今日の夕食は、「鴨肉のロースト・ベリーソース添え」らしい。今更だが、我が家のたんぱく質はほぼ全て吉継の獲物だ。数ヶ月の狩猟解禁期間に、吉継は一年分以上の猪や鹿を仕留めてくる。それを収める冷凍庫は、三百リットル近く入る業務用だ。
「というわけで、来週の金曜日は矢上さん一家とぼたん鍋をしたいんだけど、いい?」
「もちろんいいよ。遅くならないように準備しとく」
経緯を伝えると吉継は快諾して、ワイングラスを優雅に傾ける。本日のワインは、フランス産の赤らしい。私の好みに合わせて軽い飲み口のものを選んでくれたが、「飲みやすい」以外の感想が浮かばない。さすがにこのままでは良くないといろいろと勉強しているものの、増えていくのは知識だけだ。どれだけ勉強しても、本物と一流しか知らない吉継の五感に追いつける気はしない。
「嬉しいな。祈が人を呼ぶの、初めてじゃない? お酒、何が飲みたいか聞いておいて」
「喜んでくれるのは嬉しいけど、やりすぎないでよ。気を使わせたくないの」
「気を使うかどうかは、招かれた人が決めることだよ。それに、相手は少なからず『杼機の接待』を期待してくるんだ。安いもてなしは家の格を下げる」
まあそれは、私も何度となく義母に釘を差されている。ほかのことは私の倹しい感覚を許してくれる義母でも、対外的な面に関してだけは違った。
――お客様のおもてなしとお招きを受けた時だけは、惜しまないでちょうだいね。
おかげで我が家の和ダンスには、総額数千万の和服が詰まっている。
「ごめん、そうだったね。任せるよ」
苦笑して、切り分けた鴨肉を口へ運ぶ。脂の多い鴨肉は、私に好みに合わせてローストにしてくれることが多い。程よく脂の落ちた鴨肉の表面は香ばしく、甘酸っぱいベリーソースとの相性も良かった。
「それで、別件なんだけど」
後口をワインで整えながら切り出すと、吉継は頷いて手元から視線を上げる。彫りの浅いなだらかな顔立ちは、いわゆる公家顔だ。色白の細面に、険のないパーツが品の良い大きさでバランス良く収まっている。一目で覚えてしまうようなインパクトはないものの、不快に思う人もいないだろう。華奢で身長も高くない吉継は中性的な印象を嫌って髭を生やしてしまったが、高校時代の清涼な美しさは群を抜いていた。
――祈、好きだよ。そろそろちゃんと付き合おうよ。恋人になろう。
高一の夏、吉継は白い頬を赤く染めつつ照れたように言った。風に揺れる柔らかい髪も青白い半袖から伸びた瑞々しい腕も、全てが絵のように美しかった。まるで、「王子様」のようだった。
「整骨院で受けてるプログラム、あるでしょ。ブレインなんとか」
「ブレインリジェネレートプログラム」
改めて確かめた正式名称に、自ずと眉根が寄る。「脳の再生」なんて、悪趣味にもほどがあるだろう。
「岸川さん達も、あのCD聴いてたんでしょ? それが変に作用したってことは考えられないの?」
「ないよ」
頭を横に振り、吉継は再びナイフを動かし始める。まだ冴え冴えと光を弾く銀は、卒のない所作によく似合っていた。
「CDではサブリミナルでアファメーションを繰り返し聞いてるだけだからね。たとえば、一時間ずっと『私は素晴らしい』って言い続けるのは大変だけど、BGMとして聞いたり眠る時にイヤフォンで聞いたりするだけなら簡単でしょ。無理なく自分の中にあるネガティブな考え方をポジティブな言葉で上書きしていきましょうって道具だから」
「それ、効果あるの? 工学部出身者としてどうなの?」
経済学部出身の私ですら怪しく感じるものを、工学部を大学院まで終えた吉継が認めるとは思えない。
「BRPは、先生の施術や呼吸法を含めて『BRP』だから。CDだけなら多分、それほど効果はないと思うよ。近頃よく流してるし今も流してるけど、祈はなんともないでしょ」
縁の薄いグラスが揺れると、濃い赤も遅れて揺れる。予想もしなかった返答に、思わずアンプへ視線をやった。確かによく流れている、清流音にピアノの旋律を組み合わせたヒーリング系ミュージックだ。食事の邪魔をしない曲だから気にしたことはなかったが、これだったのか。
「サブリミナルってことは、この音楽の裏でその手の言葉がずっと流れてるってことだよね」
「うん、そうだね」
あっさりと肯定した吉継に、眉を顰める。グラスを置き、そのままぶつけないよう深呼吸で八拍置いた。
「私、前に聴きたくないって言ったよ。そういうの、怖いし苦手なの。もし変な言葉が吹き込まれてたらどうするの?」
「先生はそんなことをする人じゃない。それに、商売だよ。バレたら信用を失くすようなことをするわけがない」
優先順位が入れ替わったのはいつだったか、もうかなり差がついてしまったのだろう。昔なら、いやだと意思表示したものはきちんと遠ざけてくれていた。私の思いを、ちゃんと汲んでいてくれたのに。
