ひとまず調べてみたサブリミナル効果は、私が思っていたより存在が認められているものらしい。テレビ放送では「視聴者が感知し得ない方法でメッセージを伝達する手段」として、適さないものとされていた。聴覚においても、条件はあるものの効果がないわけではなさそうだ。幻覚を引き起こすとは書かれていなかったが、学術的に証明されていないだけかもしれない。可能性のある事例の一つとして、今回の一件は全て記録することにした。
あのあと、吉継は約束どおり寺本へ連絡して事の顛末を報告したらしい。その返答が「奥さんを連れてきて」だった。
「BRPだけは、何を言われても絶対にしないからね」
「だから、大丈夫だって。BRPするから連れて来てって言われたわけじゃないんだから」
何度となく繰り返した念押しを最後にもう一度して、コートの前を深く合わせる。吉継は苦笑のあと、整骨院のドアを開けた。
出迎えた受付の女性は大学生くらいか、私達を見て少し面食らったような表情を浮かべた。吉継の挨拶にぎこちなく返し、ちらちらと私の方を見る。歓迎されてはいないらしい。
「杼機さん、奥へどうぞー」
伸びた語尾に促されて、吉継の後ろをついて通路を奥へと向かう。陽光差し込む土曜午前の院内は想像していたより明るく、清潔感がある。白を貴重とした院内に、観葉植物の緑が美しく映えていた。ただあちこちに置いてあるパワーストーンの大きな原石は気に掛かる。受付の子も、腕に何重にもパワーストーンのブレスレットを着けていた。
通路の両脇には施術ブースが全部で……六つか。四つが埋まり、中から声がするところを見ると繁盛しているのだろう。吉継の話だともう一店舗、ショッピングモールの中にもあるらしい。それでまだ三十代後半だと聞いている。吉継が成功者として教えを仰ぐ理由は、それなりにあるのだろう。
吉継がドアをノックすると、中から明るい声が応える。挨拶してくぐる吉継に続いて中へ入った院長室は、予想より質素な場所だった。奥で腰を上げた寺本のデスクと書棚、応接セットのほかには一際大きな何かの原石が置かれていた。
「はじめまして、寺本です。いつもご主人にはご贔屓にしていただきまして」
客商売に長けた滑舌で慣れた挨拶を繰り出しながら、迎えた寺本は手を差し出す。ブレスレットは三本、水晶と水晶っぽいやつと、もう一本は真っ黒だった。
祈、と小さく促す声に気づいて、おずおずと手を伸ばす。
「はじめまして、杼機です。こちらこそ、夫がお世話になっております」
差し出された手を握られた瞬間、ぞわりとした感覚がさざなみのように全身を走り抜けた。吉継とは違う分厚くて熱い手は、私の手を固めるように握り締める。驚いて見上げると、じっと見据える視線があった。
目の奥に言い知れぬ澱みを見て、慌てて視線を逸らす。寺本は、うん、と呟くように言ってから手を離し、私達をソファへ勧めた。
「ご主人から伺った経緯とさっき握手した感触で分かったんですが、はっきり言っても問題ありませんかね」
白い施術服に身を包んだ寺本は、その清潔さと裏腹に、一つに結ばれた髪は緩いパーマヘアで髭も生やしていた。さすがに野性味のある濃い顔立ちは真似できなかったのだろうが、吉継が誰を目指したのか一瞬で理解できる姿だった。死ぬほど胡散臭い。
「はい、大丈夫です」
私より先に答えた吉継に、寺本は私を見る。品定めするような視線は疎ましいが、原因が分かったのなら知りたい。知って、すぐに帰る。
「私も、大丈夫です」
答えた私に、寺本は膝の上でゆっくりと手を組む。
「奥さん、さっき私の目が怖くて見られませんでしたよね。握手した時、いやな感じがしませんでしたか」
突然の指摘に、目を見開いた。
「憑かれてますよ。多分もうずっと、長いんじゃないですかね。同化してますから。あのCDは、私が神様の力をお借りして作成したものなんです。浄化の効果もあるので、聞いているうちにシンクロ具合にずれが出てきたんでしょう。剥がされそうになって、必死で悪さをしてるんですよ。よっぽど居心地がいいんでしょうね」
「どうすればいいんですか」
相変わらず、私より早く吉継が尋ねる。私はと言えば、あまりに予想外過ぎて、自分のことではないように聞いていた。憑かれているなんて、そんなことあるわけがない。
――いのりぃぃぃ。
ふと脳裏に蘇る声を振り払う。だめだ、違う。消えろ。
「一番いいのはBRPを受けていただくことだと思いますよ。BRPだけはいやだと感じているのはご自身ではなく、引き剥がされたくない魔物です。BRPは私に神様のお力を下ろして行っているので、分かるのでしょうね」
魔物。思わず顔を上げた先で、寺本は私ではないものを見ているかのように焦点を外す。相変わらず、心地よくない視線だ。でもそう思っているのも私ではない、のか。
「人間の霊じゃないですよ、魔物です。あなたがご主人の状況を言い当てたのは第六感などではない、その魔物の力によるものです。どこで憑かれたのか、心当たりはないですか」
