリストだ』って叫びながら。逃げ足速くて、追いつけなくて」

「クスリやってたのか」

「今、司法解剖に回して……」

 クリアに聞こえたのはそこまでで、再び雑音に代わる。やがて、何事もなかったかのように冬のポップスが流れ始めた。

 携帯の通話か、男性二人の声だった。「司法解剖」と言っていたから、警察かもしれない。

――「俺は金メダリストだ」って叫びながら。

 なぜ聞こえたのか、吉継との電話を思い出せば不思議なことはない。

 一宮では厄祓いのご祈祷を受けたあと、御札まで授かってきた。御札は早速、神棚へ収めてある。魔物なら、神仏の力が効くはずだ。

 状況的に考えて、BRPの仕業だろう。どんな仕組みかは知らないが、サブリミナル効果が幻覚を引き起こしている。でも今回の幻聴が前回と同じように、事実を伝えていたなら。いやな予感にカーディガンの腕をさすった。

 惣田は元陸上選手だ。インカレや国体でも活躍し、オリンピック強化指定選手にもなっていた。でも、膝の怪我で夢を絶たれてしまった。

 その経験からスポーツトレーナーへと転職して、今の夢は「アメリカへ渡ってトップトレーナーになること」だった。

「いの……りぃ……」

 背後から突然聞こえた声に、びくりとする。忘れるはずもない、あの声だった。強ばる体から汗が噴き出す。視線を落とした床には、私の薄い影が伸びる。そこへ少しずつ、違う影が重なっていくのが見えた。乾く喉に、ゆっくりと唾を飲む。

 岸川はレーサー、惣田は陸上。私に挫折した夢はないが、山での恐怖が人生を変えたことには違いない。BRPが反応しているのは、挫折か。岸川や惣田は、どんな幻覚に襲われたのだろう。

「おく…れええ……」

 「おくれ」? 初めて聞く言葉に、疑問が湧く。何を、と思った瞬間、影が大きく伸びて、何かが私の背後に立った。

「おくれ……」

 掠れる声は呟くように零したあと、私の背に触れる。震える全身を、汗が滴るように伝い落ちていく。

 尖った爪が掻くように触れているのは、心臓の辺りだった。大丈夫だ、これは現実ではない。ゆっくりと息を吐き、消えるように願う。私だってあの時よりずっと、強くなっているはずだ。吉継を探さなくても、一人で生きられるくらいには。

 突然鳴り響いた携帯の音に、顔を上げる。気づくと、背後の気配は消えていた。

 やっぱり、幻覚だった。そもそも昼間に出るはずがないだろう。まだ震える手をさすりあわせながら、キッチンへ戻る。震える携帯は、母からの着信を知らせていた。

 安堵しつつ応えた電話は、お歳暮の礼だった。

「杼機さんから今年も立派なカニをいただいたから、ちゃんとお礼言っといてね」

「分かった、伝えとく」

 山の住民にとって海の幸は貴重だ。市内は海に面しているが、沢瀉町は山に囲まれている。子供時代の食卓は山の幸と川の幸に囲まれていた。

「どうしたの、元気ないじゃない」

「そんなことないよ、大丈夫。そっちはみんな、元気にしてる?」

 突然の指摘に驚き、丸めていた背を伸ばす。さすが母親だ。油断ならない。

「元気よぉ。ああ、でもおばあちゃんがちょっと弱ってるわ」

「え、大丈夫なの」

「肋間神経痛で夜眠れないんだって。一日一度は『ひ孫を見るまで死ねない』って言ってる」

「ひ孫関係なく生きてって言っといて」

 そんなことを言う余裕があるうちはまだ元気だろう。とはいえ、もう八十五歳だ。ひ孫を抱くのが最後の願いなのは知っている。

「仕事も大事だけど、家庭のこともそろそろ腰を落ち着けて考えなさいよ」

 母の忠告は身に染みるが、そうはいかない事情を思い出す。

「確定じゃないから、周りにはまだ言わないでね。来年また出向するかもしれない。引っ越しレベルの距離で」

「え、ほんとに? 戻ったとこじゃない」

 我が家は両親も弟のゆずるも公務員で、三人とも沢瀉町役場に勤めている。父は今年定年で嘱託になった。異動の話は実家相手が一番楽だ。

「知事選、四月だからね。お義父さんが知事選出るのを見越してだと思う。一期目はやっぱり、嫁にいられると困るんじゃないの」

「県なんて受けるから」

「町役場だったら、嫉妬で仕事させてもらえないでしょ」

 まあね、と母は明るく笑う。私が吉継と結婚したことで大変な思いをしているはずだが、そんなことはおくびにも出さない。昔のように泣きながら呼ぶことはなくても、母への信頼はずっと変わっていない。

「今日、吉継くんは?」

「出掛けてる。昼だからそろそろ帰ってくると思うけどね」

「そうね、うちもそろそろ昼ごはんの支度しなくちゃ。祈のとこは何食べるの?」

「猪鹿鍋」

 我が家は年がら年中ジビエ料理だから、あまり代わり映えがない。

「そうだ。うちもこの前吉継くんにもらった鹿肉があるから、それいただくわ。じゃあね」

 母は思い出したように言って、あっさりと通話を終えた。相変わらず一方的で、突然だ。でもそのあっけらかんとしてマイペースなところに救われてきた。今も、救われた。

 恐怖を上書きしてくれた母に感謝して、携帯を置いた。



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