与えられたものに胡座を掻いていたつもりはないが、三十年近く築き上げてきたものがこんな簡単に崩れ去るとは思っていなかった。
「そうかもしれないけど、私はいやだよ。勝手に考えを書き換えられるなんて」
「書き換えられてないからいいじゃない。祈のネガティブは、こんなCDくらいじゃ変わらないでしょ。本当は僕よりよっぽどBRPを受けた方がいい人なんだけど」
拒絶反応が表情に出てしまったのだろう。吉継は私を一瞥したあとナイフとフォークを置き、ナプキンで口元を拭う。
「大丈夫だよ、無理強いするつもりはないから。こういうのは一番必要な人には届かないものだって、先生も言ってたしね」
まるで悟ったかのような笑みを浮かべて、デキャンタへ手を伸ばした。デキャンタは赤ワインの澱を取り除いたり、空気に触れさせて渋みを和らげたりするのに使うものらしい。でも我が家にある数種類を、吉継が何を基準に使い分けているのかは知らない。
黙って腰を上げ、アンプへ向かう。停止ボタンを押せば、途端に辺りは静まり返った。これまで、何回聴いたのだろう。環境音楽みたいなものだから、フルで聴いたこともあったはずだ。何回、どんな言葉が意識へ刷り込まれようとしていたのか。昨日のあれは、BRPが私に与えた幻覚だったのではないだろうか。
岸川の言動が事故を引き起こすほどおかしくなったのは、「BRPをより積極的に受けていたから」とは考えられないか。
「何か流してよ、ジャズでもいいよ」
背後の声に頷き、スマートスピーカーにジャズを命じる。素直に従ったスピーカーをなんとなく撫でたあと、テーブルへ戻った。
「吉継は、BRPの効果は出てるの?」
「うん。ベストなモチベーションを無理なく維持できてるよ。先生が言うには、僕は既に成功者の脳を持ってるしポジティブだから『劇的な変化』は起きないと思うって。元がネガティブなほど劇的に変わるらしいよ」
吉継はベーグルをちぎり、ベリーソースを拭った鴨肉を載せる。私も倣って、もっちりとしたベーグルを割いた。
「劇的って、どういう具合に?」
「先生は、その人の価値観や思考を変えるために必要なことが起きるって言ってたけどね」
それなら、岸川の身に起きたことと私の身に起きたことが一致しなくても問題はない。吉継におかしなことが起きていない理由も、ひとまずは納得できるものだった。
「私にもBRPの影響、出てるかもしれない。悪影響としか思えないけど」
控えめに伝えると、吉継は少し驚いた表情を浮かべる。
「何かあったの?」
「昨日の夜中に、電話かけてきたでしょ。あのあと」
「いや、かけてないよ」
遮るように返した吉継に、鴨肉へ差し込んだナイフを止めた。酔っていたから、覚えていないだけだろう。
「夜中の二時頃に、酔っ払って電話かけてきたよ。岸川さんの奥さんに死んだのは僕のせいだって責められたって」
吉継は更に驚いて、腰を上げる。携帯を取りに行ったのだろう。食事中は携帯不携帯が我が家のルールだ。私も念のため、自分の携帯を確かめに寝室へ向かった。
仕事用バッグは、そのままクローゼットの前に。
視線を向けた瞬間、固まる。閉めたはずのウォークインクローゼットの扉が開いていた。でも、私じゃない。私は窓や扉が少しだけ開いているのが怖いから、必ずきっちり閉めて確認をしている。ただ吉継も、キッチンで食事の支度をしたあとそのままテーブルに着いたはずだ。
じゃあ、誰が。
「やっぱりかけてないよ。着信履歴に残ってないもん」
背後から聞こえた声にびくりとして、振り向く。向けられた白い画面も確かめたいが、それより隙間だ。
「吉継、あれ……なんで?」
指を差しつつ再び向いた先にあったのは、きちんと閉じられた扉だった。いつもどおり、一枚の白い壁として存在している。
「どうしたの?」
何が、私の周りで何が起きているのか。小走りでバッグへ向かい、中から携帯を取り出す。しかし震える指で開いた着信履歴の中に、昨晩の履歴はなかった。
「昨日の夜中、確かに話をしたの。吉継が僕のせいだって言われたって。岸川さんがレーサーになろうとして、昔の知り合いに連絡取ってたって」
「話した記憶はないけど、あってるよ。確かに奥さんには僕のせいだと言われたし、岸川さんはレーサーに返り咲こうとして昔の知り合いに連絡をとってたらしい」
でも、どちらの携帯にも着信履歴は残っていない。通話したと思っているのは私だけで、でも聞いた内容は事実だった。そんなことが、本当にあるのだろうか。どこからどこまでが、夢だったのか。私は、誰と話していたのか。