まさか、あの時の。
「お願いします」
差し込まれた声に、一瞬ブレた思考が戻る。
「待って、だめだよ」
勝手に申し込む吉継の腕を慌てて掴む。危ないところだった。今の話は、前もって吉継から聞いていれば作れる嘘だ。私はBRPなんて、絶対にするつもりはない。
「ただ、申し訳ありませんが杼機さんにしているものと同じものとはいきません。準備も内容も、施術者である私にもかなり危険が及びますし」
「お金ならいくらでも払います! 祈がそれで昔の祈に戻るなら」
腕を掴んでいる私を意に介さず、吉継は再び勝手な了承をする。でもその苦しげな横顔は、これまで見たことのないものだった。
「祈がこうなったのは僕のせいなんです! どうか、祈を元に戻してください!」
勢いよく頭を下げた吉継に戸惑い、手を離す。
――ごめんね、いのりちゃん。
詫びられたのは、一度だけだった。そのあとはもう何も、まるで何事もなかったかのように戻ってしまった。とっくに忘れられていると思っていたが、そうではなかったのか。もしかしたら、見ないふりをしていただけなのかもしれない。
「分かりました。私の方は、いつでも取り掛かれるように準備をしておきますので」
寺本の声に、意識を引き戻す。それはそれ、これはこれだ。私の了承なしに話を進められるのは、いい加減不快だ。
「必要ありません。私が暗闇に一人でいられなくなったのは経験によるものです。治療したくなったら、認知行動療法を受けます」
と言いつつ、実際には一度受けて挫折している。わざと恐怖に身を置かされるドSな治療法に心が折れてしまったのだ。幸い今は折り合いがついて生活できないほど苦しんでいるわけではないから、このままでいいと思っている。
「私やBRPを拒絶しているのは、あなたではありませんよ。おそらく人であるあなた自身の心は、ご主人の姿を見て揺らいでいるはずですから」
「確かに揺らぎましたが、それは過去の出来事の解釈についてです。BRPに対するスタンスは、全く揺らいでいません」
その若さでここまで店を大きくした理由は分かる気がする。共感力と言えば聞こえはいいだろうが、隙を突いていくのがうまいのだ。でもこちらだって吉継と付き合う中で、人間の裏側をいやになるほど見せられてきた。親族のふりをした腐れ狸や、友達の仮面を被った敵なら見飽きている。
「ご主人を悔いから解放してあげたいとは?」
寺本は少し身を乗り出し、こちらを気遣うような表情で神妙な声を出す。予想どおり、罪悪感を突きに来たのだろう。
「思います。でも大金を積まなければ叶わないような、一部の金持ちしかできないような特殊なやり方を使ってまで解放したいとは思いません。後悔は、自分で見切りをつけるものです。金の力で消してもらうものじゃない」
「なるほど。確かにお伺いしていたとおり、お強い方ですね。でも多くの人はそうではないんですよ。つつけば簡単に折れるほど、罪悪感には脆いんです」
憐れむような視線に釣られて、隣を見る。隣では、頭を抱えた吉継が小さくなったままだ。
「私は許してますし、許せない気持ちがあったとしても今消えました。あとは本人の問題ですが、私が支えます」
支えられるのは、当事者であり妻でもある私だ。BRPではない。
「吉継、帰ろう」
吉継の背をさすり、先に腰を上げる。頭の上で組まれている手を解いて、ゆっくりと繋いだ。冷えた手が少し力を込めて、安堵する。
「僕は、BRPを受けて帰る」
予想外の言葉と共に、指先がすり抜けていく。手はそのまま、私を避けるように折り曲げられた体の間へ消えた。
――よしつぐくん、まって。おいていかないで。
自ずと浮かんだ記憶に、視線を落とす。解かれた手が拳を作っていく。もう、戻ってこないのかもしれない。
「あなたに、というよりあなたに憑いている魔物にとっては唾棄すべきものでしょう。でも、必要な方はいらっしゃるんです。無理強いはできませんがあなたも、人の心が完全に飲まれてしまう前に受けていただければと願っています」
丁寧な物言いが鼻につくのも、私ではない何かのせいなのか。素直には受け入れられず、頭を下げて一人、受付へ向かう。泣きそうになって唇を噛んだ。
魔物だって言うなら、寺か神社で祓えばいい。高い金を払って胡散臭いものに頼るより、よっぽどまっとうだ。
「お帰りですか」
「はい。私だけ、お先に失礼します。主人はもう少しお世話になります」
驚いた様子の受付に大人の挨拶をし、靴箱から引っ張り出したブーツを履く。寺本が気に食わないからといって、従業員に礼を失して良い理由にはならない。
「そうですか……あの」
履き終えて体を起こした私を、女性は物言いたげに見る。
「すみません、なんでもありません。気をつけてお帰りください」
「では、失礼します」
頭を下げて院をあとにする。お祓いなら、とりあえず一宮に行けば間違いないだろう。時間を確かめて、バス停へ向かった。