「電話が鳴る前に、いやな夢を見たの。昔、山で迷った時のこと。吉継からの電話で救われて、目を覚ましたの。それでしばらく話して寝ようと思ったら、窓が開いてるのに気づいて。でも確かめたら開いてなくて、山で会った化け物が出たの。次に気づいたら、もう朝だった」
化け物の話は、当たり前だが誰も信じてくれなかった。病院にも連れて行かれたものの、五歳の頭では恐怖をうまく処理できなかったのだろうと、確かそんな結論で終わったはずだ。
吉継は黙って私を引き寄せ、抱き締める。不安と恐怖で潰れそうな胸に、温かい熱が沁みた。守られた腕の中でゆっくりとした息を繰り返す。
「もしかしたら、あのCDがトラウマ解消と第六感の覚醒に作用してるのかもね」
「私、どっちも望んでないよ。特に第六感なんていらない」
居心地のよくない話題に、顔を上げる。吉継は眉尻を下げ、まるでわがままを窘めるような表情で笑った。
「いらないって言っても、こういうのはお役目に導かれるものだからね」
「それも、先生の受け売り?」
「そう。先生も神仏の導きを受けて仕事をしてる。神様からご縁をいただいて導かれたって」
皮肉を込めたのに、まるで通じない。寺本の話になると陶酔してしまって、ただのバカになってしまう。
「神仏じゃなくて、CDのせいでしょ。もしほんとに第六感をどうにかされたんなら、元通りにして欲しいんだけど。怖くて生活できなくなる」
日常生活で霊だのなんだのが見えるようになってしまったら、もう外に出られない。
「分かったよ、食べ終わったら先生に電話かけてみるから」
宥めるように私の頭を撫で、吉継は離れて踵を返す。ねえ、と小さく呼ぶ声に足を止めて振り向いた。
「もう、こんなものに頼らなくたっていいじゃない。頼らなくても、今のままでも吉継は十分立派だよ。何になろうとしてるの?」
予想より悲痛に響いた訴えに、吉継は少し目を細めて慈しむような笑みを浮かべる。でもそれも、私の好きな笑顔ではない。
「僕は投資を教えることで、あらゆる人をお金が与えた制限から開放したいんだよ。本来の夢を目指せるようにね。祈だって、子供の頃から公務員になりたかったわけじゃないでしょ」
確かに、子供の頃は違う。子供の頃の夢は「おかあさん」だった。
今の状況なら子供が何人いても教育費に不安はないし、吉継は家事と同じく育児も負担してくれるだろう。吉継は幼稚園派らしいから、三歳までは自宅で育ててもらっても構わない。ただ、今のところ叶っていない。このまま親になる不安が、響いているのかもしれない。
「その夢は否定しないけど、一人死んでるの」
「彼には、僕の真意が伝わらなかったんだよ。リスクを語らず投資を教えたつもりはない」
「そういうことじゃなくて、BRPが」
「BRPが殺したって証拠はないでしょ」
吉継は言葉を遮り、久し振りの苛立ちを眉間に浮かべる。ポスドク時代を思い出す表情だった。でも今回は仕事ではない、私が原因だ。自分の行く手を遮る厄介者か足を引っ張る荷物か、もうそんな存在になってしまったのかもしれない。
「確かに証拠はないよ。でも、『ネガティブなほど劇的』って吉継が言ったんだよ。岸川さんは分からないけど私はネガティブだし、BRPのせいとしか思えないタイミングでおかしな変化が起きてる。吉継がなんともない理由も、筋は通ってると思う。証拠はなかったとしても、『一般人』には悪影響である可能性を考えるべきじゃないの? そんな危ないものを、まだ続けさせるつもりなの?」
吉継レベルのポジティブと成功体験がある人なんて、そう簡単には見つけられない。その水準でなければ私のような恐怖の再現や岸川のような危険行為が引き起こされて、最悪死に至るのならとんでもない話だ。
「偶然が重なることなんて珍しいことじゃない。BRPで起きたって決めつけるのは早すぎるよ。まあ祈のは不思議な効果だから、もしかしたらとは思うけどね。でも岸川さんの事故は、単に自分の腕を過信しすぎたがゆえの暴走だよ。多分、現役時代なら曲がれていたカーブだったんじゃないかな」
「でも」
「大丈夫だよ!」
強く遮る声に、びくりと引く。吉継は我に返った様子で顔をさすりあげ、長い息を吐いた。束ね損ねた髪が零れ落ちて、顔の前で揺れる。
「先生に電話してみるけど、大丈夫だよ。怖がりすぎないで」
弱々しい声で根拠のない「大丈夫」を繰り返し、手の内から疲れた表情をもたげた。
「ごめん、大きな声出して。ごはん食べてしまおう」
詫びと共に差し出された手を握り、連れられてダイニングへ向かう。昔からけんかはしないがこの程度のやりとりはあって、手を繋ぐのが仲直りの印だった。
でも山で迷ったあの時、吉継は繋いだはずの手を振り解いて私を置き去りにした。
テーブルの前で、熱は滑るように離れて消える。指先に残る熱を握り締め、椅子に腰を下ろした。